第百三十一話 ベアトリクスと商人ギルド長
王国歴223年8月初頭
数日前、ユーキがネルント開拓村で村長やノーラたちと村の将来について話し合っている頃、領都ではベアトリクスがアデリーヌと新たに護衛を兼ねて配下に付けられた男とを従えて商人ギルドが入っている商館を訪れていた。
受付の者に、ギルド長への挨拶がてらに税に関する簡単な調査のために来訪したことを伝えると、応接室に通された。ギルド長である女は受付の者からベアトリクスの用向きを告げられると、かなり待たせておいてから自分の執務室に通すようにと伝えた。
型通りの初対面の挨拶を交わした後、今、ベアトリクスは、ギルド長の贅を凝らした重厚な執務机の前に置かれた大型のしかし簡素な方卓に向かい、これも粗末な木製の背凭の無い腰掛に静かに座っている。
卓の上には、ギルドから各商店への小麦粉の卸売りの取引台帳が置かれている。ベアトリクスの求めに対して、ギルド長がさんざん勿体ぶった後に壁際に据えられた資料棚から渋々と取り出して無造作にどさっと置いたものだ。
その台帳に綴られた書類の一枚一枚に目を通しているベアトリクスの背の伸びた姿を、ギルド長の女は自分の椅子に戻って見下ろしていた。
女は色の濃い革張りのその椅子の高い背凭に体を預け、組んだ足を小刻みに揺らしている。足と共に苛々と揺れ動くその肩先で切り揃えた濃い茶色の髪にも、透かし編みの飾りが多い服にも、小さいながら宝石が配われた金製の飾り物がそこかしこに付けられている。
黒かと見紛うばかりに濃い紅色に塗られた長く伸びた爪は、神経質そうに黒い机の面を繰り返して叩き、耳障りな音を絶え間なく立てている。顔も白粉で綺麗に塗り上げられていて皺は見えないが、額には汗が滲んでいる。紫色に彩られた瞼の下の長く黒い睫の間からは緑掛かった灰色の小さな瞳が、睨め付ける様に、ベアトリクスの華奢な姿を上から下へ、下から上へ、どこかケチの付け所がありはしないかと、擦るように探して動いている。
部屋の片隅に控えて立つアデリーヌと護衛の男はそのギルド長の無礼な様子を不愉快さを隠さずに睨み付けているが、肝心のベアトリクスはといえば、素知らぬ顔で台帳の書類を丁寧に捲ってはそこに記されている数字の列を読み続けるばかりだ。
ギルド長は自分が立てている音にもベアトリクスが気を取られず書類に集中し続ける様子を見て、気に障るざらつく声で喋り掛けた。
「お嬢様、お嬢様のようなお若くか弱い方がこの片田舎の領に来られるだけでもお辛いでしょうに、早々にこのような無駄な仕事を申し付けられるとは。新しい御領主殿下は真面目とはお聞きしましたが、なかなかどうして、人使いが荒いですわねえ。お気の毒に思いますわ」
「いえ」
ベアトリクスは返事をしたが、顔は上げようせず視線は台帳から外れない。
「お嬢様は王都の税務局では御活躍されたとお噂をお伺いしております。御功績も赫々たるものとか。こう申し上げては失礼かもしれませんが、老練で世知に長けた貴族様方のお相手はさぞやお気疲れだったろうとお察しいたします。お手柄の数々のお話、是非ともお聞かせいただきたいものです」
「いえ」
声で短く応えるだけでベアトリクスが相手にせずにいると、ギルド長は声を一段高く大きくした。
「そこへいくと我々はお嬢様のお味方ですわよ。御信頼いただいて大丈夫ですので、安心して御領主殿下に御報告いただければと思います。そのようにしげしげと御覧になったところで何もございませんでしょうが、形だけでもお調べいただければこちらとしても格好が付きますわ」
「そうですか」
「ええ、我々も以前と違い、真面目な御領主殿下に来ていただき、安堵しておりますのでね」
ギルド長が抑揚たっぷりさらにつらつら喋るうちに、ベアトリクスは台帳に一通り目を通し終えた。書類を揃え直してから閉じてその上で両手の指を組み、漸く顔を上げてギルド長に応じた。
「ギルド長、前の代官との交渉には随分と苦心なさったとか」
ギルド長は組んでいた足を解き、机を叩くのを止めると両手を胸の前でぱちりと打ち合わせて嬉しそうな声を出した。
「はい、お嬢様。それはもう、全く酷い代官でした。監察団のお蔭をもちまして取り除いていただいたこと、私共も本当に感謝いたしております」
「そうですか。代官本人は監察団とは関係なく亡くなったのですけれど。それはともかく、彼の代官とはどのような交渉をなさったか、お聞かせいただいても?」
「お嬢様にお聞かせするような綺麗な話ではありませんですわねえ」
「いえ、以前の仕事柄、慣れておりますので。お気遣いなくお聞かせください」
「そうですか? まあ、いろいろですわね。相手があのような輩でしたから。煽てたり、賺したり。上昇志向の強い、言ってみれば貴族様気取りの男でしたから、そのように扱って上辺だけでも敬って見せれば嬉しそうにしておりましたわ」
