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美術修復士リュシアン・モロー

三つの試練と泥の絆

作者: 良部らべ子
掲載日:2026/11/08

Geminiさんと作ったものです。

時代考証やらなにやらは全く無視しておりますのであしからず。

プロローグ:破産とキャンバスの裂け目


19世紀末、雨の降りしきるパリ・モンマルトル。

狭く埃っぽいアトリエの中で、美術修復士のリュシアン・モローは頭を抱えていた。使い込まれたデスクの上には、ため息が出るほど山積みにされた催促状と、家主からの容赦ない立ち退き通告書が転がっている。

「……またあの人のツケか」

リュシアンの師であり、偏執的な美意識を持つ異才の画家ジョルジュ・ポルページは、数日前に大量の絵の具と膨大な借金を残したまま、忽然と姿を消したのだった。このままではポルページの連帯保証人にされているリュシアンが破産し、最悪の場合は牢獄行きである。

保身第一のリュシアンにとって、これはまさに人生最大の危機だった。

「逃げるにしても金がいる。あのアラビアンな気取り屋の胸ぐらを掴んで、一発殴ってでも損害賠償金を払わせないと僕の人生が終わる……!」

リュシアンはアトリエの奥、ポルページが消える直前まで取り組んでいた巨大な未完成のキャンバスへと歩み寄った。

そこには、傷ひとつない黒き結晶の塔と、恐ろしいほど緻密な黄金比で描かれた静寂の街が描かれていた。あまりの完成度と冷酷な美しさに息をのんだ瞬間——キャンバスの中央にすうっと幾何学的な亀裂が走り、眩い光とともに「現実の空間」が歪み始めた。

絵の具の匂いとは違う、冷たい金属と湿った泥の匂いが空間に満ちていく。

「……まさか、絵の中に逃げ込んだとでもいうのかい、師匠?」

リュシアンは泥に汚れることを嫌う繊細な美青年らしく顔をしかめながらも、背に腹は代えられないと、固く拳を握りしめた。彼はジャケットの襟を立てると、破産と逮捕から逃れるための「保身の旅」として、その絵画の裂け目へと身を投げた。


第一章:三つの試練と泥の絆


絵画の裂け目を潜り抜けたリュシアンを待っていたのは、着地の衝撃と、顔面にへばりつく冷たい泥の感触だった。

「うぐっ……! 痛たた……最悪だ」

体を起こすと、そこは永遠に陽の光が届かない地底の廃坑道だった。水滴が滴る不気味な暗闇と、見渡す限りの泥。19世紀末のパリで着慣れていた仕立ての良い上着は見る影もなく汚れ、彼が本来持っている繊細な美青年の面影を台無しにしている。

「あの気取り屋の師匠め……帰ったら絶対にクリーニング代も請求してやる……」

愚痴をこぼしながらズボンの泥を払っていたその時——暗闇の奥からガサガサと不穏な音が響き、頭上の岩陰から小さな影が滑り落ちてきた。

「ひっ……! た、助けて……!」

悲鳴を上げて転がり込んできたのは、緑色の皮膚に大きな耳を持った、まだ幼さの残るゴブリンの少年だった。身を縮こまらせ、ボロボロの服を濡らしながら激しく怯えている。その背後からは、鋭い岩角のような足音を立てて、不気味な黒き結晶の蜘蛛たちが追ってきていた。

リュシアンは一瞬、関わりを避けて逃げ出そうとした。だが、震えるゴブリンの少年と目が合った瞬間、持ち前の「美術修復士としての眼」が働いてしまった。

「チッ……接合部の甘い突貫作りのカラクリ蜘蛛かよ!」

リュシアンは足元に転がっていた太い木切れを拾うと、身を躍らせて蜘蛛の足関節——最も強度の脆い隙間へ容赦なく突き立てた。

——バキィッ!

支えを失った結晶蜘蛛は自重でひっくり返り、ガラガラと崩れて動かなくなった。

息を切らすリュシアンの前に、助かったゴブリンの少年がおそるおそる顔を上げた。その大きな瞳には、恐怖の代わりに溢れんばかりの驚きと感動が宿っていた。

「す、すごいや……! 武器も持ってないのに、一瞬で退治しちゃうなんて……!」 「おい、怪我はないか? ……はぁ、服がさらに泥まみれだ」 「僕、ゲブっていうんだ! お兄さん、名前は?」 「僕はリュシアン・モロー。ただのしがない美術修復士さ。ポルページという気取り屋の元師匠を探して連れ戻しに来ただけだ」

