第百二十四話 菓子屋再び
王国歴223年7月中旬
七月も後半に入ったある日の午前中、ピオニル領の領都の片隅にある菓子屋の店先を、その店の女主人が掃き清めていた。
付近の商店でも同様に、主人や使用人たちが掃き掃除をして玄関前を清めている。挨拶を交わし、今日一日の商売の繁盛を互いに祈り合う人々のその顔付きは一様に明るい。
以前の代官がいなくなり領主が交代したことで、領都の雰囲気そのものもがらっと変わったのを誰もが感じている。実際の景気はまだ上向いてはいないが、皆がそれを期待し、将来に希望を持ち始めている。働き方もきびきびとしていれば、声の調子も明るく弾む。
そんな人々の間を擦り抜けて、数人の身形の良い男たちが歩いてきた。
男たちは道の両側の店舗の様子を眺めては何事かを話し合っていたが、菓子屋の店先で立ち止まると先頭の金褐色の髪の若者が店の女主人に声を掛けた。
「おはようございます。御主人さん、お久し振りです」
「はい、いらっしゃいまし。おや、あなたは、あの時に王都の飴をくださった……」
「はい、また来ました。お元気でしたか?」
「ひょっとして、あの時のことを憶えていてくださって、またいらしてくださったんですか? まさか、王都からわざわざ? まあ、なんてありがたいことかしら。ええ、ええ、お蔭様で元気ですとも。どうぞ、お入りください」
女主人は店の扉脇に営業中を示す板をぶら下げてから扉を大きく開き、笑顔で若者たちを導き入れた。そして仕切り台の内側に入ると台の上に両腕を載せて身を乗り出し、右手を口に添えて声を潜める振りをして話を続けた。もっとも声は全く小さくなっていない。
「実はね、あの嫌な代官が消えて、みんな元気になったのよ。本当、前のことが嘘みたいよ。そりゃあ奥方様がいなくなったのは寂しいけど、若様のおいたが過ぎたから仕方がないってね。それに新しく来られた御領主様、ユークリウス殿下が早速関税を元に戻されるってお触れが今朝商人ギルドから回ってきたのよ。もう、誰も彼もみんな大喜びよ。さすがに王族様は貴族とは違うわよねえ。この分なら、他の税も戻してくださるんじゃないかって、みんな期待してるの。今のままじゃ到底やっていけないもの」
女主人のその言葉を聞いて、若者の左脇にいた背の低い男が目を細め、苦々しく女主人を睨み付けた。女主人は男のその視線の白地な不機嫌さを感じ取り、慌てて頭を下げ、声を震わせて若者に謝った。
「あ、あ、貴方様方も貴族様でしたっけ……あたしったらまた今日も失礼なことを……言葉も下品で……どうかお許しください」
両手で前掛けを握り締め、身体も声もどんどん小さくなる。それを見た若者が急いで取り成した。
「御主人さん、大丈夫です。前回も言いましたけど、客としてきただけなので、どうかお気になさらず」
「ああ、本当にお優しいお方で助かったわ」
女主人が安堵して息を吐き、元通りの大きな声を出す。
「そう言えばね、御領主様のユークリウス殿下も、貴方と同じようにお優しい方らしいのよ」
王族と庶民とは思えぬあまりに気安いやり取りに堪りかねて、ユーキに随行して女主人を睨んでいたフェリックスが横から厳しい声を挟んだ。
「オホン。横からだが、この方こそがその新領主様であらせられる」
「えっ」
「私は補佐を仰せつかった者だ。殿下に対してこれ以上失礼のないように。本来なら、王族方にお前たち庶民が直接に話をさせていただくなど、あり得ないのだからな。殿下のお心を有難く思う様に」
「王子様……あたしったら、本当に何てことを!」
女主人は仕切り台の中から転げ出てきて、床に跪こうとした。
ユーキは急いでその手を取って立ち上がらせ、フェリックスに目配せを送って窘めてから女主人に向き直って優しい声で話し掛けた。
「御主人さん、さっきも言いましたけど、どうか気にしないでください。確かに私は国王陛下からこの領をお預かりしましたが、今日も本当に客としてきただけなんです」
