第八十話 駆け引き
承前
夫人が出て行った後、会議室は暫くの間、無言の静寂が続いた。
やがて扉が叩かれ、クレベール王子が入室を許可すると執務室などを調べていたユーキや随行員が戻ってきた。
「聞こうか」
会議室に、スタイリス王子が全員が座に着くのを待てずに報告を催促する声が響く。
「はい」
返事をしたユーキが、捜査に当たった者を代表するような形になった。
「結局、契約書はどの部屋からも見付かりませんでした」
「じゃあ、どこにあるんだ」
「それはわかりません」
「わからない、ということであれば、子爵は契約書の中身は知り得なかった、ということで決まりだな?」
スタイリス王子が確認しようとする言葉にピオニル子爵の顔が綻ぶ。どうやら、正使殿下は子爵の主張を後押しして下さるおつもりらしい。
だが、正使が早くも結論に前のめりに飛び込もうとするのを副使クレベール王子が押し留めた。
「スタイリス殿下、その御判断はお待ちください。ユークリウス殿下、他にも報告することがあるのでは?」
「はい。まず、先代子爵の執務室および子爵御自身の部屋からはめぼしいものは見付かりませんでした。そこで、代官の執務室の方で発見された書類を調べたのですが、気に掛かる事があります」
「気に掛かる事、ですか?」「何だそれは?」
ユーキは子爵の方にちらりと目を流したが、副使と正使に促されて、途中で切った報告を再開した。
「はい、スタイリス殿下。まず、見付かったのは本年の領の経費に関する諸表ですが、調べに当たった者全員の意見を纏めますと、この領の規模からすると、全体に額が相当高すぎます。少なくとも三割は多いのではないかと思われます」
「経費が高ければ、増税せざるを得ない。子爵の考えの正当性を示しているな」
「殿下、最後まで聞いた方がよろしいかと。ユークリウス殿下、続けてくれ」
スタイリス王子は満足そうにしたが、横から口を挟んだクレベール王子に遮られた。副使に促されたユーキは頷いて続けた。
「はい。気に掛かる事とは、見付かった書類がそれだけだ、ということです」
「それだけ?」
「はい。見付かったのは本年の表だけで、昨年以前のものが全くありません。それだけではなく、表の記載の正当性を確認できるような根拠、例えば請求書、領収書、そういった類のものも一切ありません。代官が執務室で諸表を作成していたとして、その基となる資料が無くて、いったいどのようにして記帳していったのでしょうか」
「なるほどな」
「はい」
副使とユーキがこくり、こくりと互いに頷きを交わすと、正使殿下が苛々した声を出した。
「うん? クレベール、何が『なるほど』だ? 意味がわからんぞ」
そしてユーキに不機嫌な顔を向ける。
「ユークリウス、お前も偉そうに勿体振るな。どういうことだ? お前は見習だぞ。そんな曖昧な報告でどうする。見習だと甘えずに、正使である俺がわかるように筋道を立ててきちんと説明しろ」
だが、ユーキは続けるのを躊躇った。
「スタイリス殿下、推測になりますので、ここでお話ししない方が良いように思うのですが。暫しの間、子爵に退席願ってもよろしいでしょうか?」
「いや、駄目だ。子爵がいては話せないようないい加減な事では認めんぞ。ユークリウス、今、ここで話せ。さあ、早くしろ」
正使殿下にこれほど強く求められては、見習としては従う他にはない。副使殿下も介入できる様子ではなく、不承不承ながら目顔で促してきた。ユーキは諦めて話を続けざるを得なかった。
「……わかりました。あくまで推測であることを御承知おきください。三点あります。一点目は、どこかにその根拠資料や昨年までの表が存在するのではないかということ。件の契約書も一緒にあるかも知れません。二点目は、執務室で見つかった表が正しいかどうかに大いに疑念があるということ。……最後に……」
「早く言え」
ユーキはまた躊躇ったが正使殿下が促す声が厳しくなり、揉めることを覚悟して言わざるを得なくなった。
「最後に、代官は、子爵が表の確認を適切に行わないと確信しているであろうということです」
「何ですと?」
ユーキの最後の推論を聞いて、それまで沈黙していた子爵が席を立たんばかりの剣幕で憤然と声を荒げた。
「つまり、代官が経理の表を捏造しており、私がそれを看過ごすだろう、と殿下はおっしゃるのですか? 私はそれほどに迂闊者だとでも? それはあまりにも失礼ではありませんか!」
「そうだな。ユークリウス、それが事実でなければ、どうするつもりだ?」
