第八十九話 ハンナとユーキ
承前
ユーキたちはマーシーとマリアに礼を言って別れ、再びハンナの家に向かった。
クルティスは結局マーシーの家には現れなかった。訝しく思いながらユーキたちがハンナの家に戻ると、クルティスはまだそこにいた。ハンナと一緒に蹲むと大きな体を窮屈そうに縮めて顔を前に突きだしたり引っ込めたりと変な仕草をして、変な声を上げながら腕を上下に振ってうろつき回っている。
「クルティス。何をしているんだ?」
「殿下、見てわかりません? 鶏じゃないですか、鶏。コケーッ! コケーッ!」
ユーキが尋ねてもクルティスは立ち上がらずに首だけで振り返り、またじたばたと動き回っては奇声を上げている。その様は鶏と言うには逞しすぎ、振り回す腕は羽搏いているようにも見えない。手負いのバジリスクが暴れ回っていると言った方がまだ近い。
その様子を見てハンナがケラケラと笑って言った。
「クル兄ちゃん、へた―。こうだよ。コケーコゥコッコケーッ!」
「こうか? コケーコッコケーコ!」
「ちがうよ、こうだよ、こう。コケーコッケッコゥコーコケッ!」
ハンナがやると、確かに鶏が飛び上がろうとしているかのようだ。その器用な物真似を見て、クルティスは蹲んだままで呻いた。
「むー、駄目だ、難しい。ハンナちゃんは何をやっても上手だなー」
「えへへ。あ、このひとがさっき言ってたえらいお兄さん?」
「ああ、そうだ。家鴨の真似が巧いんだぞ」
「ほんとう? ねえ、えらいお兄さん、やってみせて、やってみせて」
ハンナは明るい声を上げると立ち上がって、ユーキの方に走り寄ってきた。
ユーキは困惑した。
「家鴨って、クルティス、お前なあ……」
だが、ハンナは目の前まで近寄ってきて、期待に満ちたキラキラした目でこちらを見上げている。
さっきの怯えた姿とはまるで違う。クルティスがどうにかして安心させたのだろう。それを無碍にすることなど、できそうにない。
僕はこれでも王族なんだけど。王族はどうあるべきとか、威厳とか、ついさっきマーシーさんと話したばっかりなんだけど。
でも、止むを得ない。
ユーキはさらに輝きを増すハンナの無垢の目に負けて覚悟を決めた。
やる以上は精一杯に。ハンナちゃんがもっと笑顔になってくれるように。
蹲って大きく息を吸うと、首を精一杯に伸ばし顔を高く上げながら両手をばたつかせ、膝を折ったままの脚を拙く動かしてそこいらを懸命に歩き回った。
「グエーグエー。グヮッ! グワッグヮグワッ!」
……王子様の有り得ない姿と鳴き声に、この上なく気まずい静寂が場を支配した。
ハンナ以外のその場の全員の顔が真っ赤になる。
アデリーヌは口を両手で必死に押さえて肩を震わせている。クルティスは同じように体を震わせながら唇を噛んで空を見上げ、流れる雲を見送る振りをしている。村長とハンナの両親は何をどうすることもできず全身を硬直させている。
ユーキ自身は立ち上がれず、膝を抱えて蹲ったままだ。
だが、ベアトリクスが我慢し切れずに「ブフッ」と噴き出したのをきっかけに、全員が一斉に笑い出した。ユーキも下を向いていたが、すぐに腰を地面に落とし両手を後ろに突いて顔を上げて爆笑の輪に加わった。
その声が収まる頃、ハンナが笑顔でユーキに近付いてきた。
「さすがはえらいお兄さんね。まあまあじょうずよ。クル兄ちゃんよりよかったわ」
「有難う。お褒めにあずかり、嬉しいよ」
ユーキは立ち上がり両手の砂を払って苦笑いしながら答える。そこにクルティスが「殿下、今なら」と耳打ちしてきた。ユーキは頷いてハンナに話し掛けた。
「ハンナちゃん、少しお話ししていいかな?」
「うん、いいよ」
するとクルティスが「殿下、蹲んでください」とまた囁いてきた。言われた通りに腰を落とすと、目線の高さがハンナと合った。
なるほど、誰だって見下ろされながら何か言われたら怖いよな。
「ハンナちゃん、嫌な話だったらごめんね。この前、よそから来たおじさんに手を引っ張られた時のことだけど」
ハンナの顔が曇る。
とても怖かったのだろう。どうやら事実に間違いなさそうだ。思い出させるのは気が引ける。でもここまで言ったら最後まで聞かないと。
