第二十七話 鍛錬
王国歴222年10月(ユーキ17歳)
日に日に秋風は勢いを増し、暑かった夏が嘘のように気温も下がっていく。体を動かすには良い気候の日が続く。
今日のユーキの鍛錬は体術だ。週に一度か二度は近衛師範が指導に来てくれるが、今日は傅役のクーツの下で励む。相手はいつもクルティスが務めてくれる。ユーキは昨夜の事を忘れようと、気合を入れて臨んだ。
昨日は王家の行事とその後の夜の宴席に出席した。社交界に出るのは気が進まないが、王子としての公務とあれば、欠席はできない。
最近は好意的に声を掛けてくれる貴族や令嬢方も少しずつ増えてきた。昨夜も、これまでにも何度か話をしたことのある、成人の儀を終えてそれほど間もない二人の下級貴族の令嬢から巧みに誘われて話を聞き、慣れない舞踏にも参加した。懸命に踊ったが、こちらの足取りがおぼつかないせいか、何度か足を踏まれてしまった。なんとか取り繕ろうことはできて、相手も笑顔で流してくれた。
その後に、風に当たって体の火照りを冷まそうと外廊に出ようとした時、その二人の令嬢が外で笑いながら話をしているのが耳に入り、良くないと思いながらもついつい立ち聞きしてしまった。二人はユーキの事を噂していたのだった。
ユーキが居た堪れなくなってそっと去るまでの間、途切れ途切れに聞こえてきたのは『噂通りの堅物』『会話も踊りもぎこちない』『スタイリス王子のような華やかさも、クレベール王子のような翳と深みもない』『所詮は小物』……果ては『夫にしたら人生がつまらなくなる』とまで、貴族特有の美辞麗句に言い換えてはいても、意味することは伝わった。
別に令嬢方に好かれようとは思っていないが、面と向かった際にはとても楽しそうにしていた二人だっただけに堪え、ユーキは落ち込んだ。年下にまで、そう思われているとは。陰口なんか決して聞くものじゃあないと、身に沁みてわかった。
クーツの指示に従い、ユーキとクルティスは道場の中をゆっくりと走って体を温め、柔軟運動で解した後に、基本の型を繰り返す。
「フッ! フッ! フッ!」と気合を込めながら拳を握って突きながら前に出る、前に出る、前に出る。
相手の突きを想定してそれを払い落としながら後ろに下がる、後ろに下がる、後ろに下がる。
あるいは、蹴る。足を払う。腕を取って捻る。さらに懐に入って投げる。
最初は入りすぎた気合のせいか肩が力んで姿勢が崩れてクーツに厳しく注意されたが、動作の繰り返しが進むにつれて邪念が消え、無駄な力が抜けて動きが滑らかになってくるのがわかる。
ユーキがこの感覚を持てるようになってきたのは最近のことだ。クーツに尋ねるまでもなく、上達が自分でも感じられて嬉しくなる。型練習に励んでいる間は自信のようなものが湧いてくる。
鍛錬の最後は、クルティスとの組手だ。防具を付け、気合を入れ直して臨む。今日こそは一本を取って見せよう。
「行くぞ!」
「どうぞ」
クルティスが落ち着き払って応じる。余裕のある態度が小憎らしい。身長の差で上から見下ろされるし。
こいつはさらに背がぐんと伸びて、もう僕より頭一つ、いやそれ以上高い。僕だって、王族としては低いかも知れないけど、庶民の中に入れば高い方なんだけど。
ああ、悔しい。今日は、今回こそは、一本取る。
籠手を付けた拳を軽く握り、左腕を少し曲げて前に出し、右の拳は顔の前に上げる。クルティスは逆に右前に構え、ゆっくりと右の拳を上げ下げしている。
その呼吸を測り、息を吐き切ったところを狙って左足をすっと前に出し、左拳を突き出す。軽く払われるが、これは釣るための陽動だ。クルティスが前に出ようとする気配がしたので腰を落として右足を振り出し、相手が踏み出して体重が乗った右足を蹴る。
うまく入った! 当たりこそ軽かったが、躱そうと足をずらしたクルティスの体勢が崩れ重心が前に落ちる。そこを懐に入り込む。さらに腕を取って引き込み腰に乗せ、膝の力で腰を跳ね上げれば、背中から床に投げ落とせる!……はずだった。
その体勢が崩れたはずが、実際にはクルティスは懐に入ったこちらの体を抱え込んで腕を取らせない。そのまま、前に倒れ込みながら回転して背中から着地する。その勢いで両足をこちらの腰に絡めて体を捻ってさらに横に回る。一回転、二回転、止まった時には何がどうなったかわからないうちに背中を完全に取られ、クルティスの腕がこちらの首に巻き付いている。実戦であれば簡単に絞め落とされているだろう。