子爵に続いてスタイリス王子も責める言葉をユーキに向けた。ユーキは困惑した表情で答える。
「ですから、推測だと申し上げました」
「推測でも、子爵の面前で言っていいことと悪いことがあるだろう」
スタイリス王子がさらに声を高めるところに、副使が割って入った。
「スタイリス殿下、ユークリウス殿下は子爵の退席を求めました。それを圧して述べるように命じられたのは殿下です。ユークリウス殿下の責任を問われるのは如何なものでしょうか」
「そ、それにしても、言っていいことかどうかを考えて控えるべきだろう。それとも、俺の責任だとでも言うのか!」
スタイリス王子は自分の単純な矛盾を指摘されて顔を赤らめ、詰まりながらも大声で反論したが、クレベール王子は冷静に聞き流した。
「ユークリウス殿下は、可能性を推測として言っただけでしょう。誰の責任と言う事でもないと思います。ですから殿下の責任でもあり得ません」
「当然だ」
「子爵も、お控えを。ユークリウス殿下はスタイリス殿下の許しを得ての発言です。多少気に障っても堪えられるべきではないでしょうか」
「……失礼致しました」
副使に嗜められて子爵が渋々と引き下がるのを見て、スタイリス王子も矛を収めた。
「子爵が納得するのであれば、まあ、それでよかろう。推測とやらが当たっているかは、これからということだな。では、どうする?」
「今日はかなり時間も経ちました。この位で、続きは明日としては如何でしょうか」
「そうだな、旅の疲れもある。そうするか。子爵も、良いかな?」
「はい」
「クレベール、明日の手筈の説明を頼む」
「はい。子爵、スタイリス殿下は領内を何か所か見て回りたいとの思し召しです。随行のうち一名と供の者も参ります。子爵にも同行をお願いしたいと思います。他の私たちは私たちで調査しますので、案内や対応をできる者を何名かお願いします。先代の私室を拝見するのは早くても明後日以降になりますので、その旨、母君にお伝えください」
「承知しました。案内ですが、ここで使っている従僕等でよろしいでしょうか。衛兵長は、正使殿下と私の護衛に連れていきたいので」
「衛兵長ですか? ……いや、その者は案内の方に回していただきたい」
「ですが護衛は、」
「ああ、私なら、信頼できる衛兵を五、六名で構わない。仰々しい行列は嫌いだ。私自身、剣の手合わせで負けたことは無いし、私の供の者もそれなりに腕が立つ。こんな所で王子を狙おうとする者もおらんだろう」
心配そうにする子爵を遮り、スタイリス王子が答えた。自慢の銘剣の柄をポンポンと左手で叩き、口角を上げて得意げにしてみせる。
一方の子爵は『剣』と聞いて目を伏せた。
「承知しました。スタイリス殿下はお強いのですね」
「ああ。子爵は剣術はやらないのか?」
「以前少し齧ったのですが、修行の暇がなく止めました」
「それはいかんな。剣術は才能が肝心だ。暇を云々するものではないぞ。俺など、修行は時々しか行っていないがこの腕前だ。子爵、何なら、一度手合わせしてみるか?」
「い、いえ……。畏れ多い事ですので……」
子爵が黙り込み、スタイリス王子は鼻息を荒くして満足そうにする。話が収まったのを見て、クレベール王子が場を締めに掛かった。
「では、そういうことで。明日は朝食後にこの部屋で再開しますのでお願い致します」
「良いだろう。では、今日は休むとするか」
スタイリス王子が頷いて見せると、子爵は当面の取り調べが終わったことにほっとしたのか、安堵を顔に浮かべた。
「承知しました。皆様のお泊りについては、邸の者に申し付けております。田舎の邸ではありますが、幸い何とか皆様にお泊りいただける部屋数があります。ささやかながら歓迎の晩餐も用意しておりますので、準備が出来次第、案内させます。どうかお寛ぎください」
「子爵、監察に対し歓迎の宴もありますまい。過剰なお気遣いは御無用に。食事は簡素なもので構いませんし、同席していただく必要もありません」
子爵の申し出を、クレベール王子は有難迷惑という表情で断ろうとしたが、スタイリス王子が取り成した。
「クレベール、そう言うな。折角のお心尽くしではないか。我々だけでも有難くお受けしようではないか。子爵、そのように頼む」
「我々だけ、とおっしゃいますと?」
「我々正副使とその供の者を除き、ユークリウスを始めとした随行者は宿屋に泊まりたいそうだ。そのように手配してくれ」
「宿屋にですか? この邸の前や、他にも何軒かありますが、ここよりはおもてなしが劣ると思います。よろしいのですか?」
