第百十六話 二羽目の家鴨
前話同刻
ユーキが子爵夫人を伴って館の中に入ると、邸の前庭にいた人々は緊張から解放された。
前回ユーキがこの子爵領に来た際は、国随一の美男子と称えられる王孫スタイリス・ヴィンティア王子殿下率いる監察団の一員であった。当時の衆目の大半はスタイリス王子が集めてしまい、随行の見習であったユーキの顔を憶えている人は殆どいない。
ましてや王子だと知っていた者はネルント村の村長とケン、そして子爵邸の従僕のうちの数人ぐらいである。大半の人間は初めてそれと知って見るユーキのことを口々に噂し、前庭は忽ちのうちに喧しくなった。
その騒がしさの中で村長とケンが、さてこれからどうしようか、ユーキへの面会が叶うまでにはもう暫く時間が掛かりそうだと考えて立ち尽くしていると、邸の扉が開いて一人の女性が出てきた。
ベアトリクス・ディートリッヒ伯爵令嬢に付き従うアデリーヌだ。
アデリーヌは前庭に集まった人間を眺め回して目探ししていたが、村長とケンを見付けるとにっこりと笑って足早に近付いてきた。
慌てて頭を下げる村長とケンに、アデリーヌは親しげに声を掛けた。
「ジートラーさん、ケンさん、また会えましたね」
「お嬢様、お久し振りでございます」
「あら、それほど日数は経っておりませんが、そう言われてみると確かに久し振りと言う気がしますわね」
「はい、いろいろとございましたので」
「詳しいお話は後ほどと言うことにして、こちらへどうぞ」
アデリーヌに案内されるままに二人が子爵邸に入り、通された小さな部屋にはベアトリクスが待っていた。
今日はあの調査の日の男装とは異なり、簡素で動きやすそうではあるが女性らしい衣装を着ているが、それに似合わぬ剣帯を付けて腰から剣を下げている。護身用の短い剣ではあるが、『フェアリーのように』可憐なベアトリクスが帯びると長剣と錯覚しそうだ。
ベアトリクスは二人の顔を見ると嬉しそうにして話し掛けてきた。
「村長さん、ケンさん、お元気そうで何よりです」
「お嬢様、お優しいお言葉を有難うございます。また、あの時には本当に有難うございました。お蔭をもちまして、村の者たちは元の暮らしを取り戻すことができました」
「いえ、私はお役目を果たしただけです。全てはユークリウス殿下が御誠実に、村の皆さんの願いを国王陛下に伝えられ、真摯に訴え掛けられたことによると思いますわ」
「やはり、殿下がお力を。本当に有難いことです」
「そうですね。それでですね、殿下が村長さんとケンさんに直接にお話がしたいとのことです。ただ、殿下は子爵夫人とのお話やら何やらでお忙しいので、こちらで暫くお待ちいただくことになりますが、よろしいですか?」
「はい、勿論です」
「では、どうぞお掛けになってください」
村長とケンが恐縮しながら卓を挟んでベアトリクスと向かい合って座ると、従僕が運んできた茶道具を用いてアデリーヌが紅茶を淹れた。
二人はさらに恐縮した。そのどぎまぎする様子を見てベアトリクスはクスッと笑ったが、自分の前に置かれた陶器の碗を取り上げて一口飲んでから話し掛けた。
「どうぞ御遠慮なくお召し上がりください。村の皆さんはお元気ですか?」
「はい、お蔭様で皆元気に暮らしております」
それを切っ掛けにベアトリクスと村長はアデリーヌを交えて、マーシーやハンナなどの村人たちの近況の話題に興じた。
だが、ケンは体を硬くしたままで、話に入れないでいる。それに気が付いたベアトリクスは、ケンに向かって話し掛けた。
「ケンさん、緊張しておられるのですか?」
「あ……はい。俺、いえ、私は貴族の御令嬢様とお話しさせていただいたことは殆どありませんので」
「そうですか。それは、硬くもなりますわよね。お察しいたします。ですが、ユーキ殿下にお仕えになられるのでしたら、私たちにも慣れていただかないと」
「は、はい」
「そうですわ、少し立ち上がって深呼吸なさっては?」
「は、はあ。深呼吸ですか」
「ええ深呼吸を。さあ!」
「はい!」
ベアトリクスが両手を振り上げて勢いよく促すと、ケンは釣られて立ち上がった。椅子の後ろに回り、腕を大きく広げて「すーはー、すーはー」と深呼吸を繰り返す。
「うーん、まだ硬いですわね。少し体を動かされては? はい、両手を前から上に挙げて」
「こうですか?」
ケンは素直にベアトリクスの言うままに手を振り動かした。
「はい、そのまま背中側にゆっくり降ろして……そしてそのまま、背中を伸ばしたままでゆっくり膝を曲げて……腰を落として……いいですわね、そしてそのまま『ガァガァ』と言ってみてください」
「お、お嬢様?」
ケンが当惑して蹲んだままベアトリクスに問い返したときに、部屋の扉が開いた。
「お待たせしました……ケン?」
部屋に入ろうとしたユーキが、ケンの姿を見て固まった。
「あ、で、殿下、これは……」
ケンが慌てて立ち上がって取り繕おうとしたが、それに被せてベアトリクスが取り澄ました声で説明した。
「あら、ユーキ殿下。村での思い出話をするうちに、殿下の家鴨の物真似のお話になりまして。そうしたら、ケンさんが、『自分の方が上手い』とおっしゃって。ええ」
「ベア姉さん!」「お嬢様!」
ユーキとケンの声が重なった。
ユーキとベアトリクスの後ろにいたクルティスとアデリーヌは二人して、腹を抱えて声を殺して笑っている。
ベアトリクスはユーキとケンを交互に見て、舌を小さく出して片目をつぶってケンに言った。
「ほら、堅さは取れましたでしょう?」