「ああ、ありがたや、もったいなや……どうか、どうかお手をお放しくださいませ、お手が、尊いお手が、あたしの汚い手で汚れます……」
「ちゃんと客として扱うと約束してくださるなら放します」
「はい、はい、承知いたしました。ですが、腰が抜けてしまって……」
「クルティス、彼女を支えてあげてくれないか」
「はい、殿下」
クルティスが女主人の腕を取って支えると、彼女はクルティスにも頭を下げようとした。
「ああ、ありがとうございます。貴方様も王子様のお付きの方だったなんて……もったいない。お手汚しで申し訳ありません」
女主人は一向に立ち直る様子がない。
ユーキは店の片隅にあった腰掛を持ってきた。フェリックスが慌てて手伝おうとしたが、ユーキは「いいから」と軽く断り、腰掛を女主人の後ろに据えた。クルティスがそこに女主人を座らせると、ユーキは腰をかがめ、まだ落ち着かない様子の彼女に微笑み掛けながら、ゆっくりと話し掛けた。
「しっかり深呼吸して、気を確かに持ってください。……大丈夫ですか?」
「はい、申し訳ありませんでした。……はい、大丈夫です」
「では、良く聞いてください。いいですか、御主人さんの手は、決して汚くなんかありません。旦那さんと一緒に一所懸命にお菓子を作り、旦那さんが亡くなられた後はお一人でこのお店を守り、子供さんを懸命に育てられている、働き者の大切な手です。その手で作られたお菓子を、私は美味しく頂きました。決して汚くなどない、この手こそが尊い手です。その手でこれからも美味しいお菓子を作り続けていただきたいのです」
ユーキの言葉を聞いて、女主人の目から涙が溢れ出てきた。
両手で前掛けを持ち上げて顔を覆う彼女にクルティスが手巾を渡そうとしたが、受け取ろうとしない。前掛けで拭いても拭いても涙は止まらないが、涙声ながらも精一杯に返事をしようとした。
「また、何てお優しい、ありがたいお言葉を……殿下様、あたしなんかにもったいない……そのお言葉、もう、一生の誉れでございます……ええ、ええ、作ります、作らせていただきますとも。それしかできませんので。もう、殿下様の御為めに、死ぬまででも作らせていただきます」
まだ暫く涙声が続いたが、気を取り直したところを見計らって、ユーキは続けた。
「はい、そうしてください。実は、今日はそれについてお願いがあってきたのです」
「はい、はい、もう、何でもさせていただきますとも。何でございましょうか?」
「この前に頂いたレープクーヘンなんですが、また味見させていただいてよろしいですか? 差し上げた先から、とても好評だったので」
「それはそれは、ありがとうございます。どうぞどうぞ、そこにありますので御遠慮なく、いくらでも」
「有難うございます……うん、相変わらず美味しいです。ほら、フェリックスも」
フェリックスはユーキの脇で慎ましげに立っていたが、ユーキが一片を差し出して勧めると尻込みする気配を見せた。
「殿下、私は甘いものは得意ではないのですが」
「そう。無理にとは言わないけど、できれば試してもらって意見をもらえると嬉しいんだけど」
「……では、ひとつだけ。……確かに一風変わった味ですね」
「でしょ? クルティスもどう?」
「じゃあ、俺もひとつ頂きます」
ユーキたちが試食をしている間に女主人はやっと落ち着いたらしく、顔を上げて尋ねてきた。
「あの、前回の品を差し上げられた方々って、やはり、貴族様方の御令嬢様方ですか? 殿下様のお妃様候補の? 皆様、さぞやお美しいんでしょう? おいくつぐらいの?」
また目が光っているが、今度は涙ではなく、瞳そのものが輝いている。そっち方面の興味は相変わらず止められないらしい。ユーキは苦笑しながら答えた。
「いえ、貴族の令嬢ではありません。お美しく、尊い方々であることは変わりませんが、どなたであるかは内緒です」
