第八十四話 黒い毛虫
承前
ユーキたちが話をしながら馬を進めるうちにも時間は経ち、目の前に街道の分岐点が現れた。
正面に続く太い道が主街道で、領境の町を経てクリーゲブルグ辺境伯領に至る。辺境伯領へ行くにはこちらの方が近く、便利でもある。
左側に分かれた細い道が、山の麓のフーシュ村を経てネルント開拓村へ至る道だ。途中のフーシュ村からは主街道とは別の辺境伯領への道が出ている。
衛兵長からそのような説明を受けて、一行は進路を左に取った。
さらに暫く行くと、やがてまた両側に畑が出てきた。村が近くなったのだろう。
「衛兵長、ここからクリーゲブルグ辺境伯領まで、六マイル以内に入りましたか?」
「まだですね。ですが、もう一マイルも無いと思います」
また農民を見付ける度に聞き込みを繰り返し、彼らから同じような言葉を聞く。それを繰り返しているうちに、一人の農夫の所で様子が変わった。
その小柄な農夫は、ユーキたちが進む道からかなり離れた小麦畑の一角をうろうろと行ったり来たりしては、頭を抱えたり、何かを地面に投げ付けたりして、苛々している様子だった。いち早くその様子を見付けて馬の頭を巡らせて近寄って行ったベアトリクスに対してその男は手を振り上げ大声を上げて追い返そうとしている。そこにユーキたちが追い付いた。男はユーキたちを見回すと顔をさらに赤くして怒鳴った。
「何人も勝手にずかずか入ってきやがって、お前ら何だ! ここは俺の畑だ、近付くな! さっさとあっちへ行け!」
「お気を悪くされましたら、ごめんなさい。私たちは怪しい者ではございません。少しお話をお伺いしたかっただけですの」
「うるさい! 話なんかねえ! さっさと出て行け! 出て行かねえと、こ、こうだぞ!」
宥めようとするベアトリクスに農夫は手近にあった鍬を振り上げて脅し付けたが、その手は震えており、人を傷付けられそうにはどうやっても見えない。
「何をする! この方々は!」
衛兵長が大声で叱り付けようとしたが、それを遮るようにクルティスが素早く前に出て馬を跳び降り、農夫の前に立った。
遥かに背が高く逞しいクルティスに上から見下ろされ、小柄な農夫は思わず一歩、二歩と後退った。
「何だ、このデカブツは! お、お前なんか怖くねえぞ!」
震える声で言いながらさらに後に下がろうとする農夫に向かって、クルティスはにっこり笑いながら無造作に近付いた。
「く、来るな! えいっ!」
農夫が目を瞑って鍬を振り下ろす。その柄をクルティスは左手で軽く受け止めると、右手でその刃を持って軽く捻った。捩じられた鍬は簡単に農夫の手を離れてクルティスの手に納まり、農夫はドスンと尻餅を突いた。
農夫はクルティスを見上げて半ば泣き顔になりながら破れかぶれで叫んだ。
「くそっ、もうどうにでもしやがれ!」
「はいよ、おっちゃん」
クルティスが目の前に屈んで鍬の柄を差し出すと、農夫は驚きながらも思わず手を出して受け取った。
「お、おう」
「どうにもしないよ。ちょっと話を聞かせてくれればいいんだ。それだけだよ」
「だ、だけど……」
クルティスたちが農夫と揉めている間に、ユーキは先程農夫がうろうろしていた場所で畑をじっと観察していた。そして、注意深く一本の麦を折り取った。
その麦の穂は、黒く縮み、恰も毒毛を生やした毛虫のように見えた。
『逸れエルフが着けてきた黒い毛虫』という紅竜ローゼンの言葉が甦る。農務を取り扱う役所に見習実習に行った時に、他国の発生例の資料を読んで知ってはいた。添えられていた絵図も見たが、実物は初めてだ。話だけのものとばかり思っていたが、国内にもあったとは。
ユーキはその麦を持って皆の所へ戻り、まだ畦道に尻を突いている男の前に屈むと、その麦の穂に触らないようにして差し出した。