「うむ。ユークリウスは王都や王家の領しか知らんそうだ。この機会に、貴族領の民に近い経験をしてみたいとかわけの分からんことを言いだしたのだ。王家の者がそう言えば、その他の随行者もそうせざるを得まい。傍迷惑な話だが、若い者の希望だ、すまんが叶えてやってくれ」
「承りました。では、宿を手配します。両殿下とお伴の方のお部屋も案内させますので、ここでお待ちください。私は一旦失礼致します。また後ほど、晩餐の席でお待ちしております」
「うむ」
「失礼致します」
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子爵は会議室を出ると、直ちに家令を私室に呼んだ。家令が急いで駆け付けると、子爵は自分の椅子に深く腰を落としていた。先程まで監察団の応接をしていた疲れが隠せない顔を上げると、手招きをして近くへと呼び寄せる。家令がすぐ目の前まで歩み寄ると大儀そうに立ち上がって顔を近付け、声を潜めて尋ねた。
「お前は、ニードがどこに住んでいるか知っているか?」
「はい、緊急の連絡が必要な場合に備えて。ニード様はお一人で部屋を借りておられます。普段はこの邸の客間で寝泊まりされることも多いですが」
「何、代官が客間だと? そんな厚かましいことを誰が許した?」
「も、申し訳ありません。ニード様が閣下のお許しは得ているとおっしゃったので」
「あいつ、勝手なことを……。まあいい。誰かを遣り、あいつの部屋にある書類の類を全て集めて俺の所へ持ってこさせるよう、手配しろ。いいか、歓迎の宴が始まってから邸を出させるんだ。監察の連中に気付かれないようにな」
「はあ。ですが、ニード様の部屋の鍵がありません」
「貸主に言って開けさせろ。俺の命令だと言え。もし断ったら、この領にいられなくなるのだから、応じるだろう」
「脅すのですか?」
ぎょっとして尋ねる家令を子爵はぎろりと睨み付けた。
「脅しじゃない。本当にそうする」
「……畏まりました」
「ニードの奴は、決まった女はいるのか?」
「私の知る限り、いないと思います。行き付けの酒場には馴染みの酌婦がいるようですが」
「そいつの部屋もだ。俺が正副使殿下をもてなしている間にやるんだ。あの一団の中で、注意すべきはクレベール殿下だけだ。他の連中はクレベール殿下の手先にすぎず、スタイリス殿下はお飾りだ。ユークリウス殿下は少々厄介だが、所詮見習でスタイリス殿下には頭が上がらずその指示に逆らえん。晩餐でスタイリス殿下とクレベール殿下の二人をここに引き付けている間が絶好機だ。いいな?」
「はあ。では、お宿へ皆様を御案内した後に手配します」
「うむ。何か見付けたら、全て姉上の部屋に隠す。クレベール殿下も頭は良くても隙だらけだ。捜さない場所をわざわざ教えてくれるとはな。それから、随行の連中に監視を付けろ」
「監視、ですか?」
怪訝な顔をする家令を、子爵はまた睨み付ける。
「そうだ。わからんのか? 表通りで見張っていて、連中が出掛けようとしたら案内をするとか何とか口実を付けて、同行するのだ。妙な所に行こうとしたら、俺の許可を得るように言って邪魔をしろ」
意図が通じないもどかしさからか、潜めていた声が大きくなる。狙いは伝わらなくても苛立ちは顔にも声にも表れて伝わり、家令は一歩二歩と後退り口籠りながら、「は、はあ、わかりました」と答えた。
「もう一つ、スタイリス殿下は可能な限り丁重に扱え。他と差をつけて、やりすぎだと思うぐらいにな。あの殿下は、持ち上げれば簡単に乗っかってくれる。煽てさえすればこちらの思い通りにわかりやすく舞い上がる」
「はあ」
指図し終わると子爵は満足したのか疲れたのか、再び椅子に腰を落とした。鈍いその音を聞いて家令が立ち去ろうとするとさらにその背中に、どこか独り言めいた指示が投げ掛けられた。
「正使殿下を取り込めばこっちのものだ。ニードが訴えを取り下げさせることができなくても、全部あいつのせいだと殿下に訴えて切り捨ててしまえば何とかなる。いいか、丁重にだぞ」
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一方会議室では、子爵が出て行った後にスタイリス王子がクレベール王子に確認していた。椅子の中で尻を前にずらし足を組んで前に投げ出して、肘を突いた手に頬を乗せて気怠げに言い放つ。
「どうだクレベール、これで良かろう?」
