第三十一話 花園楼
承前
花園楼は、飾り気のない質素で古風な木造の、しかし奥行きの深い大きな二階建てだった。
その古びた木の壁は折からの風雨に濡れて黒々と光っている。周囲に立つ、派手な色で艶やかに塗り上げられた数々の背の高い建物と比べると、むしろ異彩を放って良く目立つ。
ユーキとクルティスはその異風を門前で感心して見上げていた。
「驚かれやしたかい? 外見には枯れておりやすが、中は花園にございやす。今を盛りと、色彩り彩りに咲き誇っておりやすよ。さあ、お通りなすって」
柏が促して二人を玄関へと導いた。大きな引き戸を開けて先導して入り、声を張る。
「お二人様、お上がりー!」
すると待ち構えていた二人の美しい少女が、上がり框に三つ指を突いて出迎えた。
「畏まりー」
「ようこそ、いらっしゃいまし」
顔を上げたその笑顔を見ると、一人は菫だ。
手早く着替えたのか、先程とは異なり華やかな着物を着ている。薄桃色の地に、紫色の小さな菫の花が沢山配われている。もう一人も菫と同じ髪型に同じ着物だが、柄が異なり、色鮮やかな菖蒲の花が二つ三つと連なって咲いている。
菫に遅れて顔を上げたその子が、ユーキの顔を見て言葉を失った。艶濃い鹿色の髪を揺らし細い糸目を精一杯に見開き、あわあわと口を震わせている。
ああ、この子が菫さんが姿絵屋で言っていた朋輩なんだろう。しまったな、正体に気付かれてしまったようだ、どうしようか、とユーキが迷っていると、その子が感極まった声にならない声を絞り出した。
「ユー様……」
「菖蒲!」
『アヤメ』と呼ばれたその子に柏が鋭い声を飛ばした。
「失礼仕るな! こちらはシュトルム様だ。商家の御曹司でいらっしゃる。お伴はクルティス様だ」
「ユー様の本物じゃない? ……つまり実寸大ユー様人形? ……というか実寸大自律歩行ユー様人形? ……むしろ実寸大意思疎通可能自立歩行ユー様人形……」
「いいかげんにしろ!」
「あ、あい」
再び叱声を掛けられて、漸く菖蒲が我に返った。
「シュトルム様は菫の御恩人だ。いいか、今日は菫を立てろ。いいな」
釘を差され、念を押されて菖蒲は残念そうに頭を下げて「あい」と答える。柏は「菫もだ」と続け、「あい」と返事が返ってくるのを確かめて、ようやく声を緩めた。
「ではお上がり願え。シュトルム様、クルティス様、お履物はここでお預かり致しやす……クルティス様?」
柏が名を呼び困り顔で見ているその先を辿ると、クルティスが後ろで横を向いて体を二つ折りにし、腹を抑え体を大きく震わせ、声を殺して笑っている。
「ユー様……実寸大ユー様人形って……駄目だ、腹が痛い……」
「クルティス。失礼だぞ」
「……皆様、大変失礼致しました」
ユーキに刺々しい声で注意されてクルティスは何とか立ち直って頭を下げた。その肩はまだ震えているが、柏も何も無かったかのように素知らぬ顔に戻って案内を続けた。
「では、後はこの者たちが。あっしは別で着替えやすので、また後ほどお目に掛かりやす」
「僕たちはこのまま上がっていいんですか? 床が濡れてしまいますが」
「へい、私どもは水商売で、雨のお客様は縁起が良いってんで大歓迎でさ。どうぞそのまま。ささ、どうぞどうぞ。菫、菖蒲、まずは湯殿でお着替えを差し上げろ」
「あい。では、こちらへどうぞ」
ユーキたちは柏や少女たちに促されるままに靴を脱いで段を上った。履物無しで歩くのは妙な具合だが、解放感と板張りの床から伝わる冷たさが気持ち良い。
菫が先に立って案内する後に続いて歩きだすと、後ろで柏たちの声がした。
「松爺、お履物のお預かり、椿の間だ。拭き物も頼む」
「へーい」
振り返るともう柏の姿はなく、白髪の痩せた老爺が濡れた跡をきびきびと楽しそうに拭いている。こちらに気付くとさらにいい笑顔ですっと頭を下げた。気持ちの良い所作だ。この家の奉公人は相当に躾が行き届いているのだろう。
「シュトルム様、どうぞこちらへ」「ク、クル?……お伴の方はこちらへどうぞ」
