第五十四話 辺境伯の館
前話翌日
翌朝、ケンは夜明け前にブルーノ兄に起こされた。
ブリギッテ義姉さんが用意してくれた焼きパンと具のたっぷり入った温かい野菜汁を食べた後、アルフ兄に促されて荷馬車の荷台に乗り込んだ。
ブルーノ兄は小声で『頑張れよ』と囁き、笑顔で見送ってくれた。
町が見えなくなると荷台に準備されていた野良着に着替え、手拭いで頬被りをする。荷台でもぶつぶつと言上の練習をしていると、御者席からアルフ兄の声が掛かった。
「どうせ昨晩はあまり眠ってないんだろ。練習はもう十分だ。その位にして、頭を休ませろ。寝不足でぼやけた頭では、言上は上手くできてもその後の閣下の御質問に答えられんぞ。構わないから、眠っていろ」
「わかった」
ケンは兄の言葉に素直に答えた。しかし、そうは言ってもこれだけ緊張して目が冴えているのだ。眠ることなどできそうにない。それに馬車の荷台には横になれるような空間は無い。それでも目を瞑っていれば少しは休まるだろうかと思い、脚を抱えて膝に頭を乗せてみた。
目を閉じると荷馬車の揺れが強く感じられる。地面の凹凸を伝える細かい響きに交わって、車軸が僅かに歪んでいるのか、少し大きな揺れが周期正しく伝わってくる。ケンは幌の下の薄暗がりの中でなんとなくその数を数え始めた。
少し馬車が進んだ頃にアルフが御者台から振り返った時には、ケンは僅かに口を開けて大きな寝息を立てていた。弟のその安らかな寝顔を見て思わず笑ってしまったが、すぐに真剣な顔付きに戻って考えた。
この弟は、偶に会う度に見違えるほどに成長している。背は伸び、体付きは逞しくなった。もう俺やブルーノとそれほど変わらないぐらいだ。顔も引き締まり、目や口元に思慮深さが見て取れる。その背中に背負っているもの、大切にしているものも増えていっているようだ。村の厳しい現実に向き合って、どんどん大人にならざるを得ないのだろう。
それでもこの寝顔には幼さや無邪気さがまだまだ十分に残っている。
父が手放し、離れて育ったこの可愛い末弟のために、兄である自分がしてやれることは少ない。
アルフは信心深い方ではないが、弟にこの試練を何とか無事に乗り切らせてやって欲しいと、神と四精に心から祈った。
荷馬車が辺境伯領の領都の街中に入る少し前に、ケンは兄に起こされた。
寝起きのぼーっとした頭では、言上をまともにできるわけがない。しゃきっと、目を覚まさせておくように言われた。
ケンは手を組んで上に挙げ、背伸びをした。首を左右に二、三度曲げているとさっぱりした気分になり、頭も冴えてきた。
幌の掛かった荷台から顔を覗かせて外を見ると、天気は良い。今日の成功を約束してくれているものと、無理にも信じ込むことにした。
そうこうするうちに荷馬車は街中に入った。ケンが見たこともない大きな街だ。建物の規模も人の数も、ケンの知っている町や村とは吃驚するぐらいに違う。多分、何千人、いや、ひょっとすると万を超える人が住んでいるのだろう。自分には想像もできない人数だ。
ケンは頬被りを被り直し、顔を出さないように気を付けて、幌の隙間から周囲を見物した。
街道には自分の乗っている荷馬車の前後にも何台もが続いて走っているようだ。歩いている人の数も多い。両側には様々な商店が建ち並んでいて、ひっきりなしに人々が出入りしている。その賑わいにケンが驚いて目を見張っているうちに、辺境伯の大きな館に到着した。
荷馬車は話に聞く城壁のような高い石塀沿いを進み、一度表門を通り過ぎて大通りから横道に入った。どうやら裏門から入るようだ。
アルフが門番に気安く声を掛けると、重厚な木造りの門が大きく開かれた。門を通ってさらに進み、何台もの荷馬車が停められている駐車場で止まった。
アルフは御者席から降りてくると歩み寄って来た馬丁らしき男に手綱を預け、ケンに荷物を降ろすように言った。
「厨房に運ぶんだ。手伝ってくれ」
ブルーノが準備してくれたずっしりと重い野菜入りの木箱の二つを荷台から降ろさせると、アルフは箱の一つを持った。ケンがもう一つの箱を持つと先に立って歩きだした。
作業場や倉庫と思しい小屋がいくつか並ぶ広い裏庭を横切り、館の裏口、といってもかなり大きな入り口に向かう。
「こっちだ、厨房だ」
アルフは建物に入ってすぐ右手の扉を開けた。
