第八十六話 村への道で
承前
一行はケンが手綱を引きユーキの乗るシュトルツを先頭にして、ネルント開拓村へと進み出した。少し進んで道が下りはじめ樹々の枝葉に覆われるようになったところで、ユーキは振り返って直後に従っていたクルティスに目配せをし、さり気なくシュトルツの歩を早めて後ろの騎列との距離を拡げた。
クルティスはそれと心得て、ベアトリクスたちにも速度を落とすよう知らせた。
ユーキは自分の声が後ろに届かない距離になったことを確かめてから、ケンに話し掛けた。
「ケン、ちょっと、話をしてもいいかな。ここだけの、内緒話だけど」
「はい?」
気安く砕けた声を掛けられてケンは驚いたが、相手は王子だ。断ることなどありえない。
「勿論です、殿下」
ケンが返事をすると、ユーキは軽い調子で尋ねた。
「ケン、今何歳?」
「十九です」
「私は十八。その齢で皆を率いているんだ」
「はい」
ケンの年齢を聞いてユーキは驚いた。ケンは自分よりずっと年上に見えていた。
彼の黒い髪と瞳のためだけではなく、憂いを秘めた思慮深そうな顔付きと王子である自分に対しても動じない物静かで落ち着いた物腰、そして戦いの指揮を執った経験がそう見せるのだろうか。その戦いも、普通のものではない。
「領主、代官を相手に回して、戦いの専門家である傭兵が尻尾を巻いて逃げ帰り、相手の指揮官を倒し、敵兵を全員捕縛。そして味方は無傷。完全勝利じゃないか。絵物語のファルコも斯くや、だね」
「殿下もファルコの物語を読まれているのですか?」
「子供の頃、少しね。君も?」
「いえ、私は。知り合いがファルコの事を話していたもので」
「戦いは怖くなかった?」
「……」
「気に障ったら、ごめん。無理に答えなくていいから」
ケンが黙ると、ユーキは彼が答えるのを避けたと察し、謝ってから話を続けた。
「私は、少し前に、闘いをしたんだ。といっても、ただの喧嘩なんだけどね」
「殿下が、喧嘩を?」
「うん、ちょっとしたいざこざでね」
「御無事だったんですか?」
「うん、有難う。それで、まあ、ある人を護るための喧嘩だったんだけど、相手を投げ飛ばしたときにスカッとしたというか、気持ち良く感じたんだ」
「へえ」
何が言いたいのだろうか。この王子が何故いきなりこのような話を気安い調子で始めたのか、ケンは訝しんだが、取りあえず相槌を打った。
ユーキはそんなケンの様子を気にせずに話し続ける。
「その時は必死だったからそうと気付かずどうとも思わなかったんだけどね。ずっと後に思い返した時にそれに気が付いて、怖くなったんだ。人を護るための喧嘩だったはずが、実は自分のため、自分が満足するための喧嘩だったんじゃないかって」
「そうだったんですか?」
「いいや、違うよ。勿論その人を護るためだった。そのことは、間違いないと言える。でも、自分の中に、自分のために戦おうとする、自分の満足のために人を傷付けて喜ぶ恐ろしい自分がいるかも知れない、って怖くなった」
「怖くなった、ですか」
「だって、ほら、例えば、ある国の国王が自分の欲得のために他国との戦いを起こしたら、その国民はどうなると思う?」
「酷いことになりますね」
「うん。悲惨だよね。でも、国のために戦わなければならない時は、躊躇ってはいけない。そういう時に、自分のためか国のためなのか正しい判断が自分にはできるのだろうかって、怖い」
「……難しいですね」
ケンは王子の話を聞いて、ボーゼを倒したときの自分を思い出した。あの時の体の震えをもう一度感じるように思いながら、王子の言ったことを考えていた。それでつい返事が遅れたが、王子はやはり気にしていないようだ。
「そうだね。それを考え出すと、人のためとは何なのか、自分のためと何がどう違うのか、考えがぐるぐる回っている状態になっちゃうんだよなあ。それを考えると、国王陛下はやっぱり凄いお方だよね。いつも国のために、重要な判断を冷静に下されているのだから」