「心配していたのは、これですね?」
その黒い麦の穂を見て、農夫は観念したというようにのろのろと答えた。
「……ああ。……そうだ」
「何ですか? それは」
ベアトリクスが尋ねると、農夫がぽつり、ぽつりと話し出した。
「黒縮病だ。……知らずに食うと狂い死ぬ。……放っといたら、どんどん別の麦にも染っていく」
「どうすればいいのですか?」
「焼くしかねえ。周りの麦も一緒に、早く焼くんだ。それしかねえ」
「では、なぜそうされないのですか?」
「そんなことをしたら、俺が代官に殴り殺されちまう!」
憤った農夫が跳ね起き、半分泣きながらベアトリクスに突っ掛かろうとしたが、クルティスがすっと間に入り、落ち着かせようと農夫の肩を叩く。
すると今まで黙っていた衛兵長が口を開いて男に話し掛けた。
「大丈夫だ。衛兵長の俺が保証する。落ち着いてゆっくり話せ」
そしてユーキの方を向いて話し始めた。
「この領では、小麦の黒縮病が出やすいのです。三十年ほど前にいきなり大発生してから、先代様が小麦は各村での自給程度に作付けを抑えるように指示しておりました」
「そうだったのですか。それで抑制を……。初めて聞きました」
「はい。他の領に聞こえると、この領の人間や作物が変な目で見られかねませんので。領内でも黒縮病の名は口に出さぬようにと先代様が触れを出して以来、皆が気を付けているのです」
「それで、これまで聞き込んだ農夫たちは単に『病害』とか言っていたのですね」
「はい。最近では発生数もめっきり減って、領内でも農村以外ではこの病の事を知らない者が増えてきております。昨年までは、発生したらすぐに焼き払ってその後に村長を通して代官に報告することになっていました。そうすれば、焼いた麦の分は免税です。ところが、最近、別の村で一人の農夫がそれを行ったところ、ニードの……代官の逆鱗に触れたのです。恐らく前の代官から引き継がれていなかったのだと思います。代官は激怒して話も碌々聞かず、脱税行為とこじ付けて農夫を棒打ち五十の刑にしました。執行したのは、代官が王都から連れてきて新しく雇った衛兵の連中です。その農夫は、ほどなく亡くなりました。その事が伝わってからは、全ての村で、代官に報告してから焼くことにした方が良かろうとなっているのです。この男もそうするつもりだったのでしょう」
「そうなんだ! 村長にはもう何日も前に言った! 村長も代官に知らせると言ってた! だのに、まだ焼き払う許しが出ねえんだ。もう、どんどん広がっちまうって、心配で心配で」
ぶるぶる震えながら必死で訴える男を見ながら、ユーキは衛兵長に尋ねた。
「そうですか。それはそのように処理せよと、代官が触れを回したのですか?」
「いいえ。代官は麦を焼いたと聞いただけで激怒し、病の事は聞こうとしませんでしたので。それなら、そのようにした方が良いだろうという、噂です」
「噂? 全部の村に一様に代官への対処法の噂が広まっているのですか?」
「良くわかりませんが、そのようです」
「そうですか。ひょっとすると意図的に噂を流した者がいるのかも知れませんね」
「……」
ユーキが推測を言いながら衛兵長をじっと見詰めると、衛兵長は何も答えず、ユーキの視線から逃れるように顔を逸らした。
「そんなことより、俺はどうすればいいんだよ……教えてくれよ……エヴァン爺さんみたいに殴り殺されたくねえよ……」
農夫は蒼褪めた顔でぶつぶつと呟くように訴えている。
「エヴァン爺さん?」
ユーキが聞き返すと、農夫はがくがくと首を縦に振りながら答えた。
