あいだのはなし5 柏とマルテル
菫が花園楼から王城へと去り、ユーキとの婚約の結納の品がユーキの母であるマレーネ王女から楼へと届けられてから少し後の日の昼過ぎのことである。
柏が花園楼の庭で箒を持ったまま何をするともなしにぼんやりと突っ立っていると、いきなり背後から差配の薄婆に冷えた声を掛けられた。
「柏!」
「えっ! へ、へえ」
驚く柏を、薄は目を細めて睨み付けた。
「あんた、呆けて突っ立てんじゃないよ。そこをさっさと終わらせて、ちょっと私の部屋に来て」
「へ? いえ、何ですかい?」
「愚図愚図言わずに、来いって言われたら来ればいいの。ぼさっとしてないで、さっさとおし」
「へえ、済いやせん」
薄婆はすたすたと去っていき、柏は慌てて庭の掃き掃除の続きを始めた。
男衆の頭である柏は普段はこんな雑用はしないのだが、何人かが使いに出されていて手が足りないということで駆り出されていた。
ところが、なかなか手が進まない。庭の片隅をぼうっと眺めているところを薄婆に見付かったのだ。剣突を喰らわされて慌てて手を動かして使い慣れない箒を揮ったが、落ち葉をあっちへこっちへ飛ばし、行っては戻りを繰り返すだけで、なかなか捗らない。見るに見かねた松爺が横から手を出して柏が持っていた箒を掴んだ。
「柏兄さん、ここはあっしがやっとくから、早いとこ婆様の所へ行きな」
「でもよう」
「いいから。掃除どころか、葉っぱを掃き散らかしちまってるじゃねえか。兄さんがやってたらいつまで経っても終わんねえよ。埒が開かねえ。任しときな」
「ああ、済まねえな。じゃあ、頼まあ」
柏は箒を松爺に手渡すと、楼の勝手口の方へと肩を落としてとぼとぼと歩いて行った。足を引き擦り背中を丸め、影まで薄いようなその後ろ姿を見て、松爺は哀しそうな笑いを零しながら独り言ちた。
「あの子が行って気が抜けちまったんだなあ。無理もねえや、何より大事にしてた掌中の珠を失くしちまったんだからな」
松爺は柏が見ていた庭の隅に視線を流した。そこには一輪、季節忘れの菫の花が咲いていた。
「婆様、参りやした」
「遅いね。早く入んな」
柏が薄婆の部屋に来て扉の外から声を掛けると、中から苛々した声が返って来た。どうやら遣り手婆様は御機嫌斜めらしい。
「へえ」
こういう時はとにかく逆らわないに限る。部屋の中に入り、待ち切れないように「扉を閉めて、そこにお座り」と言われた通りに、卓に向かって座っている薄婆の反対側に大人しく座った。
尻を落ち着ける間もなく、薄婆が眉根を寄せてきつい声を出した。
「柏、あんた、この頃ちょっとおかしいんじゃないかい?」
「へえ」
「ぼーっと廊下で突っ立ってたり、妓女の部屋を取り違えたり。溜息を吐いてたと思えば、お客の名前を間違えたり。しっかりしとくれよ、しっかり」
「へえ、相い済いやせん」
「まあ、原因はわかってるわよ。気持ちもわかるわ。けどね、いくら気張って大事にしていた子がいなくなったからって、若衆の頭のあんたがこの様じゃ、他の若い者どころか妓女や禿にまで示しがつかないのよ。わかってんの?」
「へえ、まあ」
「また気の抜けた返事だね」
「済いやせん」
「まあいいよ。わかってんのならね。今日は仕事はもういいから、飲みにでも行って来な」
「いや、そんな。それじゃあ楼や他の連中に迷惑が掛かりやす」
「何言ってんだい。そんな腹痛起こして脂が全部抜け落ちたオークみたいな、しょぼくれた顔で楼の中をうろつかれている方がよっぽど迷惑だよ。客が逃げるどころか、閑古鳥と貧乏神を纏めて一緒くたに呼び込んじまうわ。ほら、これを使いな」
そう言うと、薄婆は小金の入った巾着を卓の上に投げ出した。
「それで足りなきゃ、自分で出しな」
「へえ」
返事はしたものの柏が躊躇していると、おっかない眼がぎろりと睨み付けてきた。
柏はしぶしぶと巾着を手に取った。結構な枚数のリーグ銀貨が入っているらしく、持ち重みがする。その様子を見ながら婆はさらに追い打ちを掛けた。
「そんな情けない顔をもし菫が見たら、心配して『帰って来る』って言い出すわよ。だらしないったらありゃしない。その湿気た気分を酒で綺麗さっぱり洗い流して来な。そんで気分を切り替えて、明日からはしゃきっとするんだ。いいかい、その顔をしたまんまで帰って来たら、楼には入れないからね。クビだから」
「わかりやした。婆様、御心配お掛けして、相い済いやせん」
「わかったら、行った行った。疾っとと出てお行き」
そう言うと薄婆は外方を向いて手で二度、三度と払う仕草をして見せた。
柏は巾着を押し頂いて懐に入れると頭を下げて部屋を出た。廊下に立つと自然と顔に苦笑いが出る。
今頃、婆様は部屋の中で『まったく、いい齢をして世話を掛けないで欲しいもんだわ。これじゃ菫がいなくなってもこっちの手間は変わらないじゃないか』とか、ぼやいているんだろう。確かに、情けねえこった。ここでぼやぼやしていたら、また『いつまで愚図愚図してんだい!』とどやされちまう。
柏は首を振り振り、廊下を歩いて行った。