「そうですね」
ケンは相槌を打った後に、尋ねてみたくなった。
「それで、殿下はどうされたんですか?」
「何を?」
「その、御自分に対する怖さを、です」
「えっと、本当に内緒、というか、秘密にしてくれるよね?」
「はい、勿論です」
「有難う。実はそのことをある人、つまり、その時に護ろうとした人に手紙で打ち明けたんだ。『自分が怖い』って。そうしたら、『そのことに御自分でお気付きになられ、向き合おうとしておられることを尊敬します』って、『大丈夫です、貴方様は御自身に負けてしまうような御方ではございません』って返事をもらえて。そう信じてもらえるんだから、それに応えようと思った」
「そうですか」
「まあ、取りあえずの結論は、次からは喧嘩は避けよう、絡まれたら慌てずに護衛や周りの人や警備や衛兵を呼ぼう、そもそもそういう場所に近寄らないようにしよう、その女の子を連れて逃げ出そう、っていうごく当たり前の小っちゃいことなんだけど」
「その女の子……護ろうとされたのはやっぱり女性だったんですね」
「あ……見破られてた?」
「はい、多分そうだろうと思っていました」
「さっきも言ったけど、秘密だからね」
「はい、わかっております」
「有難う」
ユーキが頼み、ケンが静かに応じたことで少し話が止んだ。
ケンは王子の話が始まってからずっと感じていた疑問をぶつけてみることにした。
「あの、今のお話をなぜ、私に?」
「んー、何て言うんだろう。私のは些細な喧嘩だけど、君たちは真剣での命懸けの戦いだよね。まるで比べ物にはならないんだけど、そんな厳しい戦いで完全勝利する人なら、自分が何のために戦っているかを確かめる術を持っているかもしれない、というのが一つ。もう一つは……」
「もう一つは?」
王子の声が途切れた。ケンが思わず尋ね返すと、帰ってきた声はこれまでの軽い調子が消えた、落ち着いた静かなものだった。
「私より遥かに怖い思いをしたんじゃないだろうかって。余計なお世話かも知れないけど」
「……」
「ごめんよ。さっきも言ったけど、無理に答えなくていいからね」
「……」
ケンは言葉を失って視線を落とした。その様子に気付いて、ユーキは話題を変えようと辺りを見回した。道の横に茂る樹々が所々で途切れると、遥かな彼方の山並みまで眺望が開ける。
「ここは涼しくて、気持ちも良いね。眺めもいいし、空気は清々しい気がするし」
「……」
「あ、君たちにとっては、そんな暢気な話じゃないか。麓の村から、こんな険しい山道で隔てられているんだから。やっぱり私は皆の気持ちに気が回らないな」
「……俺もそう思いました」
「そうだよね。ごめん」
「いえ、さっきのお話です」
「え?」
ケンは顔を上げると道の先を見た。行く手にある何かを一つ一つ確かめるようにしながら言葉を続ける。
「俺も、戦う前、戦っている最中は必死で何も感じませんでした。村と村の皆を護るために戦おうと、皆で決めた事でしたし」
「そう」
「でも、戦いが終わった後に。いえ、ボーゼと言う女、……代官を裏切って殺し、逃げようとした衛兵伍長の女を、俺が殺した後に何が何だかわからなくなりました。人を殺してしまったと。震えが止まらなくなりました」
ケンはそこまで言うと、右手で胸を、服の下にあるリーグ銀貨のアミュレットを握った。その手に力が込もる。だが、その顔にはもう、あの時の苦しみは無い。
「そうだったんだ」
「でも、俺の場合は、剣術の師匠が立ち直らせてくれました。『お前は大丈夫だ』って」
「それはよかった。私の取り越し苦労だったね。なんだか恥ずかしいな」
「いえ、お気遣いくださり有難うございます、殿下」
「いや、やめてよ、恥ずかしいから」
「はは」
ユーキが慌てると、ケンは思わず笑ってしまった。無礼を働いたことに気付いて狼狽したが、王子も馬上で「ははは」と笑いを合わせてくれたので安心した。初めて見る庶民にすぎないのに、俺のことをこんなに心配してくれる。本当に有難いことだとしみじみ感謝しながら言った。
