第五十七話 ケン対アンヌ
承前
ケンは何が何だか訳がわからないままに、辺境伯の従僕の一人に案内されて館の訓練場に面した更衣室に導かれ、そこで与えられた稽古着に着替えて防具を着けさせられた。
防具は初めてなので着け方がわからず、案内してくれた者に手伝ってもらった。それが終わると模造剣を渡され、「頑張ってください。どうかお怪我の無いように」と挨拶のような祈りのような言葉と共に訓練場に送り出された。その声に同情と諦めの音色が混ざっていたのは気のせいだろうか。そう言えば辺境伯閣下がアンヌ様に言われた「怪我の無いように」という注意にも力と共に諦念が籠っていたような気がする。お嬢様は貴族の令嬢様だというのに、そんなに怪我ばかりされているのだろうか。
広い訓練場に、まだアンヌ様は来ていない。
今のうちに体を動かしてみる。防具のせいか体が少し重く感じたが、少し走ったり、膝を曲げ伸ばししたり体を捻ったりしているうちにすぐに慣れた。
今度は模造剣を振ってみる。握りの感触を確かめながら、二度、三度と素振りを繰り返す。村で普段の稽古に使っている木剣と比べると細いが、持ち重みはそれほど変わらない。柄は握りやすく手に馴染んだ。
父に貰った剣に感じが似ている。模造とはいえ、さすがに貴族、それも辺境伯という雲上の貴い家で使われる物は造りが違う、と感心する。体が温まってくると共に、気持ちも落ち着いた。
まあ、何だかよくわからないが、お嬢様の稽古のお相手をすれば良いのだろう。
この国では女でも武術をする者、衛兵や傭兵になる者も少なくない。だから不思議ではないのだろうが、アンヌお嬢様の見た目の雅やかさからは、武術を嗜みそうには見えなかった。
ま、令嬢の酔狂だったとしても俺には関係ない。適当に相手をしてやれば満足してもらえるだろう。とにかく御機嫌を損ねないようにしよう。注意されたように怪我をさせないことに気を付けて、楽しく過ごしてもらえればそれで良かろう。そうすればこちらとしても大過ないというものだ。
ケンがそう気楽に考えながら待っていると、アンヌがモリアを従えて訓練場に入ってきた。
槍に似た長物を携えて歩くその姿を一目見て驚いた。
背を伸ばして顎を引き、前を見据えて音も立てずに近付いてくる。頭が殆ど上下せず、水の上の白鳥のように滑らかに進むその姿も動きにも、一瞬の乱れもない。
ケンはごくりと唾を飲み込んだ。
これは只者ではない。気を引き締めて掛からないと。
アンヌは三間の間をおいてケンに向き合った。ケンもアンヌに真っ直ぐに向き合う。
互いに礼をした後に、ケンは尋ねてみることにした。
「失礼ですが、その武器は何というのでしょうか?」
「『薙刀』といいます」
もしも素人であれば気を取られるかもと思って試みた問いだったが、案の定アンヌは気息を乱さなかった。僅かに微笑んで静かに武器の名前を答え、その薙刀を神器であるかのように恭しく両手で捧げ持つ。
「では、お願いいたします」
そう言うと、薙刀をすっと捻って八相に構えた。
ケンも覚悟を決めた。一歩下がって模造剣を両手持ちにし、真っ直ぐ構えてアンヌを見据えた。
剣を小さく静かに揺り動かしながら、相手の姿をじっくりと上から下まで見回す。
だが何度見ても、隙が見付からない。微笑んだままでこちらを見て微動だにしないが無駄な力みも無く、虚ろに静止していると見えても実は軽く曲げた膝に瞬時に動ける備えがある。
迂闊に近付くと瞬殺される、そう告げている直感に素直に従うべきだろうか。とは言え、ただ待っていて先に動かれ、押し込まれるのも嫌だ。
ゆっくりと一歩、二歩と間合いを詰めていく。三歩目でアンヌの目が光り、大きく踏み込んで鋭い振りで袈裟懸けに切ってきた。それを予期していたケンは剣で受けると見せて、刃同士が当たる寸前に大きく後ろに跳んで躱した。
すると、薙刀の起こす太刀風が左から右から、二度起こって通り過ぎた。
やはり只者ではない。右からの返しは見えなかった。もし初手の刃を剣で受けていたら、返しの石突に剣を吹き飛ばされていたところだ。マーシーより強いかも知れない。いや、きっと強い。