湯殿と言われた浴室は、個室がいくつか並んだ設えだった。菫と菖蒲に導かれて二人はそれぞれ別の部屋に入った。クルティスはユーキと別れるのを躊躇ったが、ここまで来て刺客もないだろうとユーキが頷いたので、そのまま菖蒲に従うことにした。
ユーキが脱衣所に入ると、続いて菫も入ってきた。
「えっ、ちょっと、」
「お着替えをお手伝いいたします」
菫は平然とユーキを見ている。これで自分だけが照れるのも変なものだ。顔から火が出るほど恥ずかしかったが、我慢することにした。
ユーキは上着と肌着、長袴を脱いで菫に預けた。さすがに下履きは脱げない。そこまで濡れていなくて本当に良かった。
「湯をお浴びになられますか?」
「いや、体は冷えていないから、いいよ」
「では、お背中をお拭きいたしますので、その腰掛にどうぞ」
促され、言われるままに脱衣所に置かれている小さな腰掛に座る。すると菫も着物を手早く肩脱ぎして上だけ白物一枚になり、湯殿で手桶に湯を汲み、手拭いを漬けてから絞る。そしてユーキの背後に回ると、温かい手拭いで背中をそっと擦りながら礼を言った。
「さきほどはありがとうございました」
遠くで雷の音がする。外はまだ激しい雨なのだろうか。菫の声はまだ硬い。それに気が付いたユーキは、自分にできる限りの優しい声を出した。
「今日は怖かったし、辛かったよね、悔しかったよね。気にしないようにね」
菫は静かな声で答えた。気持ちを押し殺しているのだろう。
「……ありがとうございます。あの者に罵られた時、目の前が真っ暗になりました。言い返したかったのに、できなくて悔しくて、情けなくて」
ユーキの背に、湯とは異なる温かいものがポツリと落ち、菫の声が震えだした。
「それが、シュトルム様が言い返してくださったお言葉……芸を売っている、……一所懸命頑張っている、努力しているという一言一言で、お日様が射してきたように明るくなって、……胸が熱くなりました」
手が止まり、「えっく、えっく」としゃくり上げ始める。ポツリ、ポツリとユーキの背中に落ち掛かるものが止まらない。ユーキは振り返りたくなる衝動を懸命に堪えた。泣き顔はきっと見られたくないはずだ。見ちゃいけない。でも。
「泣きたいときは我慢しない方がいいよ。体に悪いから。ここなら、他の誰にも聞こえないから大丈夫」
「本当に……嬉しうございました……私のような者のために……ありがとうございました……」
「『君のような者』、じゃない。君だから言いたかったんだ。君を傷付けさせたくない、そう思った僕自身のために言ったんだ」
「あい」
「だから、『私のような』などと言わないで」
「あい、ありがとうございます……」
そう言うと菫はユーキの背中に抱き付いて、声を上げて泣きだした。ユーキはその手に自分の手を重ねてそっと撫でた。撫でるうちに、泣き声を聞いているうちに胸が痛くなり、ユーキの目にも熱いものが浮かんできた。それを隠して撫で続けた。
何度も何度も、繰り返し繰り返し、「大丈夫、大丈夫だよ」と言いながら。
暫くすると菫は泣き止み、背中から離れた。落ち着いたようなので、ユーキは振り向いて笑いかけた。
「もう大丈夫?」
「あい」
「そう。良かった」
「情けない姿をお見せいたしました」
「ううん、気にしないで」
「ありがとうございます。あの……シュトルム様の御手、温こうございました」
そう言って俯いた拍子に菫は真っ赤になって胸を押さえた。どうやらユーキの背中に抱き付いた時に白物が少し濡れ、胸に小さな小さな桜の花が咲いたらしい。
ユーキは慌てて前を向いた。
「大丈夫、見えていないから。上を着て、僕の着替えの準備をしてくれるかな?」
「あい」
返事は、とても恥ずかしそうな、でもとても明るい声だった。
菫が着物の肩脱ぎを直し終わったのを衣擦れの音で確認してから向き直り、手伝いを受けて用意された着替えを着る。甲斐甲斐しく元気に立ち働くその姿を見て、良かった、本当に良かったなとユーキは思った。