「ポルページ様を探してるの!? じゃあ、都へ行くんだね! 僕、都までの抜け道を知ってるよ。案内してあげる!」 「……ゲブ、念のために言っておくがね」リュシアンは額の汗を拭いながら釘を刺した。「僕はただの保身でここへ来たんだ。君たちのために立ち上がった正義の騎士なんかじゃない」 「うん! ヒーローはみんなそうやって謙遜するものだって、僕知ってるよ!」 「人の話を聞きなさい」

こうして、破産を回避したい修復士リュシアン・モローと、彼をヒーローと崇めるゴブリンの少年ゲブの「泥臭い旅」が始まった。

しかし、黒き結晶の都へと続く地下道は、決して安全な抜け道ではなかった。

「……止まって、兄貴。何か来る!」

ゲブが耳をピクッと動かし、身を低くした。暗闇の奥から、ガタガタと重苦しい金属と石の擦れ合う音が響いてくる。

現れたのは、身の丈が二メートルを超える巨大な彫像のような異形だった。右腕には繊細な大理石の飾りが施されているのに、左腕は粗雑な岩塊のまま。顔の半分は美しい青年の面影を残しつつ、もう半分は崩れ落ちたまま放置されている。

「ポルページ様……いや、あの王様が作った『失敗作』だよ!」ゲブが怯えた声で叫ぶ。「完璧な美しさになれなかったって捨てられたやつらが、この地下道で暴れてるんだ!」

不完全な彫像ゴーレムは、侵入者を排除しようと太い腕を振り上げた。直撃すれば人間など一たまりもない。

「逃げるぞ、ゲブ!」 リュシアンは叫びかけたが、ゴーレムの動きを一目見た瞬間、彼の頭の中で「美術修復士」としての職業病が弾けた。

「……待て。なんだあのアンバランスな重心は。右半身だけに無駄な装飾を詰め込みすぎて、重量のバランスが完全に崩れている。それに、左膝の継ぎ目——大理石と粗悪な石灰岩の接合部に巨大な亀裂(クラック)が入っているぞ!」

「えっ……?」

「ゲブ! 君の素早さならあの足元に潜り込めるか! 力をかける必要はない、左膝の亀裂に何か固いもので衝撃を与えるだけでいい!」

「わ、分かった、やってみる!」

ゲブは泥を蹴って疾走した。ゴーレムが振り下ろした腕をすんでのところでかわし、指示された左膝の亀裂へ、手にした鉄くずを全身の体重を乗せて突き立てる。

——パキィン!

甲高い音とともに破綻した構造が限界を迎え、巨大なゴーレムは自らの重みに耐えかねてバランスを崩し、ガラガラと大音量を立てて足元から崩壊した。

「すごいや兄貴! 武器も使わずに、一瞬で化け物の弱点を見抜いて倒しちゃった!」

「いや、倒したというか……あんな構造欠陥だらけの代物を放置するなんて、修復士の目からすれば失格だって言いたかっただけで……」

「やっぱり兄貴は最高の頭脳派ヒーローだ!」

「頼むから話を聞いてくれ」

危険を乗り越え、地下道のさらに奥へと進んだ二人は、都の直下へ至る重厚な黒鉄の扉に行き当たった。扉の表面には無数の宝石が埋め込まれており、その中央には冷酷な文字が刻まれていた。

『完璧なる調和を選び取れ。醜悪なる選択には死を下す』

「正しい石の組み合わせを選ばないと、壁から黒い結晶の針が飛び出してくるんだ……」ゲブが身震いする。

「完璧な調和、ねぇ……」リュシアンは扉の前に立ち、埋め込まれた宝石群をじっと見つめると、呆れたように鼻で笑った。「本当に分かりやすい男だよ、あの師匠は。あの男は黄金比と絶対的な左右対称(シンメトリー)に病的なまでに執着する。構図の中に少しでも崩しが入るのを反吐が出るほど嫌うんだ」

リュシアンは迷いなく手を伸ばすと、非対称に配置されていた鮮やかな赤と緑の宝石を無視し、完全に数学的で無機質な正三角形を形作っている青い結晶だけを順番に押し込んでいった。