クーツの「それまで!」の声を聞くまでもない。また負けた。
クルティスは先に立ち上がると、こちらに手を差し出してきた。無表情なのが、ユーキの悔しさをさらに煽る。その手を掴んで立ち上がる。
「もう一本!」
「どうぞ」
何とかこの表情を崩してやりたいものだ。そう思ってその後も何本か組手を続けたが、結局、今日も一本も取れずに終わってしまった。
「今日はこれまでとしましょう」
クーツの声を聞いて力が抜けた。そのまま床に腰を落として座り込む。
歯が立たない。
手足を投げ出し、大の字に寝転んだ。悔しい。横に二人がそっと腰を下ろす気配がする。
防具を外し、頭を振って張り付いた髪の毛を剥がす。掻き上げると熱い汗が指に付く。
「あー、悔しい」
思わず声が出た。口に出してしまうと、ますます悔しさが募る。
どんどん力の差が広がっていく気がする。いや、そんな事はない、僕も強くなっているはずだ。はずなのだが。
情けない気持ちが噴き出してきて、堪えようとしても止められない。必死に耐えようとしても無念さに打ち負かされる。僕は心もこんなに弱いのか。知らず知らずに目に涙が溜まり、汗に混じって頬を流れ落ちる。いや、汗だ。全部汗なんだ、これは。
ユーキが歯を食い縛って自分に言い聞かせていると、クーツの静かな声が聞こえた。
「殿下、かなり上達されましたな」
「いや、お世辞はいいよ」
口に出すと涙声が隠せない。
「お世辞ではありません。構えも動きも、この数か月ほど、めきめきと進歩しておられます」
首を振ると、クルティスがうんうんと頷いているのが見えた。また頬を何かが流れた。見られないように急いで顔を戻す。
「その数か月の間に、クルティスに一度も勝てていないんだけど」
「クルティスもまた伸びておりますので」
「ますます差を付けられているよね?」
震える声で投げ遣りに答える。
クルティスが手加減をしているのはわかる。いや、わからない。きっとしているのだろう、と思うだけだ。手加減をしているのだろうが、どこをどう緩めているのかもわからないのが悔しい。手加減をされても勝てない自分が情けない。
僕は誓ったんだ。自分を磨いて心身共に強くありたいと。皆を幸せにしたいと。そのために懸命に励んでいるのにこの様だ。絶望感を覚える。僕如きがどんなに励んだところで、仕方が無いのだ。
またクーツの声が聞こえた。慰めの色が強い。
「そうおっしゃいますな。殿下も並人相手ならば楽々と勝ちを収められるでしょう」
「無理だよ。僕なんか。クルティスに全然敵わないんだから」
そう言ってしまうともう止められない。眼から溢れる滴も、喉から息と共に溢れる音も止められない。
クーツの声が消えた。こちらが落ち着くのを待っているのだろう。気を遣われていると思うと、ますます止められない。転がったまま両手で顔を覆い、懸命に深く息をしようと努力する。それでも止まらない。自分が曝している醜態が目に見えるように思え、食い縛った歯の間から洩れる泣声が耳を刺す。
暫くしてユーキの嗚咽がどうにか治まったのを見て、クーツがまた静かに声を掛けた。
「殿下、どうかクルティスは別とお考えください。クルティスに負けるのは恥ではありません。体術、剣術、槍術にせよ、近い年頃でクルティスとまともに闘える者は、恐らく王都中、あるいは国中を探してもそうはいないと思います。少々年上でも、敵いますまい」
「……そうなのか」
ユーキは恐る恐る声を出した。何とか普通の声が出せたので少し安堵して尋ねてみる。
「大人でも?」
「きちんと鍛えていない者であれば。勿論、鍛え抜いた手練れの大人には力押しされれば負けるでしょう。しかし、一年、二年と経て、体がさらに育って筋力が増せば、それもいずれ克服するでしょう」
「凄いな。それなら、いずれ武芸者になって国中に名を轟かすことを目指したらどうかな? 有名な武芸者になれば、僕なんかじゃなく、国王陛下に直接仕えることもできるだろうし」
「ふぅ」と溜息交じりに応じると、その時、今まで殆ど喋らなかったクルティスがいきなり立ち上がって大声を出した。
「それは致しません!!」
驚いた。起き上がってクルティスを見ると。クルティスは睨むようにこちらを見詰め、歯を食い縛っている。顔が真っ赤だ。