「ああ、代官と手下の女の気に障っただけで、殴り殺されたんだ。そうはなりたくねえ。でも早く焼いちまわねえと、この畑だけじゃねえ、村の他の麦も、全部台無しになっちまう。そんなことになったら、みんなに申し訳ねえ……」
農夫は黒縮病と代官の二つの恐怖の板挟みになり、頭を抱えてぶるぶる震えている。
ユーキはどうするべきか迷った。
本来各領の作物は、突き詰めれば領主の所有物だ。王族と雖も勝手なことをすれば領主から抗議を受け、陛下に御迷惑をお掛けするかもしれない。だけど、彼を恐怖から解放してやりたい。目の前の民、直向きに畑と向き合おうとする農民を窮地から救い出せなくて、王族と言えるものか。
ユーキは目に涙まで浮かべて震え続けている農夫の姿を見て心を決め、話し掛けた。これ以上怯えさせないようにと、静かな声でひとつひとつ、ゆったりと。
「大丈夫ですよ」
「何がだ?」
「貴方がです。殴り殺されたりしません」
「……本当か?」
「本当です。ですから、私の尋ねることに、落ち着いて答えてください」
「お、おう」
「今なら、どのぐらいの広さの範囲を焼き払えばいいですか?」
「え、ええと、そうだな、今病気が出てるのはこの畑だけだけど、結構点々とあちこちに伝染っていて、その周りも、念のため綺麗に焼かないといけなくて、火が燃え移らないようにさらにその周りも青刈りしておくんだから、え、ええと、ええと、一エーカーの半分の、半分ぐらい、かな」
「その分の税はいくらですか?」
「地租が、一エーカー二ヴィンドに上がっちまったから、ええと、ええと、」
「五十リーグ」
「そう、そうだ。それに小麦を売り払う時の手間代が五リーグ掛かる」
「わかりました。ここに一ヴィンドあります。もし代官に何か言われたら、このお金で税金分を支払ってください」
ユーキはそう言って財布から取り出した金貨を農夫に差し出した。ところが男は手を喜んで出すどころか背後に隠して、怯えたような驚きの声を出した。
「えっ。いいのか? こんなにもらっちまっていいのか? 多いんじゃねえのか? まずくねえか?」
「ええ。大丈夫です。本来ならあなたの稼ぎになったはずの分も焼くのですから。さあ」
ユーキが強く首を縦に振って促すと、男はおずおずと手を出して受け取った。手の中の金色の輝きをじっと見詰めて確かめながらまだ困惑している男に、ユーキはさらに言った。
「その代わり、決して周りに病気が広がることのないように、丁寧に綺麗に焼いてください」
そう言って微笑みながらもう一度頷くと、男も得心したのか、その全身から緊張が抜けた。毎日の畑仕事で深く日に焼けたその顔に、くしゃくしゃに皺を寄らせて答えた。
「わかった、任せといてくれ! ありがとよ。俺、早速手筈を整えるよ。村の連中に手伝ってもらわねえとできねえし。余る金で、みんなで一杯やることにする。みんな喜ぶよ。俺、もう行っていいか?」
「ええ。帰り道にもここを通りますから、その時にきちんと焼いたかどうかを確認させてもらいます」
「おう、もちろんだ。安心してくれ、俺も早く焼き払いたくってしょうがなくってよう。じゃあ、行ってくる。ほんとに、ほんとにありがとな!」
男は金貨を握り締めて立ち上がると村の方角に走り去った。
「殿下、よろしかったのですか?」
男の姿が遠くなっていくのを見ているユーキに、衛兵長が尋ねた。
「何がですか?」
「与えた金額です。多かったのではないかと。あの男が言った、五十五リーグちょうどでも良かったのでは」
「そうでしょうか」
「金が多く貰えるとわかれば、わざと病害を起こして申告する者が出るかも知れません」
「そうかも知れませんね。ですが、私はそうはならないと思います」
「理由をお伺いしてもよろしいですか?」