ギルド長はベアトリクスの問いに素っ気なく答えると、「ふふん」と鼻先で嗤った。馬鹿にしたのは亡くなった代官のニードか、あるいは目の前にいるベアトリクスだろうか。
だがベアトリクスにそれを気にする様子はなく、淡々と応じた。
「では、話術だけで転がしておられたのですか? 相手は粗暴で横柄な、扱い難い男だったようですが、人遇いがお上手ですのね。さすがはこの領の商人の長でいらっしゃいますわね」
ベアトリクスの鈴を転がすような声で褒められて、ギルド長は色濃い唇の片端を上げた。
「恐れ入ります。ですが他にも、まあ、商人らしくいろいろとは、やりましたかしらね」
「気の良い酌婦がいる酒場を御紹介になったのはこちらとも伺いました」
「あら、良く御存じですこと。小汚い手下ども以外にはあの男に近付く者はおりませんでしたからねえ。男というものは、荒くれ者だろうが臆病者だろうが、誰しも仕事で疲れて荒んだ心を慰めてくれる相手を欲しがるものなのですわ。お嬢様はそのような御経験をお持ちで無いかもしれませんけどねえ」
「その他にも、やはり、鼻薬をお嗅がせになったとか?」
ベアトリクスが首を小さく傾げて尋ねると、ギルド長は細い目をさらに細くした。笑顔は絶やしていないが体を後ろに引き、腕を組む。
「いけませんかしら? あの粗暴な男相手では、綺麗ごとで済ますことはできませんでしたわ。その辺はお若くても御理解いただけますでしょう? 誰しも、鞭で打たれたくはございませんもの」
「ええ、存じております。その資金を捻出するのは大変だったのではないかともお察しします」
「それはまあ、何とか。苦心はいたしましたわよ。もちろん通常の業務の努力の範囲内のことですけれども」
「代官のせいで景気が落ちた中でもギルドとこの領の商人を守るために工面して見せるとは、遣り手の呼び声に恥じない名ギルド長ですわね。御立派です」
「あらいやだ、何度もお褒めにあずかるとこう、良い男に口説かれたように顔が熱くなってしまいます。いえ、これは令嬢様に向かって下品で失礼でしたわね。お許しくださいまし」
「いえ、どうぞお気になさらず」
思いがけずにまた誉め言葉を投げ掛けられて安心したか、ギルド長の吊り上がった目は戻った。作り笑いをしながら自分の椅子から立ち上がると執務机を周ってつかつかと卓に歩み寄ると腕を胸の前で組み、ベアトリクスを冷たく見下ろしながら言った。
「他には何かございますでしょうか? 無ければ、そろそろ」
「ええ。お手間を取らせて申し訳ありません。一つお伺いしてよろしいでしょうか」
ベアトリクスが尋ねると、ギルド長の眉間に皺が寄った。思い通りに調査を終わらせられず、問い返す声が無愛想になる。
「はあ。何でございましょうか」
「ご提示いただいた帳票を、今お話ししている間に簡単に見させていただいたのですが、北部からの値段の高い小麦粉の卸量は、昨年の同時期と比べて今年も概ね同じ量のようですが、間違いございませんね?」
下から見上げてギルド長と視線を合わせたベアトリクスの問いを聞いて、ギルド長の声から緊張が抜けた。
「ああ、お嬢様はこちらへ来られたばかりでご存じないのですわね」
ギルド長の顔に、一度は消えた作り笑顔が戻った。部屋に響くように大きくなった声で、諭しげに、得々と語り始めた。
「この領都には菓子屋や料理屋など、質の良い小麦粉を必要とする商店が多く、どうしても減らせませんの。その辺の差配は以前から私どもにお任せいただいております。御領主様もお嬢様と御同様にこの領の事情は御存じないでしょうから、細かいお指図は御無用にお願いできますわね?」
頼みごとのようでありながら、ギルドの行いに口出しは無用と、華奢なベアトリクスを圧するように声に力を込めて半ば指示するように言う。
「なるほど。ですが、今年は北部からの商人は減っていますわよね。それなのに、同じ量の小麦粉を仕入れることができているのですか?」
「ええ。小麦粉は減っておらず、その他の商品が減っております。お嬢様はお若くて景気変動の御経験が少ないのでしょうが、よろしいですか、食料のなかでも小麦粉のような生活に必須なものは、景気に関わらず取引量はあまり変化しないものなのです。景気が良くても悪くても、誰しも食べるものは食べなければならないですから。お嬢様はご聡明そうにお見受けいたしますので、お分かりいただけますわよね?」
「なるほど、そうなのですか。お教え、有難く思います」
「お安い御用ですわ。では、その帳票はもうよろしいでしょう。お戻しいただけますか?」
「ええ」
「わざわざおいでいただいて申し訳ありませんでした。これからはこちらから適宜報告を差し上げますので、面倒事は御遠慮なくこちらにお任せいただき、お若い御領主殿下のお側にいて差し上げてくださいませね」