「はい、兄上。有難うございます。ユークリウス殿下、よろしく頼む。今日の手筈はわかっているな?」
「はい、承知しております」
クレベール王子がユーキに段取りを確認していると、スタイリス王子は退屈そうに割り込んだ。
「クレベール、本当に、わざわざ宿を別にする必要があるのか?」
「子爵が少しでも頭の回る男なら、こちらの動きを制限しようとすると思います。分散して眼を散らした方が良いでしょう。さっきの様子を見る限りでは、子爵は大して気の利く者とは思えませんでしたが。兄上のお膝に縋ることばかり考えているようでしたね」
「まあ、不出来な奴だな。間抜けを超えて、哀れなぐらいだ」
「行きすぎた同情にはくれぐれもお気を付けください」
「わかっている」
スタイリス王子が肩を軽く竦めて返事をすると、クレベール王子はユーキの方を振り返った。
「ユークリウス殿下、明日からはディートリッヒ嬢と共に、ネルント開拓村の調査を御願いする。衛兵長を連れて行くように」
「承知しました。そのように致します」
ユーキが答えると。またスタイリス王子が割って入った。
「クレベール、なぜユークリウスを行かせるのだ?」
クレベール王子は兄に向くと、察しの悪い質問にも微笑を浮かべて答えた。
「兄上、訴え出たネルント村には、本来ならば我々正副使、少なくともそのどちらかが出向くものです。しかし、どうやら今回の調査の焦点は代官です。代官の取り調べは我々が揃って当たるべきでしょう。明日にも代官が戻ってくる可能性がありますから、その取り調べに備えるために、兄上と私は遠くへは行けません」
「それはそうだな。もし和解が成されていたらどうする?」
「多数の衛兵を背景に、和解が強要されている可能性があります。その可能性を吟味するため、その場合もやはり代官と村人を別々にして聞き取りを行う必要があります。そのためにも、兄上と私で代官に、ユークリウス殿下は村人に当たるのが良いでしょう」
「なるほどな」
頷くスタイリス王子に、クレベール王子はさらに丁寧に解説する。
「随行で見習とはいえ、ユークリウス殿下は王族です。村人からすれば十分な権威を持った者に見えるでしょうから、もし脅迫が成されていても実の所を打ち明けるでしょう」
そこまで言うと、クレベール王子はまたユーキに向いた。
「ユークリウス殿下、正副使に準ずる者という気構えで行ってもらいたい。どうしても必要な場合には、『副使代行』を名乗ることを許す」
「はい」
「ユークリウスに衛兵長を連れて行かせるのはなぜだ?」
また正使殿下が割り込んで尋ね、副使もまた辛抱強く説明した。
「代官が過剰な数の衛兵を連れて行っているわけですから。万一衝突が起きていた場合、収拾のためには衛兵に命令を下せる者が必要でしょう」
「それも取り越し苦労じゃないのか?」
「そうであれば良いとは思いますが、小物は力を持つと使いたがるものです」
「ユークリウスとディートリッヒだけで大丈夫か? もう一人やった方が良くはないか?」
「人数を増やすほど、訴えた者は警戒するでしょう。それに、税や小麦の植え付けの調査で、こちらでも人数が必要です。それとも、兄上の随行を無くして開拓村の方に回しますか?」
「それは駄目だ。正使に随行が付かず、見習に二人も付けるのはおかしいだろう」
「そうしますと、やはりこの割り振りになりますね」
「仕方ないか」
漸くスタイリス王子が納得したのを見て、今度はユーキがクレベール王子に質問した。
「クレベール殿下、道中で代官が戻ってくるのと行き会う可能性が高いと思いますが、どうしましょうか。その場で取り調べるのは避けるべきと思うのですが」
「当然だ。代官の取り調べは正使たる俺の目の前でやるべきだ」
尋ねられた副使が答える前に、正使殿下が強く宣言する。クレベール王子はその声の響きが消えユーキが「はい、殿下」と返すのを待ち、柔らかい表情で言葉を添えた。
「その通りですね、兄上。ユークリウス殿下、できれば、そっとやり過ごすように。難しければ、この邸に直ちに出頭せよとだけ穏やかに伝えれば良い。後のことはこちらで引き受けよう。万一衝突が起きていて止むを得ず介入する場合も、代官本人の取り調べは避けてこちらに戻らせ、その他の者と村人側の聴取をお願いする」
「承知しました」
「小麦の作付け状況を調べるのも忘れずに。帰りは、早ければ三日後になるかな?」
「代官の日程からするとそうなると思いますが、現地での聞き取り調査にある程度の時間が必要でしょうから、四日、あるいは五日後になるかも知れません」