『怪我が無いように』。冗談じゃない、こちらが下手に動いていれば右の小手か脇腹を襲われてどれほど痛い思いをしただろう。防具が無ければ骨をへし折られている。繰り返し言われたあの言葉は、お嬢様ではない、こちらを気遣ってのことだったのだ。背中を冷汗が流れていく。
慌てるな、相手を良く見るんだ。自分に言い聞かせてアンヌの顔を見ると、眉を上げて驚いた表情をしている。
だが、その八相の構えに揺るぎはない。
ケンは再び剣を構え、ゆっくりと元の間合いに戻り、さらに前に進む。
再び左から袈裟切りが襲ってきたのでまた後ろに跳んで躱し、今度はすっと左半身で前に出て間合いに入る。
今度は石突が右から回ってくるのが見えたので力を込めた剣でがっちり受けておき、再び薙刀が逆回転し始める途端に跳び下がってまた躱した。
得意の手が不発に終わったにも関わらず、アンヌの眼は喜びに輝き、口が綻び始める。
その眼を見てケンは覚った。
間違いない、相手はとんでもなく強い。このままでは駄目だ。一撃で決められるような相手じゃない、それどころか、正面から普通に打ち合っては敵いそうにない。何とか相手を動かして隙を作らせないと。そう、どんなにすばしっこい銀鹿でも、走り回って跳び上がらせれば着地する瞬間は無防備になる。黒狼になってそこを狙うんだ。
ケンが剣を構えると、今度はアンヌも中段に構える。
そろりそろりと前に出て、薙刀と剣が交わった瞬間に、ケンは切っ先で薙刀を押し下げて前に走った。
アンヌは薙刀を跳ね上げながら己の右に足を運び、回って躱す。得物同士が離れてケンの態勢が崩れたところに、その右上からアンヌの手の内でくるりと回された薙刀の石突が降ってきた。
ケンは低く蹲んで躱し、その瞬間今度は跳び上がる。その刹那、片膝突いたアンヌの振った刃がケンの足下を通って行った。
ケンは足が地面に着くと同時に剣を振りかぶって跳び付くように打ち掛かったが、アンヌは手を交差したまま上げた柄で受け撥ね上げる。急いで下がるケンの面前を刃が掠め過ぎ、さらに下から左手一本で突き出された切っ先が伸びてきた。弾きながら下がる、下がる。薙刀の間合いから出たところで止まり、構え直す。
大きな動きが続き、ケンの息は乱れてきた。
しかしアンヌはより一層の笑顔で、既に中段に構えて静かに待っている。こちらはもう、長くは緊張が保ちそうにないというのに、その余裕は何なのだろうか。
特別に背が高いわけでもない姿が、今は山の如くに大きく見える。もし先に動かれてしまえば、そのまま山津波となって圧し潰されてしまいそうだ。
次で決めねば、もう後は無い。
ケンは臍下に気を集めて何とか呼吸を整えた。もう一度進み出て薙刀の切っ先を押し下げた。今度も前に出ると見せかけて、また跳ね上げてきた薙刀から力を込めて剣を横に外すと、勢い余った薙刀が大きく流れてアンヌの頭ががら空きになった。ついに隙を作った、ここだ!と跳び込んで全力で打ち掛かる。決まる、と思った刹那、アンヌの姿が目の前から消えた。
いや、こちらの手を読んでいて、右に大きく体を捌かれたのだ。
『あっ』と思って手を止めようとしたが、その時には下からの薙刀の振り上げを受けて、剣を大きく上に弾かれていた。
態勢を立て直そうとしたが間に合わず、薙刀の切っ先が突き出されてケンの首の前でピタリと止まった。
「参りました」
剣を下ろし降参を告げるケンの声を聞いて、アンヌは破顔した。まるで大輪の芍薬が咲いたような笑顔だ。
負けた。だが、悔しくはなかった。闘ったというより、何かを教わったように思えた。
向き合った時から思い起こして振り返ってみても、付け入る隙は無かった。そもそも、戦いにならないほどアンヌは強かった。上には上がいる、奥には奥がある。もっともっと深く考えて、先を行く相手のその先を行かねばならないのだ。今は負けたけれど、この人に手合わせで勝てる日は来ないかもしれないけれど、これで良かったのだろう。
負けを噛み締めているケンにアンヌの燥いだ声が掛かった。
「あなた、お強いわ。よろしければ、もう一手!」
「いえ、全く敵わないことが良くわかりました。お許しください」