ギルド長が作り笑いを深くして退去を促すと、ベアトリクスは台帳に乗せていた手を離して頷いた。ギルド長はその台帳を取ろうと手を伸ばす。
だが、ベアトリクスが「ですがその前に」と声を掛けるとその手が止まった。
「実はこちらに来る前に私どもの関税官全員に尋ねたところ、北部からの品は何が特に減っているというわけではなく、流通全般が一様に減っているとのことだったのです。もちろん小麦粉も」
ギルド長の伸ばした手が震える。
「それは」
「おかしいですね。この帳票とは一致しないようです」
ベアトリクスが首を傾げながら畳み掛けると、ギルド長の声も震え出した。
「そ、その帳票は多分、事務担当の者がどこかの記入を誤ったのだと。え、ええ、きっとそうですわ。申し訳ございません。担当者は厳しく叱って訂正させておきますので。誤記に過ぎなければ罰するほどではないでしょうから、こちらで処理しておきますので」
ギルド長は早口で言い抜けを並べようとしたが、ベアトリクスの追及は止まらない。
「そうですか。では、次は北部産小麦の仕入れ先と取引量の台帳を見せていただけますか? それから、辺境伯領からの安価な小麦粉についても」
「……」
ギルド長の言葉が詰まった。笑顔が消え、白粉以上に顔色が白い。額の汗は粒となって顔を流れて床に落ちる。
「どうされましたか? お顔の色が優れないようですが。お具合が悪いようでしたら、お席でお休みいただいたままで構いませんわ。台帳はこちらの二人に探させますので、御遠慮なくお座りください」
ベアトリクスは表情を変えずにそう言ってアデリーヌたちの方に向く。
二人が嬉しそうに前に進み出ると、ギルド長は堪りかねたように頭を下げて大声を出した。
「お、お許しください。北部産が十分に手に入らなかったため、辺境伯領産を北部産と混合して売りました」
「買い手に産地を偽ったのですか?」
「は、はい。小麦粉の入手が滞ったことを領民たちが知れば、食料不安で混乱に陥り治安にも悪影響が出かねないと思い、前のあの代官に相談したのです。そうしたらそのようにせよと命じられて止むを得ず」
「純北部産品と同じ値段で?」
「は、はい。そうしないと相手が怪しむだろうと言われまして、止むを得ず。お嬢様、私としては信用に関わりますので嫌だったのです。本当に止むを得ずの事だったのです」
「それは今年だけですか?」
「はい、勿論です」
「では一昨年と昨年の帳票を比較してみましょう」
「……はい」
ベアトリクスは再び台帳を開いて一軒の料理店の書類を立所に探し出すと、手早くいくつかの数字を指差した。
「この書類が正しければ、この料理店への卸は、一昨年も昨年も納入量がほぼ同じですね」
「ええ。さきほども申しましたように、料理店は景気にあまり影響されませんので。毎年、小麦の使用量はほぼ同じです」
「そうなのですか。実は数日前にこの料理店で食事をした際に店主から聞いたのですが、昨年から小麦粉を使わないガレットという新しい料理を始めたのが人気になって、特に北部産の小麦粉の使用量は著しく減ったそうです。どうもそれが反映されていませんわね」
「そ、それは」
「それは? 実際の卸量とこの台帳の記載量との差はどこへ消えたのでしょうか? その分の税はどう処理されましたか?」
「……」
「小麦粉だけでしょうか? 他の物品の台帳はございますか?」
「……」
ベアトリクスは立ち上がると卓の上の台帳を取り上げ、護衛の男を手招きして渡した。男が鞄の中にそれを仕舞い込む間にアデリーヌは早くも資料棚に寄って、次々と台帳を取り出しては中身を調べ始めている。
ベアトリクスは全く無言になって俯いてしまったギルド長に、静かな口調で宣告した。
「ここまでのことについて、立ち戻って殿下に報告いたします」
優しい声音は変わらないが、言葉は研ぎたての鏃となっていとも容易くギルド長の耳と心に深々と突き刺さる。
ギルド長は自分の机に駆け寄ると焦って震える手を何とか鎮めて鍵を開け、抽き出しから革袋を取り出した。小さからぬその袋はずっしりと張り詰めている。
「お嬢様! あの、こちらをお持ちになってくださいませ!」
「お断りいたします」
「では、他に何がお望みでしょうか。何なりとおっしゃってください。何でもいたします!」
「殿下への御自身での嘘偽りのない一切合切の報告です」
「それは」
「殿下が御真面目なお方であらせられることはギルド長も御存じでしたでしょう? ですから御自分でなさるのがよろしいと思いますが、お嫌でしたら私がいたします。その後にはギルド全体の徹底的な調査がなされることでしょう。どうされますか? 御自分でなさいますか?」
「……はい」
「ではそれまで、台帳はこちらでお預かりいたします。よろしいですね?」
「……はい」
卓の横に崩れ落ちてがっくりと頭を下げる商人ギルド長の姿を見て、アデリーヌたちは台帳を抱き締めて心中で快哉を上げていた。