怒っているのだ。また驚いた。こいつが僕に怒ったのは、いつ以来だろう。もしかすると、初めてかもしれない。驚きでまだ目に残っていた涙が引っ込んだ。
「なぜ。いくら鍛えても学んでもどうにもならない、甲斐性なしの小物殿下に仕え続けても、碌なことはないよ」
「そのような事はありません!」
クルティスの声がさらに大きくなった。怒鳴っていると言ってもいいぐらいだ。
クーツが立ち上がって息子の肩をそっと叩いて宥めて座らせ、自分も真っ直ぐ座り直した。相変わらず静かな声は、今度は慰めではなくユーキを諭すためのものだった。
「殿下、滅多なことを申されますな。祖母君も母君も御前様も、殿下の御将来を楽しみにしておられます。我等も、殿下にお仕えしていることを誇りとしております。殿下を一廉の方と信じて付いて参っているのです。我々だけではありません。身の回りのお世話をしているヘレナやアンジェラたちも、家中の他の者どももそうです。どうか、無暗に卑下なさらないでください」
「そうは言われても、武術も馬術もクルティスに遠く及ばないし、学術とて、そう優れているわけではないことは、自分でもわかる。精一杯自分を磨いているつもりなのに、この有様だ。王族の血も薄いから、将来は小さな領の領主に出されるのが精々だろう。貴族たちからも馬鹿にされているし。僕のどこに見所があるのか、僕にはわからないよ」
「そうですな、御自分では御覧になれない所ですな」
「お前たちには見えるのか?」
「はい。上に立つ者、皆を率いる者に無くてはならないものを殿下はお持ちなのです」
「それは何?」
「真摯さです」
クーツは静かな声で諭し続ける。だが、ユーキには的外れな慰めにしか聞こえない。半ば意固地になって反発してしまう。
「真摯さ? そりゃ、王子としての学びは、一所懸命に励んでいるつもりだよ。確かに真面目かもしれないけど、他の王子たちやその周りの貴族たちは、僕のことを『糞真面目で馬鹿正直』って言っているんだろう? 知ってるよ。その通りだと思うし。閣議で陛下からの御下問に一所懸命答えても、しょっちゅう呆れられているし。くすくす笑われることだってあるぐらいなんだ。馬鹿にされても仕方が無いよ」
「いえ、申し上げているのは学びだけではありません。それに真摯と糞真面目は、全く異なります。それから、『僕』ではなく『私』です」
クーツは言葉を切り、暫しユーキを見詰めていたが、ゆっくりと、しかし力を込めて言葉を続けた。
「良いですか、殿下。良くお聞きください。
人から習ったこと、言われたことを素直に良く聞く、これはある種の真面目でしょう。しかしそれを鵜呑みにして従えば、糞真面目と謗られても仕方ありません。ですが、殿下はそのようなことをなさいますか? いいえ、決してなさいません。人に言われたこと、書物で読んだこと、見たもの、聞いたこと、それらの一つ一つを御自身で考え直されています。他の見方、違う意見はありえないかと、あれこれと思いを巡らせておられます。その挙句に、ぐるっと回って結局元の考えに戻ったとしても、それはもう、殿下御自身の身に付いたものとなっております。この御努力を真摯と言わずして何としましょう」
「……」
ユーキは無言になった。そしてクーツが一心不乱に紡ぎ続ける言葉に耳を傾ける。
「そもそも殿下に武術をお学びいただいているのは、単に体を強くしていただくためだけではありません。心もまたお鍛えいただくためでもあるのです。如何でしょうか? 殿下は先程御自分で言われたように、自らを振り返り、足らぬところ弱いところを見出され、認め、それに目を瞑ることなく正面から向き合おうとしておられる。これは心の弱い者にできることではございません。近衛師範も、殿下御自身には言われずとも、御努力を常にお褒め下さり、国王陛下、妃殿下やマレーネ様、御前様に報告して下さっています。
良いですか、仮に立ち合いで常に全勝されたとしましょう。そのような強者に敗者の気持ちがわかるでしょうか? 殿下には、多くの、いえ、全ての者の心を理解していただかねばなりません。貴族も民人もその殆どは、思い通りに行かぬ負け続きの自分の人生を、それでも投げ出さずに生きているのです。『剣術不敗、体術無敵』を誇る者に、それが理解できましょうや? いいえ、できません。ですが殿下は、クルティスに勝てぬことを嘆きながらも、次の一戦には必勝をと、常に真摯に工夫を凝らしながら挑戦を続けられる。そのお姿を我々は尊敬しているのです。殿下は進歩しておられます。