「この色配置もそうだ。感情を揺さぶる情熱的な色を嫌い、冷徹な青と銀だけを好む。絵画の基礎としては完璧かもしれんが、面白みも何もない……!」

ブツブツと愚痴をこぼしながら最後の結晶を押し込むと、地響きを立てて重い扉がゆっくりと開き始めた。

トラップをあっけなく解除し、二人は開かれた扉の先へと足を踏み入れた。

その先に広がりを見せたのは、これまでの薄暗い廃坑道とは一線を画す光景だった。広大な地下洞窟一面に咲き乱れる、漆黒の結晶の花々。それらはポルページの漏れ出す魔力によって形成されたものであり、暗闇の中で妖しく黒銀の光を放っている。

(美しい……。なんて完璧な空間なんだ。現実のパリにあったどんな絵画や彫刻も、この美しさには及ばない……)

美術修復士として本物の「美」を追い求めてきたリュシアンの眼識が、その完璧すぎる芸術性に囚われそうになる。意識がホワイトアウトし、自分という存在が結晶の一部として溶けていきそうになったその時——

「——兄貴! 兄貴、しっかりして!」

グイッと、強い力で服の裾を引っ張られた。

リュシアンがハッと正気に戻って足元を見ると、そこには泥と汗に塗れたゲブが、心配そうに見上げていた。大きな手に伝わってくるのは、温かく、泥臭い、確かな生の温もりだ。

(そうだ……美しさってのは、こういう温かい生身の命があってこそ成り立つのだろ)

リュシアンの中で、何かが明確に変わった。最初は破産から逃げるためだけに飛び込んだ異世界だった。しかし今、彼の中に「あの狂った師匠の美学を、正面からぶん殴って否定してやる」という、熱い怒りと覚悟が芽生えていた。

「大丈夫だ、ゲブ。ちょっと眩しかっただけさ」

リュシアンはゲブの頭を乱暴に撫で、前方の頭上を仰ぎ見た。洞窟の最奥、見上げるほど高い天井の亀裂から、冷たく壮麗な「黒き結晶の都」の光が漏れ出している。

「行こう。あの気取った『黒き美の王』に、現実の泥臭さを教えにさ」

「うん! どこまでもついていくよ、兄貴!」


第二章:冷たき箱庭と奪われた光


地下道を抜けた先に広がっていたのは、息をのむほど壮麗で、そしてゾッとするほど冷たい「黒き結晶の都」だった。

光源すら黄金比に基づいて計算されたその街には、曖昧な影や生活の汚れといったものが一切存在しない。通りを行き交うエルフたちは皆、完璧な美貌を持ちながらも無感情で、息を吐く音すら立てずに滑るように歩いている。

「あ、兄貴……影がないよ。どこに隠れればいいんだ……?」 「息を殺せ、ゲブ。あいつらの視線のアングルと歩行パターンを観察するんだ。完璧すぎる配置には、必ず計算上の『死角』が存在する……!」

泥と汗に汚れ、血の通った生の温もりを纏うリュシアンとゲブの存在は、この無菌室のような都においてあまりにも目立つノイズだった。リュシアンは美術修復士としての鋭い観察眼をフル回転させ、エルフたちの視線が途切れる微小な隙間を縫うようにして、ハラハラしながら路地裏へと滑り込んだ。

しかし、幾重にも巡らされた監視の目は厳しく、二人はついに街の端にある小さな彫塑工房の行き止まりへと追い詰められてしまう。

「……ここまでか!?」 リュシアンが歯を喰いしばり、ゲブを庇うように身構えたその時——ガタリと工房の勝手口が開き、細い手が二人の襟首を掴んで暗闇の中へと引きずり込んだ。

「静かに」

追っ手の兵士たちが通り過ぎるのをすまし顔でやり過ごしたのは、どこか怠惰な目つきをした一人のエルフの青年だった。彼は無事に兵士が去ったのを確認すると、泥まみれのリュシアンとゲブを面白そうにジロジロと検分し始めた。

「完璧で平坦なこの箱庭に、なんて無様で、歪で、血の通った『異物』なんだ……素晴らしいね」

「た、助かったのか……? 君は一体……」 「僕はただの気まぐれな美術修復士さ。もっとも、王の創る退屈な黄金比に欠びが出ているせいで、この都では『異端』扱いされているけれど」

エルフの青年はくすりと笑うと、工房の奥に転がっていた黒銀の古い外套を二人に放り投げた。そして、王宮の最下層に通じる「廃棄素材の搬入口」の存在と、その鍵の仕掛けを淡々と教え始める。