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一方、クルティスは脱衣を手伝おうとする菖蒲を、いいよ、と断って、さっさと服を脱いで湯殿に入り、自分でざばざばと湯をかぶっていた。
菖蒲は脱衣所で立ち尽くしており、足の親指で『の』の字を書いている気配がする。
クルティスは湯殿から声を掛けた。
「シュトルム様の方に行きたかったか?」
「いえ、そんな」
「本当のことを言ってもいいんだぜ?」
「……あい。私が使いに行ければ良かったのにと思います。そしたら、シュトーレン様と……」
「シュトルム様な。でもお前は菫ちゃんと違って、迷子になったりしないだろ?」
「あい」
「そしたらそもそも俺たちと出会えていない」
「それはそうでありますが。はぁ」
菖蒲の大きな溜息が聞こえる。
「なんでユークリウス殿下が好きなんだ? 良かったら教えてくれよ」
「……昨年、国王陛下の御誕生日の御参賀に、若い衆に連れて行っていただくことができまして」
「殿下が初めて参加した時か?」
「あい。ちょうど、ユー様の前あたりに私たちはいたのです。他の王子様は、全体を何げなしに見回されるだけなのが、ユー様だけは、私たち一人一人の目を見て頷きかけながら手を振ってくださってました。私も目が合って、微笑んでもらいました。その笑顔がもう可愛くって」
「それだけで?」
「いえ。終わりの時刻になってお帰りになられる時、人波が動いてその拍子に私たちの前にいた人が何人か転んだのです。王族方は気付かずにお帰りになられましたし、スタリオン殿下など、明らかに気付かれたのに、顔色も変えずに振り向いてすたすたと立ち去ってしまわれて」
「ふーん。スタイリス殿下、な」
「でも! ユー様だけは! 立ち止まられて御心配そうに身を乗り出してこちらを見ておられて! 転んだ人たちが立ち上がり、駆け付けた警備の衛兵が、怪我人なし、大丈夫と丸印を仲間内で交わすのを御覧になると、ほっとしたように笑顔になられて、もう一度こちらに手を振られてから去られたのです! それを見て、ユー様は本当にお優しい、私たちの事を気に掛けてくださるお方だと! それからずっと、私の推しなのです!」
「そうか。なるほどな。ユー様、優しいもんな」
「あい。楼では、私だけの推しだったのに……」
クルティスは湯を浴び終わり、体を手拭いで拭くと、その手拭いを腰に巻いて脱衣所に戻った。
「なあ、知ってるか?」
「あい?」
「ユーさ……シュトルム様は、落ち着いてしっかりしていそうに見えて結構抜けてるところがあるんだなあ」
「どんな?」
「ここだけの話だぞ?」
「あい」
「(菫ちゃんにも内緒だぞ?)」
「(あい)」
クルティスは声を徐々に潜めていく。陰謀を打ち明けるように悪い笑顔を近付けると、つられて顔を寄せた菖蒲の返事も小さくなる。
「(子供の頃、御両親に奇術団の公演を見に連れて行ってもらう時、慌てて走って滑って転んで頭に怪我をして。血を出して大泣きして、このくらいで泣くなと叱られて)」
「(まあ)」
「(大事を取るため取り止めになったら、今度は悔し泣きしそうになってこーんな顔して堪えてたんだ。今でも時々、その時の傷跡に触ると、しょげている)」
「(可愛い……)」
「(買ってもらったばかりの帽子を馬車馬に喰われたり)」
「(お可哀そう)」
「(甘い物好きではないと装って、自分では食べないように気を付けてるけど、周りから薦められると嬉しそうにほいほい食べてたり、辛いものは平気そうにしてるけど、口がへの字になってたり)」
「(見てみたい)」
「どうだ、幻滅したか?」
クルティスは声を戻した。菖蒲は笑顔になっている。
「いいえ。お可愛くて、むしろより好きになりました」
「そうか、お前だけの秘密にしておけよ?」
「あい。ク……クルトン様」
「クルティスな」
「クルティス様もお優しいのですね」
「いいや。子供がしょげてるのを見るのが嫌なだけさ。実は、年下、特に年下の女の子は苦手なんだ。じゃあ、着替えを頼むな」
「あい!」