本日の最初の立ち合いでも、クルティスが見せた僅かな隙を、殿下はそれとわからずとも捉え、成らずとはいえ技に入られた。御自分でお気付きでなくとも、間違いなく身も心も進んでおられます。
馬術にしてもそうです。最初の内は扱いかねたシュトルツ号を、今では無事に乗り熟しておられるではないですか」
「それは、もう何年も乗っているのだから当然だろう?」
「いいえ。今まで申し上げておりませんでしたが、シュトルツは人の手に余る難しい奔馬なのです」
「そうなのか。なぜ、それを僕に」
「『僕』ではなく『私』です。お聞きください」
クーツはまた熱を入れて語り出した。
「シュトルツは仔馬の頃から常に群れの先頭を走ろうとする馬でした。競り掛ける他の仔馬には闘争を仕掛け、それこそ全勝の荒馬です。馴致もなかなか進まず、王族の乗馬には到底向かないと思われました。殿下にはもっと大人しい乗り易い馬をとマレーネ様と御前様に申し上げたのですが、お二人とも、それでは殿下のためにならないと。荒馬一頭も無駄にせず乗馬にするためにどれだけの労苦が費やされているかを知っていただきたいと、シュトルツをお与えになられたのです。殿下はそのことをお知りにならずとも、懸命に、誠実に、すなわち真摯にシュトルツの様々な世話をなされました。王族でありながら恰も馬丁のように、一言の文句も愚痴もおっしゃられずに、です。それでシュトルツも殿下に少しずつ慣れ、馴染み、心を開き、お乗せするようになりました。今ではすっかり愛馬としておられます。その過程で、お仕えする者たちがどのように働いているか、どのような苦労をしているかもお知りになったのではないでしょうか」
クーツはそこで一度語を切った。これで終わりかと思えばそうではなく、口に溜まったものを飲み下すと、再度論じ立て始めた。ユーキの顔を覗き込み、目を見詰め、今までにも増して声に力を、熱を、誠を込めて。
「武術、馬術、学術ばかりではありません。人に向かわれた時もまたそうです。殿下は相手の立場によってその言葉に軽重を付けはなさりません。何かの助言を導師から授けられた場合でも、クルティスやアンジェラたちから言われた場合でも、同じようにきちんと耳を傾けてお聴きになられます。かといって安易に取り上げるのでもなく、御自分なりに考慮して判断してくださる。それが我々にとっては真摯に扱っていただいているということで、嬉しく、有難いのです。ですから我々もまた、真摯にお仕えしようと励むのです。これは、なかなか持てない美点です。自信をお持ちください」
「そういうものなのかな」
「はい、そうです。クルティスもそうです。元から素質はありましたが、よもやこれほど伸びるとは思ってもおりませんでした。ですが、殿下のお姿を見て、思う所があったのでしょう。時間を見付けては隠れて一人で修行をしておりました。倦み飽きること、うまく行かぬことがあっても、その度に殿下のお姿を顧みては、思い直して懸命に励み続けておりました。それでここまで来られたのです。この者のその思いをお汲み取りください。この後もそうあり続けるために、どうか殿下も真摯であり続けてください」
「……わかった。もう一度考えてみる」
いつもの穏やかな調子に戻ったユーキの言葉を聞いて、クーツの顔が緩んだ。
「有難うございます。では、ここまで励んだこの者を褒めてやってはいただけませんでしょうか」
「うん。クルティス、よくここまで強くなった。偉いぞ。これからも励んで欲しい」
「有難うございます。これからもお傍にあり励み続け、一身を賭けてお護り致します」
答えるクルティスの顔がまた紅くなっている。だが、今度はその意味が違うようだ。
「ああ、そうしてくれ。頼りにしているよ」
「はい、殿下!」
「でも、やっぱり、負けるのは悔しいなあ。特に身長が」
ユーキがそう言ってもう一度大の字になると、クーツもクルティスも声を上げて笑った。
「お気持ち、お察し致します。では、午後は予定を変更して、ちょっと気晴らしをいたされてはいかがでしょうか」
「何をするんだ?」
「御微行で城下を御視察されては、と」
「視察?」
「はい、良く知られた別の言葉では、『遊び』、とも申します」