「ポルページ王の創る世界は退屈すぎる。君たちのような汚いノイズが城へ殴り込むところを、陰から見てみたいのさ」

「……随分と物好きなエルフだな。どうせなら、一緒に城まで来て戦ってくれないかい?」 リュシアンが軽口を叩くと、青年は冷ややかな笑みを深め、ゆっくりと首を振った。

「フッ、滅多なことを言うもんじゃないよ。僕はこの美しく退屈な街で、これからも優雅に暮らしたいんでね。……成功を祈るだけにしておくさ」

去り際に投げかけられたその皮肉混じりの一言を背に、二人は教えられた隠し通路を通り、ついにジョルジュ・ポルページの君臨する「黒き結晶城」の最下層へと潜入を果たした。

だが、廃棄口の先にある地下区画で二人が目にしたのは、異様な光景だった。そこは、ポルページによって「醜悪な失敗作」と吐き捨てられた資材やガラクタが投げ込まれる巨大な集積場であり、同時に無数の黒い結晶の檻が並ぶ地下牢でもあった。

檻の中に閉じ込められていたのは、ゲブたちゴブリンだけではない。身なりを乱され、傷を負ったエルフたちの姿があった。彼らはポルページの絶対的な美学に疑問を呈し、反論したことで「王の美を汚す害毒」としてこの暗闇に破棄された者たちだった。

「無駄だ……諦めろ……」 檻の奥で、気力を失ったエルフの一人が虚ろな目で呟く。 「王の仰る通りなのだ……。僕たちの故郷の森は、樹々が不揃いに枝を伸ばし、葉の間から漏れる光は二度と同じ形にならないほど不規則で、混沌としていた……。完璧な直線も無垢な結晶もない僕たちの美意識は、最初から醜く、間違っていたのかもしれない……」

自暴自棄になるエルフの言葉に、ゲブがそっと寄り添った。ゲブはボロボロのポケットの中に手を突っ込むと、地下道で拾い集めていた「何の変哲もない小さな石ころ」を取り出し、愛おしそうに見つめた。

「そんなことないよ」ゲブの低い、けれど澄んだ声が薄暗い地下牢に響く。「僕たちゴブリンはね、足元に落ちてる普通の石ころが大好きなんだ。丸い石、角ばった石、ザラザラした石……どれ一つとして同じ形がない。その一つひとつの違っているところが面白くて、すごく綺麗だと思うんだよ」

エルフは目を見開き、息をのんだ。

「そうさ」リュシアンが重々しく足踏みを鳴らし、静かに言葉を重ねる。「風に揺れる枝葉から漏れ差す、木漏れ日の不規則な美しさも。手のひらの中にある、世界にたった一つしかない不揃いな石ころの美しさも……全部、生きているからこそ生まれる本物の美だ。あいつが地上で作っているのは、傷つくことも変わることも拒んだ、ただの冷たい死体(ゴミ)に過ぎないんだよ!」

醜悪な害獣と見下していたゴブリンの言葉、そして人間に過ぎないリュシアンの怒り。その二つが重なった瞬間、囚われていたエルフたちの瞳に、忘れていた「森の記憶」と熱い光が蘇った。

「出そう、みんなを!」

リュシアンが修復士の知識で結晶の檻のジョイント部を破壊すると、扉が一斉に解き放たれた。誇りを取り戻したエルフたちと、ゲブに呼応したゴブリンたちが一丸となり、城内へと雪崩れ込んでいく。完璧を誇っていた城内に、かつてない怒号と鐘の音が響き渡り、大混乱の渦が巻き起こる。

「行くぞ、ゲブ! 奴らに紛れて一気に上へ登る!」 「うん、兄貴!」

兵士たちの意識が暴動の対応へ逸れた隙を突き、リュシアンとゲブは螺旋階段を駆け上がった。二人はついに、城の最頂部に位置する巨大な黄金の扉の前へと到達した。扉の隙間からは、凍りつくようなポルページの圧倒的な魔力が漏れ出している。

リュシアンは泥に汚れたジャケットの襟を正し、固く拳を握りしめた。

「待たせたな、ポルページ。……現実の泥臭いツケを、払ってもらう時間だ」


第三章:不規則な木漏れ日と不揃いな石ころ


圧倒的な威圧感を放的黄金の扉が地響きを立てて開き、その奥から凍りつくような冷気が溢れ出した。

最奥の玉座に鎮座していたのは、かつてパリのアトリエから姿を消したリュシアンの師——ジョルジュ・ポルページだった。漆黒の結晶を纏い、人外の美貌を手に入れた「黒き美の王」は、冷酷な眼差しでリュシアンとゲブを見下ろした。