「ええ。あの人は、畑の事をとても心配していた。自分の身も心配していましたが、少なくともそれと同じ位、畑の事を心配していました。それに、病の処理方法もちゃんと知っていた。きっと長く農業に携わっており、自分の畑と仕事を大切にし、生き甲斐としているのでしょう。そんな人が、わざわざ自分の畑を汚し、作物を傷付け、自分の誇りを貶めるようなことをするでしょうか? 私はしないと思いました」
ユーキはそこで一度言葉を切り、衛兵長に顔を向け、その眼を見ながら続けた。
「そう、例えば良心ある衛兵は、領民をわざと刃向かわせ、それを逮捕して手柄とすることはしないでしょう。何とか領民を守ろうと苦心してこっそり情報を流すことはあっても。自分の職業に誇りを持つ者は、誰でもそうではないでしょうか」
自分の言葉を聞いて衛兵長が口を引き結んで俯くのを見て、ユーキは少し硬くなっていた声を和らげ、静かに言った。
「むしろ、早く焼き払うべきだと言う彼の判断を何とか後押ししてあげる方が良い、そのために少しばかりのお金の力を借りようと考えたのです」
「ですが殿下、話を聞いた他の者がするかも知れません。中には不心得者もいるでしょう」
そう口を挟んだベアトリクスの方にユーキは向き直った。
「その可能性はあります。ですが、農業は共同作業です。今の人も、仲間を頼りにしていてその力を借りに走って行った。誰かが農業を冒涜するような行為をしたとして、仲間たちが放置しておくでしょうか? 今の人だけじゃない、道中で出会った農夫たちも皆が同じように畑を大切にしていました。この領では、そんなことはまずあり得ないと思います。きっと先代子爵の良い領政のお蔭でしょう」
「なるほど、わかりました」
ベアトリクスたちが頷く。ユーキはそれを見ながらさらに続ける。
「もし彼のような、仕事に誠実な農民がそのような邪な事に手を染めるとしたら、それは普通に農業をしていては暮らしていけない、そんな状態になった時です。幸い、この領はまだそこまでは行っていない。あくまで現時点ではですが。この先も増税が続けば、どうなるかわかりませんね。それに、」
ユーキは最後に、静かに微笑みながら言った。
「私は確かに甘くて馬鹿正直な堅物なのかも知れません。ですが、例えそう言われたとしても、民を疑うところから始めたくはないのです」
ほどなく一行はフーシュ村に着いた。今夜はここの村長の家で宿を借りることになる。衛兵長が村長に一行の用件や事情を説明し、ユーキが黒縮病の件について尋ねたところ、先日代官が泊った際に話そうとしたが『今は病どころではない、帰りに聞く』と取り合ってもらえなかったとのことだった。
また、増税や麦の増産の件について尋ね、代官に強要されて止むを得ず受け入れた事、村民が不満を溜め込んでいる事を村長から聞いた。エヴァン爺さんの事件についても報告を受け、ユーキたちが哀悼の意を表してその日は終わった。
噂や伝聞にすぎなかった代官の非道は、今や確実な証言が得られ始めた。今日の道中で行き会うと予想していたその消息は未だに知れない。
明日はいよいよ、ネルント開拓村だ。早朝の出発に備え、ユーキたちは早目に床に就いた。
読者の皆様へ:本話中に登場させた「黒縮病」はお察しの通り、「麦角病」をモデルとしております。麦角病をそのまま用いようかとも考えたのですが、麦角病について調べれば調べるほど、扱いが難しく一度感染が拡大したらこの物語が想定している時代の農業技術で防疫することは困難だと考えるようになりました。作者の筆力では作中でコントロールできないため、架空の防疫可能な疫病として「黒縮病」を創出した次第です。御理解御容赦いただけますよう、謹んでお願いいたします。