「ああ、そうでしょうとも、あたしったら、また失礼を。殿下様のお妃様候補となれば、お美しいのは当たり前、どなたかは内緒に決まっておりますわよね。ええ、ええ、そうに違いありません。因みに、殿下様のお好みはどのような方なのでしょうかしらねえ。お綺麗な? それとも可愛い系? 清楚可憐? 活発元気っ子? 豊満? ほっそり?」
「いい加減にしろ! 殿下のお優しさに甘えて、失礼が過ぎるぞ」
「あら、いやだ、あたしったら、申し訳ありません……」
あまりの詮索に、フェリックスが堪りかねて遮った。言葉は厳しいが、口の中に甘いものを入れたままなのであとひとつ迫力が足りない。それでも女主人は恐縮した。
因みにクルティスは肩を震わせて腹を抱えて笑いを堪えるだけだ。本来ならユーキに対する失礼を止めるのは彼の役目だが、口を出そうとする気配はまるで無い。
「……えっと、もう一つ、頂きます。フェリックス、それ、いくつ目?」
ユーキが尋ねた時、フェリックスはまさに別の一片を口に入れたところだった。急いで咀嚼して喉に落として答える。
「……三つ目です。つい」
「そう、考える前に手が出ちゃうんだよね。どうかな?」
「ええ、悪くはありませんね。王都や他の領のものとは、味わいが違います。これなら殿下の御提案に適うと思います」
「そう。わかった」
フェリックスの賛同が得られ、ユーキは女主人に向いた。
「御主人さん、これは何か、特別な作り方をしているんですか?」
「あの、それは内緒なんですが……御内分にしていただけるのであれば、お教えいたします」
「勿論、秘密は守ります」
「では、御領主様には特別にお教えしますと、ちょっと変わった香草を加えているんです。この町の郊外ではそれほど珍しくも無い草なんですが、香り付けに使えることが知られていないのです。葉を十分に干して細かく刻んでから摺鉢で粉にしたものを少しだけ入れるのが良いようで。亡くなった主人が考え付いたやり方なんですけど、ええ、他では無いかも知れません」
「なるほど、それでですか。では、この地の名物にできそうですね」
「そうなんでしょうか、そんな大それたことは考えたことがなくて。うちでもそんなに沢山作ってるわけでもありませんし、買ってくださるお客さんは御近所さんが大半ですし」
「そうなのですか。実はお願いしたいことがあるんですが」
「何でございましょうか」
「このレープクーヘンを一定量、継続的に製造して納めていただけませんでしょうか」
「それはもちろんできますが。ただ、あまり多くなると難しいかも知れません」
「そうなのですか? 何か問題が?」
「ええ、実はさっきのお話の香草のことなんです。荒れ地に生えているのを集めてきて、うちの裏の庭で増やしているんですが、暑さに弱いんです。夏の日照りがきつい年には葉や実の付きが悪くて。干してしまえば保存がきくので沢山採れた年に溜め込むようにしてはいるんですが、作る量を増やすとなると、いずれ足りなくなると思います。人手も、私一人では限りがありますし」
「……わかりました。それについては考えます。それはそれとして、まずはできる範囲でお願いできますでしょうか?」
「もちろんでございます。殿下様の御依頼、喜んでお引き受けさせていただきます」
「もう一つ、仮に、香草の手当てが付いたとして、その作り方を他の菓子店にも公開していただくことは可能でしょうか? 勿論、一定の割合で使用料をこちらにお支払いすることをお約束します」
「……えっと、つまり、うちで作らなくても、お金を頂けるということですか? なんてありがたい、ええ、ええ。お願いいたしますです」
「有難うございます。では、後の段取りは、フェリックス、お願いしていいだろうか?」
「殿下、承知しました」
これで今日の目的は果たしたとユーキが一息吐いたところに、女主人が声を掛けた。
「あの、ところで殿下様」
「何ですか?」
「少うしばかり年上の女性に御興味はございませんか? ええ、ほんの少うし」