「……でも、殿下も立ち直られたのですね。あの、そのお方の助けがあったとしても、御自身で」
「まあね。立ち直ったかどうかはまだわからないけど。なんだか、君も私も、似ているね」
そう軽く言ってユーキがまた「あはは」と笑うと、ケンも釣られた。声を合わせて笑った後に、ユーキが続けた。
「まあ、いつまでもくよくよしていられないし、王族は、迂闊に他人に弱みを見せられないからね。付け込まれないように」
「なぜ、俺には?」
「それはほら、さっきも言ったように、完全勝利の人だから。答えを持っているかもしれないし、こんなちっぽけな悩みに付け込むようなことはしないだろうって。どう?」
今度の王子の声には真剣味がある。ケンは一呼吸、二呼吸の間考えてから答えた。
「……答えは無いです。私も、考え続け、自分に問い続けるしかないと思います。何をしようとしているのか、何のための戦いか、と」
「そうか。問い続けるしかない。誰しも、同じなんだね」
「はい」
ユーキが真面目な声で答え、ケンも応じた。二人は暫しそれぞれの思いに沈んだ。
「ケン」
少ししてユーキは再び話し掛けた。さっきまでとは異なり声が硬い。
「はい」
「今回の件、君たちには事情があった。でも、国王陛下に御裁断を求めておきながら、領主と事を構え、戦の準備をして剣を交わした。それは事実だ」
「はい」
「そうあっては、君たちにも何らかの処分が下される可能性がある。特に、訴えの代表であり戦いの指揮者である君にだ」
「もとより覚悟しています」
そう答えると、ケンは足を止めて振り向いた。立ち止まった馬上高くから王子の視線が落ちてくる。ケンはその目を見詰めてきっぱりと言った。
「殿下にお願いです。その際には、処分は俺だけに、村の他の皆には及ばないように、お取り計らいいただけませんでしょうか」
馬上からの返事は静かな、しかし力の籠ったものだった。
「君は覚悟ができているんだね」
「はい」
「約束は何もできない。私はただの随行にすぎないから。事実をありのままに伝える事しかできない。でも、今の君の言葉は、確かに聞いた」
「有難うございます」
「ケン、君は本当の指揮者、指導者なんだね。領主を怖れず訴えに名前を出し、先頭に立って戦い、責任を全て負う覚悟を持っている。もしかするとこの言葉を聞くのは嫌かもしれないと思うけれど、他に思い当たらない。君は英雄だ」
「……」
ユーキは、そしてケンもそれ切り村に着くまで何も話さなかった。
ただ歩きながら考えているうちにケンは気が付いた。
この若い王子が最初に俺に心を打ち明け、打ち解けてみせたのは、処分の可能性を伝える前に予め俺にも耳と心を開かせるため、そして心を強く持たせて衝撃を受けないようにさせるためだったんだ。
この人は、あの坂を登るためには、見知らぬ俺への信頼を見せて俺たちの恐れを拭い去った。俺たちの敵の連中の冥福を祈り、一方で衛兵長を窘めて中立を示した。それでいて、俺たちに同情を寄せてくれていることも分かる。
怖くなったと言っていたが、俺は訳もわからずただ自分が怖かったのに、この王子は国民を想って自分を戒めている。
それらがわざとらしくもなく、全てこの国の風のように自然自在に流れている。あの腕の立ちそうな若い従者も完全に心服している様だ。
それでも俺より年下か。
何のことは無い、俺が英雄だと言うならば、この方は真の君主じゃないか。
ケンは馬上の王子を盗み見た。
起伏の多い山道で、明るい月毛の逞しい馬はその背を不規則に大きく揺らす。だが王子はそれに動ずることなく鞍上で背中を伸ばして堂々と胸を張り、金褐色の髪の頭を上げ、ただ道の先を、前だけを真剣な顔で見据えていた。
ケンにはその姿が、人も馬も、全てがまた眩しく光り輝いて見えた。