「……なにをしに来たんだ。何が美しいのか理解できない若造が」

その声には、生命の温もりを徹底的に排した氷のような軽蔑が込められていた。だが、かつて師の影に怯えていたリュシアンは、もうどこにもいなかった。

「相変わらずの挨拶だな、ポルページ。……僕がここへ何をしに来たかだって? 決まってるだろ。アンタをモンマルトルのアトリエへ引きずり戻すためさ。アンタが置き去りにした未完成のキャンバスと、異界化で吹き飛んだ屋敷の損害賠償金の支払書を持ってね!」

ポルページの端正な眉がひくついた。現実的な金の計算という最も「泥臭い雑音」を突きつけられ、絶対的な美の王の表情に不快感が走る。

「破産と逮捕から逃げるための保身でここまで来た……それは否定しない。だがな、ポルページ」 リュシアンはゲブの肩にぽんと手を置き、まっすぐに師を指さした。 「アンタの創ったこの街や城を見て確信したよ。美しさを理解できていないのはアンタの方だ! 傷ひとつない結晶も、計算し尽くされた黄金比も、ただの息苦しい死体だ! 風に揺れる枝葉から漏れ差す木漏れ日の揺らぎも、不揃いな石ころが持つそれぞれの形も、傷つきながら泥を跳ね上げて今日を生きてるコイツらの温もりも……その全部を切り捨てて作られた『完璧』のどこに、本物の美しさがあるって言うんだ!」

「黙れ……! 醜悪なノイズどもが、私の完成された世界を汚すな!」

ポルページの凄まじい咆哮とともに、玉座の間全体から数千の黒き結晶の槍が湧き出し、殺意となって襲いかかった。

迫り来る結晶の突刺を、リュシアンとゲブは必死に身を翻してかわした。破片がリュシアンの頬を掠め、鮮血が伝う。だが、力なき修復士であるリュシアンは、逃げ回りながらもその瞳の奥で「専門家の眼差し」を研ぎ澄ませていた。

(観察しろ……冷静になれ。どんな緻密な絵画にも、時代による絵の具の歪みや亀裂(クラック)が必ず存在する……! 見えたぞ! ポルページ! アンタの美意識はどこまでも完璧だ。……だが、完璧すぎるが故に『遊び』が一切存在しない! 幾何学的に隙なく組み上げられた構造は、一度想定外の衝撃を受ければ、その歪みを逃がす場所がない! ほんの僅かな『不規則なノイズ』が混ざるだけで、全体が連鎖崩壊を起こす致命的な接合欠陥(クラック)がそこにある!)

リュシアンは背後のゲブへ振り返り、叫んだ。 「ゲブ! ポケットの石ころを貸してくれ!」

「う、うん! これを使って、兄貴!」

ゲブが差し出したのは、地下道で拾い集めていた、何の変哲もない不揃いな泥のついた石ころだった。

リュシアンはその石ころを握りしめると、魔法でも剣でもなく、泥臭く大地を蹴って駆け出した。ポルページが放つ圧倒的な魔力の隙間を縫い、都の構造を支える「最も美しく、最も過密な結晶の結び目」へと躍りかかる。

「修復士の仕事を教えてやるよ、ポルページ! 傷を隠して完璧を装うのが修復じゃない……傷も含めて、生きてきた歴史を受け止めるのが修復なんだよ!」

——ガキィン!!!

リュシアンの手から放たれたただの石ころが、完璧なる結晶の支点へと叩きつけられた。

一瞬の静寂。

次の瞬間、計算し尽くされた空間に「泥のついた不揃いな石」という予期せぬノイズが打ち込まれたことで、ポルページの城全体に目に見えるほどの巨大な亀裂が走り始めた。

「な……馬鹿な!? 私の完璧な美が……崩れていく……!?」

パキパキと音を立てて、絶対美の防壁が連鎖的に砕け散る。ポルページの纏っていた黒き魔力は霧散し、ただの「現実から逃げ出した元絵描き」の姿へと戻って床に膝をついた。

崩れ去る城の最上階。空間の歪みの中心に、パリのアトリエへと続く「絵画の裂け目」が光を放ちながら再び開き始めていた。

リュシアンは魔力を失ったポルページの襟首をガシッと掴み上げた。

「さあ帰るぞ、元師匠。現実のドロドロした生活と、膨大な請求書が待っている」

「……あ、兄貴……」

引き留めるような声に振り向くと、そこには溢れる涙を拭おうともせず、立ち尽くすゲブの姿があった。

「兄貴……行っちゃうの? 一緒にここにいちゃ、ダメなの……?」

リュシアンはポルページを床に転がすと、ゲブの前へしゃがみ込んだ。そして、自分が着ていた泥と汗で汚れた上質な上着を脱いだ。

「僕の服は、君には少し大きすぎるが……まあ、日よけくらいにはなるだろ。ヒーローのマントだと思って着ておきな」

リュシアンはその大きすぎる上着を、ゲブの細い肩にやさしくかけてやった。ダボダボの袖から小さな手を出したゲブの手に、さっき城を打ち砕いた「あの不揃いな石ころ」を握らせる。