扉が開くと忽ち様々な食べ物の匂いが押し寄せてくる。中では何人もの男女が忙しく立ち働いている。この館には辺境伯の家族以外に奉公人も何十人と住んでおり、彼らのための食事を一日中作り続けているのだろう。竈の熱、鍋や薬缶から湧き上がる湯気、互いに掛け合う声も賑やかで、若々しい活気に満ち溢れている。如何にも盛運の下にある貴族家の厨房といった風情だ。
中央では白服の恰幅の良い男がせかせかと歩き回り、働いている男女に陽気な大声で次々と指示を出している。丸い顔がはち切れんばかりの笑顔だ。
アルフは中に入るとその男に声を掛けた。
「厨房長、頼まれていた野菜だ。選りすぐりの特上ものだぞ」
「おお、有難う。済まんが、そこの隅に積んでくれるか」
「ここだな。残りもすぐに運んでくる。台車を借りていいか?」
「いいとも。そこにあるのを使ってくれ。誰かに手伝わせようか?」
「いや、それほどの量じゃないから、こいつにやらせる。ケン、残りの箱も運んでおいてくれ」
アルフはケンに指示を出すと、また厨房長に向いた。
「厨房長、俺は閣下のところへ行ってくる。少し掛かるかもしれないから、その間、こいつをここで待たせてやってくれないか?」
「ああ、いいぞ。その隅の脚立にでも座ってろ」
そう言うと厨房長は横から話し掛けてきた女の相手をし始めた。アルフはケンに近付いてさり気なく耳元に口を寄せた。
「ケン、運び終わったらここで暫く待っていてくれ。閣下にお願いをしてくる。大丈夫だ、落ち着いて待っていろ」
そう小さな声で言い残すとアルフは厨房から出て行った。
ケンは言われた通りに台車を押して馬車に戻り、何往復かして残りの箱も全部運んだ。運び終わったので言われた小さな脚立に腰を掛け、物珍しさにきょろきょろと辺りを眺めていると厨房長が笑顔で近付いてきた。
「おう、お前、アルフの所の若い者か?」
「はい」
「御苦労さん。これでも食えよ」
そう言うと小さな杏の実を投げて寄越してきた。
「有難うございます」
「ふーん」
皮ごと齧り付いて食べていると顔をじろじろ見てきたので思わず下を向く。
「おい、お前」
咎めるような声を掛けられてケンはびくっとした。何か怪しまれたのか。恐る恐る顔を上げると、厨房長は開けっ広げの笑顔のままだった。
「顔が汚いなあ。お前、さては来る途中、荷馬車で居眠りしてただろう」
「え……」
「目脂だらけじゃねえかよ。顔を洗ってきな。そこの扉を出たら裏庭に雑用用の井戸があるから」
「はい……」
「そんなだらしない顔のやつに、御前様の館に出入りされたくねえよ。ほーれ、さっさと行ってこい」
「済みません」
ケンは食べ終えた杏の種をごみ箱に捨てると、慌てて厨房から飛び出した。後ろから、大勢の陽気な笑い声が上がるのが聞こえた。
料理長から言われたとおりに裏口から裏庭に出て周りを目探しすると、確かに隅の方に井戸がある。多分、馬に水をやったり、荷馬車を洗ったり、周囲の植木に水を撒いたりするのに使うのだろう。
釣瓶を落として水を汲み、置いてあった桶に溜めて顔を洗う。冷たくて気持ちが良く、さっぱりして有難い。風も涼風となって顔に心地良い。
頬被りしていた手拭いを取り顔を拭いていると、後ろから女の声がした。
「そこの男」
「……」
「お前よ! 聞こえないの!?」
「俺?」
驚いて振り向くと、飾り気のない、それでも生地が上等そうな濃紺の服を着た壮年の女が険しい顔で声を掛けてきた。
「見ない顔ね」
「トリニール町の代官様の下男です。荷物運びで参りました」
「そう、ちょうどいいわ。ちょっと手伝ってちょうだい」
「代官様に、厨房で待つように言われてるんですが」
「すぐに済むわ。運んで欲しい荷物があるの。付いて来て」
「ですが代官様が……」
「代官の下男なら御前様の下男も同然よ。いいから付いて来なさい」
「はあ」
ケンは迷ったが、騒ぎを起こすわけにはいかないので、止むを得ず従うことにした。頬被りをし直して付いて行くと、先程の駐車場に戻った。兄の荷馬車の横に、さっきは無かった別の大型の荷馬車が停められており、何人かの下男が忙しく荷物を下ろして運んでいる。
女は、荷馬車の横に敷物を敷いて取り分けられた小さな衣装櫃を指差した。
「これよ。持ってきて」
蓋にも横にも彫り物がある大層な造りの櫃だが、持ち上げてみると大した重さではない。中身は服か何かだろうか。このぐらいなら自分で運べば良さそうなものだが、貴族というのは本当に面倒なものだ。
ケンは言われるままに、櫃を持ち上げて肩に担ごうした。
「ちょっと待ちなさい! 大切な荷物なの、乱暴な持ち方は止めてちょうだい」
「はい。済みません」