さすがにもう勘弁してほしい。これ以上は何度挑んでも勝てるはずもなく、凹むばかりだ。
「えー。そうおっしゃらず。もう一手、一手だけ」
ケンが断っても、アンヌは諦めようとしない。
そこに、いつの間に来ていたのか、横から辺境伯が強請る娘を遮って窘めた。
「アンヌ、無理強いをしてはならん。彼は大事な体なのだ。かなり息が切れている様だ。疲れたままに手合わせして、怪我をされては困る」
「そうなのですか……。でももう一手ぐらい……。でも……とてもとても残念ですが……仕方ありません」
「御指南、有難うございました」
諦め切れなさそうにするアンヌに、ケンは頭を下げて礼を言った。すると踏ん切りが付いたのか、アンヌは明るい声に戻って手合わせを振り返った。
「何か、不思議な剣筋ですわね。守り、特に躱すことを第一にしていたようですけれど」
「剣は傭兵の人に教えていただいています。躱すのを第一にというのは、我流です」
「我流、ですか?」
「はい、お恥ずかしいのですが。自分で考えて」
「どのように? よろしければ教えていただけますこと?」
アンヌが笑顔で尋ねてくる。
我流を人に説明するのは恥ずかしいものだ。ケンは少し躊躇った。だが、相手は達人だ。自分のような未熟な者を嗤う事はしないだろう。そう考えて、正直に打ち明けることにした。
「私は黒狼の狩りを見るのが好きで」
「狼ですか?」
「はい。黒狼が獲物の銀鹿と闘うのを参考にしています」
「狼と鹿。狼の方がとても強そうに思うのですが」
「ええ、一般にはそう思われがちなのですが、実は大人の雄の黒狼と銀鹿では、銀鹿の方が体格が大きく、鋭い角もあり、一対一でまともに闘えば狼はなかなか勝てないのです」
「そうなのですか」
「それで、狼は負けないように、鹿の突進を受けて自分が傷付かないように闘うのです。自分が鹿の首領を引き受けて相手をしている間に、群れの仲間が他の弱い鹿を狩ってくれればそれで良いのです」
「そういうことなのですね」
「自分は相手を躱し、隙があれば狙う。決して無理はしない、自分の命を大切にする。そのような黒狼を見て、先程のような戦い方を考え付きました」
「工夫されたのね。素晴らしいわ」
「有難うございます。ですが、一対一の手合わせでは、息が続かないことが良くわかりました。お嬢様には到底敵いません」
「そうね。動きに、やや無駄が多いかと感じました。常に飛び跳ねるのではなく、足の運びを摺り足にすると、息の保ちが変わると思います。大きく跳ぶのはここ一番のために取って置くことにされては?」
「なるほど」
ケンが真剣に肯くと、アンヌは真顔になった。
「もう一つ。守り、躱しを主体とされるのであれば、焦って先に動くのはどうかな、と思います。先に攻められても、押し込まれそうになっても動じない、心の強さを持たれないと」
「……動じない心の強さ」
「ええ。守りに何より必要なのはそれです。そして相手の攻めの手を狭めていくように守るのです」
「相手の手を狭める、ですか?」
「そうです。ある手を守り切って見せれば、相手は同じ手を使い難くなります。次は返し技を受ける恐れがありますから。すると守れば守るほどに相手が使える手が減り、次の手が読み易くなるのです」
「確かに……。そうすれば」
「ええ、隙を作らせて狙うのも容易になるでしょう」
「はい。御教授有難うございます。鍛錬します」
ケンがまた頷くのを見て、アンヌは楽しそうな笑顔に戻り、期待に弾んだ声で言った。
「では、次の機会には、もっと楽しませていただけそうですね」
「……」
『次』。そう言われても、こんな大変な思いは二度としたくないような、それでもいつかはもう一度挑みたいような。
ケンが答えに窮していると、辺境伯が救いの手を出した。
「その位で良いかな? では、ケンは着替えて私の部屋に戻ってくれ。家の者に案内させる。アンヌ、お前も自分の部屋に戻りなさい」
「はい、お父様。ケン、楽しうございました」
「有難うございました」
アンヌはもう一度にっこりと笑うと、モリアを従えて館の中に去って行った。