ユーキはできる限りの優しい声で尋ねた。
「やっぱり怖かったかい?」
「ううん。すぐにマーシーおじちゃんがたすけてくれたから。ケン兄ちゃんが母ちゃんといっしょににがしてくれたから。さいしょはいたくてこわかったけどだいじょうぶだった。でも……」
「でも?」
「マーシーおじちゃんや母ちゃんがハンナのせいでたたかれて、いたいことをされて。かなしかったの」
ハンナの声が震え目に涙が浮かんできた。その目を頑張って見開き、泣きそうになるのを堪えている。
「そうか。マーシーさんやお母さんが叩かれたのが、痛かったのが嫌だったんだね」
「うん。ねえ、えらいお兄さん、あのひとたち、またくる? ハンナのせいで村のみんなに、いたいことする? ごめんなさい。ハンナ、いい子にするから。みんなにいたいことさせないでください」
堪え切れずに、ハンナが両目から涙の粒をひとつ、ふたつと零し始める。
ああ、僕が思っていたのとは違った。自分が怖かったからじゃない。こんな小さな子でも、自分のことじゃなく、他の皆を心配して苦しんでいるんだ。やっぱり、この村は全員が家族なんだ。
ユーキは手巾を取り出してハンナの頬の涙を拭いてあげながら答えた。
「来ないよ。大丈夫、もう来ない。ハンナちゃん、良く聞いてね?」
「……うん」
「あの二人、マーシーさんやお母さんに痛いことをしたあの二人は、神様の所へ呼ばれて行ったんだ」
「かみさまのところ?」
「そうだよ。そこで、ハンナちゃんやマーシーさんに酷いことをしたことを、神様にきつく、とってもきつく叱られたんだ。ハンナちゃんは良い子でなんにも悪くありません、この村のみんなを叩いたり蹴ったりしてはいけません、って。そして、もう二度と村へ行っちゃいけません、って言われた。だから、もうここへは来ない」
「ほんとうにもうこない?」
「ああ、来ない」
ハンナは周りを見た。クルティスと目が合うと、クルティスが言った。
「偉いお兄さんの言う事だから、間違いない。もう来ない」
ベアトリクスやアデリーヌも、ハンナと目が合うと優しく頷いたり、「ええ、大丈夫よ」と言う。それを聞いているうちに、得心が行ったのだろう、ハンナの顔が次第次第に明るくなってきた。
ハンナはもう一度ユーキの顔を見ると、まだ目に残る涙を袖で拭いた。そして両手を胸の前で握り合わせ、幼な児とは思えない真剣な表情になった。
「お兄さんにおねがいがあります。『むらの人たちがあんしんしてくらせるようにしてください』って、こくおうへいかさまにつたえてください」
「うん。わかったよ。ちゃんと伝える」
ユーキは胸が詰まる思いがしたが、何とかそう答えると、ハンナはまた明るい表情に戻った。
「よかった! ハンナ、マーシーおじちゃんにおしえてくる!」
そう言うと、マーシーの家の方へと駆けて行った。
ユーキは何とも言えない気持ちでそれを見送った。
ハンナの顔が目に焼き付いて、消えて行かない。僕を最初に見た時の怯え顔。マーシーと母親の事を話した時の泣き顔。安寧を訴えた時の真剣な顔。そして今の安堵した顔。
王都にいる菫さんや菖蒲さんの笑顔を思い出してしまう。彼女たちは花街で禿として働いてはいても、幸せそうにいつも笑っていた。
一方で幼いハンナはこの村で、あんな顔をせざるを得ない経験をしている。もう二度と、そんな思いをさせたくない。させてはならない。
ハンナの姿が見えなくなると、ハンナの両親が口々にユーキに礼を言った。
「申し訳ありません。有難うございました。お蔭さまで、ハンナが元気になりました。私たちから離れて一人で外へ出るなんて、あれ以来、初めてです」「しかも、あんなに明るくなって……本当に、皆様のおかげです」
「私たちは大したことはしていません。でも、よかったですね」
「本当に、ありがとうございます」
「ハンナちゃんの願いは村の皆さん全員の願いですよね」
ユーキの問いに、父親が慌てて頭を下げながら答えた。
「申し訳ありません。多分、私たちが普段、国王陛下様がお助けくだされば、村がまた安心して暮らせるようになればと、繰り言のように言っているのを聞いて、憶えたんだと思います。どうか失礼をお許しください」