「わかった。こちらはその間に、子爵邸の続きと代官の立ち回り先も捜査することにしよう。契約書等が持ち出されていれば見付かるかも知れない。それから、領内各地を調査して他の税についても聞き込んでおく。それはそちらでも機会があればお願いする」
「はい」
段取りが概ね定まると、スタイリス王子が満足そうに言った。
「いいだろう。その間、俺は子爵の相手か。代官が戻るかめぼしい結果が出るかしたら、すぐに俺に知らせろよ?」
「勿論です、兄上。もしどこからも成果が得られないようでしたら、最後に姉の部屋を調べましょう。恐らく全てがそこに集まっているでしょう」
「そういうことか。相手に集めさせてそっくり頂くわけだ。『手札の全てを先に曝すな』、だな。お前は勝負事では俺に勝てないくせに、こういうことには本当に良く気が回るな」
半ば揶揄するように薄笑いでスタイリス王子が弟に向かって言う。クレベール王子は一瞬片眉を上げたがすぐに戻し、気に留めない様子で応じた。
「そして『最良の札は最高の局面で出せ』、ですね。まあ、そこまで調査が拗れることはないと思いますが、念のためです。子爵の様子から見れば、数日中に何かは得られるでしょう」
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その日、ユーキたち随行員は領都の大通りを挟んで子爵邸の反対側に建つ宿屋に入った。領都で一番だそうで、それなりの宿である。
ユーキは部屋で荷物を解く間も惜しみ、すぐにクルティスを伴って宿の表玄関から通りに出た。街の様子を確認しようと左右を見ていると、一組の男女が近付いてきた。
クルティスがユーキの前に出て庇って立つと、男の方が頭を下げた。
「怪しい者ではありません。私たちは監察団の方々の御用を足すようにと、子爵から遣わされた者です。何かお探しでしょうか?」
「ああ、そうでしたか。実は食料を扱う店を探しています。良い所を御存じでしたら、教えてください」
「食料品ですか。どのようなものをお求めに?」
「甘いものです。飴でもマルチパンでもグミでも、クーヘンの類でも構いません」
「甘味がお好きなのですか。数は少ないですが、菓子店がございます。案内させていただきます」
「いえ、場所をお教えいただければ」
「いえいえ、少しわかりにくい場所にありますので、迷われると閉店時間になる恐れがあります。是非、案内させてください」
ユーキはクルティスをちらっと見て、頷き合った。
「では、よろしくお願いします」
「他の方々は、どうされておられますか?」
「ああ、一人、買い物に出たいと言っていた者がいましたが、それ以外は、疲れたので何もしたくない、早く休む、と言って部屋に戻りましたね。旅の疲れと仕事の疲れでしょう」
「そうですか。それはそれは。では参りましょうか」
男は右手をそっと背後に回して指を一本立てて示すと、その後に何も無かったかのようにユーキたちの先に立って通りを歩き始めた。
宿屋のすぐ前の通りでのこのやり取りを、二階の部屋の窓の帳の陰から監察団の一員ディートリッヒ嬢が見ていた。
ユーキたちが子爵の手の者に案内されて立ち去ると、彼女は監察団の男たちに合図を出した。全員が既に商人や職人風の服装に急いで着替えを済ませている。彼らは部屋を出て宿屋の裏口から間を置いてぱらぱらと通りに降り、通行人の早波に紛れて行った。
少しして、ディートリッヒ嬢は供の者に声を掛けた。
「アデリーヌ、では、私たちも出掛けましょうか」
「はい、お嬢様。私たちはどういう態で?」
「まあ普通に、ここの特産品っぽい物や雑貨、装飾品を探す、で参りましょう」
「承知しました。他の方は全員が子爵邸の監視に出ましたから、ここが空になりますが」
「いいのではないかしら? 押収した資料は服の中に忍ばせているわよね?」
「はい、お嬢様」
「じゃあ、よろしいわ。それほど長い間留守にするわけでもありませんし。それにこのようなことに慣れているのは、謀略好きな上級貴族ぐらいですわ。あの子爵には、監察団の部屋を短時間で荒らして跡形を残さずに去るような、込み入ったことはできそうにありません」
「そうですね。子爵の邸の使用人も、見た限りでは大半が実直な勤め人のようでした」
「では、参りましょうか」
二人が宿の表玄関を出ると、やはり子爵から遣わされたと称する者が近付いてきた。二人は愛想良く笑顔で案内を受け入れて、領都の商店街の方へ消えていった。