叱られたので止む無く肩から降ろし、両手で体の前に抱え持つ。
女は満足したのか、先に立って歩きだした。
裏口から館に入ると、厨房の前を通り過ぎて廊下を進み、曲がり角を何回か曲がって階段を三階まで登り、とある部屋の前で立ち止まった。
「いいこと、このお部屋にいるお方に何か話し掛けられても、直接お答えせず、私に答えるようにすること。いいわね」
「はい、承知致しました」
ケンの返事を聞いて女は変な顔をしたが、そのまま部屋の扉を開けて、中に声を掛けた。
「お嬢様、王都のクローゼ商会からお衣装が届きました」
すると部屋の主らしい若い女の声が応えた。
「ありがとう。そこに置いておいてちょうだい」
「承知しました」
そう応えると、ケンを連れてきた女はケンの方に向いて言った。
「部屋に入っていいわ。扉の横に置いて。大切なものだから、そっと丁寧に」
「はい」
指示された通りに中に入って指差された場所にケンがゆっくりと衣装櫃を降ろすと、女に十ダラン銅貨を一枚渡された。
「御苦労様。これ、駄賃よ。行っていいわ」
ケンは無言で頭を下げて早々に部屋を出ようとした。ところが、部屋の主の若い女が声を掛けてきたために、足を止めざるを得なくなった。
「貴方、ちょっとお待ちなさい」
「お嬢様、この者は荷物運びの下男です。直接話されてはなりません」
壮年の女が窘めると、『お嬢様』と呼ばれた若い女は小首を傾げた。
「下男? 本当に? それにしては体付きが良いわね、何か武術をやっているのではなくて?」
「お前、そうなの!? よもや刺客では?」
女は慌てて『お嬢様』の前に立って庇おうとする。
「大丈夫よ、モリア。この人、緊張はしているけれど、殺気はまるで感じないもの」
『お嬢様』が笑って女に言う。
ケンは『モリア』と呼ばれた女に向かって恐る恐る話し掛けた。
「あの」
「何? 言ってごらんなさい」
「怪しい者ではございません。早く代官様の所に戻りたいんですが」
それを聞いて、モリアはお嬢様の方を向いた。
「お嬢様、この者が言うには、ファジア代官に連れられてきたとのことです」
「そう、それは悪かったわね。この館は初めて?」
お嬢様に尋ねられたので、言い付け通りにモリアの方を向いて答える。
「はい、初めてです」
お嬢様は「そう」と応じてモリアに命じた。
「初めてなら、勝手がわからないでしょう。モリア、迷子にならないように案内してあげなさい」
「ですが、お嬢様」
「アルフ殿が怪しい者を引き入れるわけがありません。早くなさい」
「承知しました。お前、先に部屋から出なさい」
「はい、有難うございます。失礼致します」
ケンは大人しく頭を下げて言われた通りに部屋から出た。案内されなくてもさっききたばかりで経路はわかる。廊下を来た方向に戻ろうとすると、モリアが引き留めた。
「待ちなさい。お前、本当に下男なの?」
「はい」
「本当に? 言葉使いも態度も、変に丁寧で下男らしくないわね」
「いえ、そんなことは」
「まあ、いいでしょう。後で代官に尋ねてみます。厨房の場所はわかりますか?」
「だいたいは」
「そう。突き当りを右へ。そこの階段を一階まで下りて左へ。さらに突き当りを左へ。一番奥が厨房よ。それ以外を歩き回らないように。いいわね?」
「はい、有難うございます。失礼致します」
ケンが立ち去ると、モリアは少し間を空けて後をつけた。しかし特に不審な挙動もなく、厨房に戻るようだ。と思ったら、すぐに代官と一緒に出てきてこちらへ来る。
モリアは慌てて姿を隠すとお嬢様の部屋に戻った。
「お嬢様、あの男、やはり代官が連れてきた者で間違いないようです。厨房から、代官と共に出てきました」
「そう。やっぱりただの下男だったのかしら。何か張り詰めた雰囲気があると思ったのだけれど、私の勘違いね」
「それが、そうでもなさそうです。代官に付き従って、御前様の執務室の方に向かいました。ただの下男であれば、御前様に引き合わせることはあり得ないと思います」
「まあ。誰かしら。お父様の所へ行ってみようかしら」
「それはお止めなさいませ。お仕事の邪魔をしては、なりません」
「そうね。ああ、あの人の手を見せてもらえば良かったわ。剣胼胝があれば、すぐにわかったのに。折角ですもの、手合わせして見たかったわ」
「アンヌお嬢様、ついこの前にも武術好きがすぎると、御前様と奥方様のお叱りを受けたばかりでございましょう。自重なさってください」
「はい。残念だけれど、仕方ないわね」