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アンヌが自室に戻り着替えを済ませて一休みしようとした時に、扉を叩く音がした。
モリアが誰何する。
「どなたでしょうか?」
「私だ」
辺境伯の声だ。アンヌが頷くと、モリアは扉を開けて辺境伯を招き入れた。
「お父様、どうなさいました?」
「疲れているところを済まんが、お前に尋ねたいことがあってな。モリア、少し外してくれんか?」
「承知しました」
モリアが心得て頭を下げ、部屋を出る。父親と二人切りになるのを待ってアンヌは改めて尋ねた。
「何でしょうか?」
「ケンのことだ。手合わせしてみて、思ったことを聞かせてくれんか」
「ケンですか? 結構な腕前ですね。普段は何をなさっているのか存じませんが、普通の衛兵や傭兵よりは強いでしょうし、近衛でも通用するでしょう。そう、うちの領兵として前線に立っても、十人並み以上の手柄を挙げそうに思います。剣癖が強く、相手の隙を誘い出すのが巧いので、剣術を普通に習っている者には嫌な相手でしょう。もし修行に専念して続ければ、相当な難剣の使い手になりそうです。ただ……」
「ただ?」
「自分でも言っていましたが、一対一で闘うより、仲間と一緒に、あるいは率いて闘うのが得意なのではないでしょうか」
「なぜそう思った?」
「人を見る力、観察する力、とでもいいましょうか。そういう事が得意なのでは、と。最初に会った時には、私の事を、普通のか弱い女と思っていたようでした。それが訓練場では、向き合う前に私の歩容を見ただけで、既に侮りを捨てておりました。一合の後は自分の方が弱いことを悟り、その後はいかにして負けまいか、少ない勝つ可能性を少しでも上げるにはどうすれば良いか、私に何か癖は無いか、勝つ道を一心に探していましたから。負けた後ですら、何か考えているようでした。味方も敵も良く観察し、良く考える人なのでは。恐らくこれからも成長するでしょう」
「そうか。それで助言をしたということか」
「その必要は無かったかも知れませんけれど。単に優れた士卒に留まらず、良い将官になるのではと思います。お父様、その気がおありでしたら、ぜひお召し抱えになっては?」
「随分と高い評価だな」
「はい。ぜひ」
静かに、しかし目を輝かせながら頷くアンヌを見て、辺境伯は思った。
この娘は普段は大人しく、差し出口をするようなこともないが、手合わせをした相手の人物評価には間違いがない。以前には現ピオニル子爵と立ち合い、その自尊心がずたずたになるまでその手から剣を跳ね飛ばし続けた。その後に評価を尋ねた時には、微笑んで何も言わなかった。つまり、言うべきことも無い人物、ということだ。今のところ、見事に当たっていると思う。
あの時は、自分がアンヌに「怪我が無いように」と言ったのが迂闊だった、最初から本気を出させ怪我をさせても直ちに力の差を示させるべきだったと思ったが、今になってみれば、どの道、娘とあの男が魅かれ合うことは無かったのは明らかだ。
きっと、今回ケンに下した評価も間違いはないだろう。しかし。
「残念だが、それはできん。ケンは今、自分の村の難事に当たっている。領主と紛争になり、死者が出かねない窮地だ。お前にもわかるだろうが、身内を見捨てるようなことはしない男だろう」
「そうでしたか。確かに、顔付きに決意のようなものを感じました。それではお父さま、その村民を全てこちらへ引き受けられてしまっては?」
「……何を言い出すんだ。子爵に正面から喧嘩を売れ、と言うのか」
「いけませんでしょうか。それだけの甲斐はあるのでは。お父さまも常々『卒は鍛錬、士は経験で育つが、将は天性のもので得難い』とおっしゃいますから」
「いかんも何も。他領の村民を村丸ごと引き抜くなど、前代未聞だ。私が子爵に訴えられてしまう」
「相手があの子爵であれば、気にすることは無いようにも思いますが。むしろ彼は、一度は自分自身を思い知る機会を得た方が反って成長されると思います」
「……随分と辛辣だな。まあ、いざとなったら考えてみよう。お前の意見はわかった。このことはくれぐれも内密にな」
「はい」
「邪魔したな」