「いえ、村の皆さんの願いとして、陛下にきちんと伝えます」
「有難うございます! そうしていただければ、どんなに有難いか……どうか、どうかよろしくお願いいたします」
「わかりました。どうかハンナちゃんと三人で、仲良くお暮しください。それでは、私たちはこれで」
両親が頭を深く下げて見送る中、ユーキたちは村長宅に向けて立ち去った。
村長は、夕食の支度を急がせるから、と言って先に小走りに帰って行った。彼らを急かすことにならないよう、ユーキたちは話をしながらゆっくりと帰ることにした。
「なあ、クルティス。どうやってハンナちゃんと仲良くなったんだ?」
「簡単です。ハンナちゃんが一番信頼しているのは両親です。だから、ハンナちゃんのことは無視して両親の作業を手伝ってました。両親と仲良くしてたら、こいつは安全だと安心するんです。そうしたら、元々は明るくて人懐っこい子らしくて、すぐに向こうからちょっかいを出してきたんですよ。そこで、自分も子供になって一緒に遊ぶんです」
「なるほど……」
「この時に、真剣に遊ぶのがコツですね。遊んでやるという姿勢や、楽しんでる振りじゃあ、駄目です。簡単に見破られちまいます。むしろ自分の方が楽しいぐらいの勢いで、ですね」
「そうなんだ。確かに、楽しそうだったよ」
「はい。あっさり貶されちゃいましたけど。で、その後に両親の許しを得て一緒に飴を食えば、もう仲良しです。あ、飴、友達と分けろ、って言って全部あげちゃいました」
「お前らしいなあ。本当に子供好きだよね、お前」
「いいえ。別に子供は好きじゃあありませんが、しょげてるところを見るのが嫌なだけです」
「そう? でも助けられたよ。有難う」
ユーキが礼を言うと、クルティスはきっぱりと首を横に振った。
「いえ、助けてはいません」
「え?」
「誰かを助けることができるのは、そいつより強い者だけです。王族はこの国では一番偉く、強い。王族以外の誰にも弱みを見せることができません。殿下もそう心掛けておられるでしょう?」
「……そうだな」
「俺は殿下の御業をお手伝いしているだけです」
「……そうか」
「ユーキ殿下、私も殿下の御業をお手伝いしたく思いますわ」
ベアトリクスが勢い込んでいきなり話に入ってきた。
「あのような事をされても、殿下はあの両親やハンナちゃんに対して威厳を失っておられない。それどころか、ハンナちゃんの信頼を勝ち取られましたわ」
「あれはクルティスのお蔭だよ」
「いえ、それだけではないと思います。もしそうなら、陛下への願いは殿下ではなく、クルティスに伝えていたことでしょう。本当にこの人は偉いのだと、ハンナちゃんに自然とそう思わせたものを、殿下はお持ちなのですわ。私もそう思います。スタイリス殿下にどう言われようと、殿下は国民のために常に全力を尽くそうとしておられます。その御業を、どうか私にもお手伝いさせてくださいませ」
「そう言われても、どうすれば良いのかわからないけど」
「こう思っている者がいる、という事をお心に留めていてくだされば、それで良いのです。殿下はお一人ではないのです。他にも、私たち以外にもいるはずです。殿下をお手伝いしたいと思っている者が」
気が付くと、アデリーヌもクルティスも何度も深く頷いている。
「わかった。そうするよ」
「はい、是非そうなさってくださいませ」
「何だか今日は、皆に教えられてばかりだな。もっともっと学ばないと。頑張るよ」
ユーキが答えると、ベアトリクスはニヤッと笑ってから、わざとらしく澄まし顔をして応じた。
「あら、家鴨の真似は今のままで十分お上手でございましたわよ? 私にもお教えいただきたいぐらいに。よろしければ、もう一度お手本をお見せいただけませんでしょうか?」
「最初に噴き出したの、ベア姉さんだったよね?! 本っ当に恥ずかしかったんだからね!」
「ブフッ」
今度はアデリーヌが噴き出した。それを切っ掛けにまた全員が笑い出す。笑い声は一行が村長宅に着くまで止まなかった。