「泣くな、ゲブ。君はもう、僕の後ろをついてくるだけの弟分じゃない。……木漏れ日と不揃いな石ころの美しさを目撃した、この世界の立派なヒーローだ」

「あ……兄貴ぃ……っ!」

ゲブは大きすぎる上着の袖で何度も目を擦りながら、握りしめた石ころを胸に抱きしめた。

「ありがとう、兄貴……! 僕、絶対忘れないよ! 兄貴が教えてくれた本物の美しさも、僕のヒーローだってことも!」

「ああ。僕も忘れないさ」

リュシアンはニッと爽やかに笑うと、泣きじゃくるゲブに背を向け、ポルページを引きずりながら光の扉へと足を踏み入れた。背後から、ゲブの「バイバイ、兄貴! バイバイ!」という叫び声が、いつまでも響いていた。


エピローグ:不揃いな石ころが描く未来


光を抜けた先に待っていたのは、見慣れたモンマルトルの埃っぽいアトリエだった。

「……痛たた。相変わらず酷い現実だ」

リュシアンは床に転がるポルページを見下ろし、呆れ顔でため息をついた。これから家主への言い訳や賠償金の交渉、そしてこの偏執的な師匠の再教育という山のような「泥臭い現実」が待っている。

だが、彼の心は不思議なほど晴れやかだった。

モンマルトルのアトリエに戻ってから、どれほどの月日が流れただろう。ポルページは相変わらず不平を垂れながらも現実のキャンバスに向かい、リュシアンは日々の絵画修復に追われていた。

ふと息抜きに窓の外を眺め、あの異世界へと繋がっていた古い絵画に目をやる。不思議なことに、あの絵の中の景色は、かつての冷たい箱庭からすっかり姿を変えていた。

ポルページの支配が消え去った「黒き結晶の都」は、いまやかつての冷徹な静けさを失い、豊かな雑音と活気に満ちあふれていた。

城の瓦礫が散らばる広場。そこでは、かつてポルページに「醜いノイズ」として切り捨てられていたエルフたちが、泥まみれになりながらも笑い合い、ゴブリンたちと共に街の再建に汗を流していた。

その中心に立っていたのは——あの日の少年だった。

リュシアンから貰った、自分には不釣合いなほど大きすぎる黒銀の上着をすっぽりと羽織り、ダボダボの袖をまくり上げたゲブ。彼の足元には、相変わらず無数の「不揃いな石ころ」が転がっている。

ゲブは道行くエルフの子供たちに囲まれ、手に持った石ころを一つひとつ見せながら、誇らしげに何かを語っていた。

「見てごらん、この石はちょっといびつだけど、だからこそ面白い形をしているんだ。世界に二つとない、僕たちだけの宝物さ!」

その言葉にエルフの子供たちは目を輝かせ、近くに生えていた樹々の隙間から、美しい木漏れ日が彼らの頭上にふわりと降り注いだ。

完璧な対称性も、永遠の冷たさもない。けれど、傷つき、不揃いで、だからこそ温かいその世界は、かつてどんな芸術作品よりも美しく輝いていた。

アトリエの窓辺で、リュシアンは思わずフッと小さく笑った。

「……やりすぎたかな。すっかり、あいつの方がいい『ヒーロー』になっちまったな」

呟きながら、リュシアンは自分の手元を見る。長年使い込んで傷だらけになった修復用のヘラ、絵の具のハネたジャケットの袖。そのすべてが愛おしく、誇らしく思えた。

彼はもう一度、描きかけのキャンバスに向き直る。そこには、過去の傷や歴史を隠すことなく、むしろその陰影ごと鮮やかに蘇らせようとする、リュシアン・モローにしか描けない「本物の美」が息づいていた。

――遠く離れた世界の片隅で。 大きすぎるヒーローのマントを翻し、不揃いな石ころをポケットに詰めた小さな少年は、今日も仲間たちと共に、新しい明日へと歩み始めている。


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