さて、外出着に着替えて楼を出てきたは良いものの、まだ陽は高く、酒を飲むような心持ちにはなれない。さればとて、花街の通りを行ったり来たり、うろうろしても仕方が無い。顔見知りばかりの中を当て所もなく歩いていては、『こんな時間にどうした』とあちこちから声を掛けられるのが目に見えている。それでは気が休まるわけがない。
かと言って、花街の外に行く当てがあるわけでもない。迂闊に繁華な通りを歩いて、侯爵家に仕えていた頃の知り合いにばったり出くわしても面倒だ。
考えた末に、以前に菫と菖蒲を連れて行ったことのある広場に散歩に行ってみることにした。
あの時の雨と違って今日は晴れ。暑い日差しの中を散歩とは、ちいっとばかし酔狂にすぎる気もするが、気晴らしなのだから変わったことをしてみるのも悪くはなかろう。
急ぐ用があるわけでなし、ぶらりぶらりとゆっくり歩いて公園に着いたが、この暑い最中だ。人っ子一人いやしない。陽射しを避けて木の根元に胡坐をかいて座り込んでみる。幸いなことに弱いながらも風があり、暑さが凌げて厄介な虫も飛んで来ない。
菫と菖蒲を連れて来た雨の日は花盛りだった桜の樹々はもう濃い緑の葉を一面に繁らせ、それぞれに大きな影を地面に落としている。
見上げると太陽の光が葉を透かして翠色に染まり、風に優しく揺れては隙間からちらちらと目を射して来る。
その眩しさに目を瞑って思い出す。
あの時に傘の影からこちらを見上げた菫の顔。あの笑顔がいつまでも続いて欲しいもんだ。思い起こせば笑顔より泣き顔の方が多い娘だった。
母親を亡くした時。近所の遊び仲間の子供たちが駆け出すのに付いて行けなくて置いてきぼりにされた時。禿になって初めて行儀を厳しく仕込まれた時。朋輩の菖蒲に踊りや歌で負けた時。
大きな眼から涙をぽろぽろ流して泣きながらでも顔を上げて、一所懸命に努力をして前に進む娘だった。
楼では禿の芸事が少々上達しても、慢心しないようにと褒められることは滅多にない。それでも偶に薄婆やお師匠に褒め言葉をもらって、本当に嬉しそうに笑った顔の紫色の瞳の輝きは、宝石よりも眩しかったもんだ。
木陰に強く風が吹き、日差しが顔に当たって柏は目を覚ました。
いけねえ、どうやら思い出に浸っているうちにすっかり寝込んじまったようだ。もう日が傾いて、日陰だった樹の下にも陽が差し込むようになっている。
ずっと座り続けた尻だけでなく首も痛い。頭を桜の幹に凭れさせるのに変に首を傾けていたようだ。立ち上がって尻を揉み、両手を挙げて背と膝を伸ばし、首をぐるりと回してみる。菫がいれば肩を揉んでもらえるが、菖蒲にやらせると加減を知らないので痛みがますます酷くなると、ふと思い付いた下らないことを頭を振って追い払う。
気が付けば喉も乾いている。夜になるまで、婆様に言われたようにどっかで一杯やるとするか。
柏は着物に着いた砂を払い落して花街の方へと向かって戻り、途中にある居酒屋に立ち寄った。案内された小さな卓に向かって安物の椅子に一人で座り、頬杖を突いて濃い目の良い酒とつまみを相手にちびりちびりと飲み始めた。
少し酔いが回ってきても、頭に浮かぶのは相も変わらず菫のことばかり。
柏はふとそれに気付いて、俺はいつの間にこんなになっちまったんだ、これじゃあ俺の方が菫に甘えてたみたいじゃないかと苦笑いした。
我に返ると、店はいつのまにか一杯になっていた。
あっちこっちの卓で客が大声を上げて賑やかに騒いでいる。中には俺みたいに静かに飲みてえ奴らも結構いるだろうに、迷惑な連中だ。
だがまあ、誰だって酒を飲んだら気も声も大きくなるもんだと思ってまた杯を手に取る。
そこへ、新規に六人連れの客が入って来た。
何か喋りながら店の中ほどまで入って来て、しばらく辺りを見ながら立っていた。
が、店員は忙しそうに走り回っていてなかなか相手にしてもらえない。辛抱が切れたか、大声を出した。
「おい、お前! いつまで待たせるんだ! 席へ案内しろ!」
語尾が微妙に高く上がるのは北部訛だ。呼ばれた店員は客に気付いて慌てて周りを見回したが、生憎と空いた卓が無い。
「申し訳ございませんが、今、満席でして。またのお越しをお願い致します」
断られて客の声がさらに大きくなった。
「何だと! 待たせた挙句に帰れとはどういう言い種だ! そこら辺の連中に詰めて座らせればいいだろう!」
気に障ったのか、無茶なことを言い出した。
「そうも行きませんので。申し訳ございません」
店員が当然のように断ると、何を思ったのか、客の内の一人がいきなり店員に詰め寄って胸倉を掴んだ。
「うるせえ、痛い目に遭いたくなければ、さっさと席を作れ」
そう言って辺りに目をやると、大きめの円卓にいた三人連れを空いた左手で指差した。
「あの連中をどこかへ動かせば良いだろう。さっさとやれ!」
怒鳴った挙句に店員を突き飛ばした。店員がよろけて柏の足元に転がって来たので助け起こしていると、客に指差された体付きの逞しい連中が立ち上がった。
「何だと? 俺たちのことか?」「おう、お前ら何様のつもりだ!」「店に迷惑を掛けてんじゃねえぞ!」
柏がそちらを見ると、ここらでよく見る腕っ節自慢の傭兵の連中だ。新参の客は一見でそれを知らないのだろう。六対三と見て気が大きくなっているのか、嬉しそうに突っ掛かって行く。
「お前らこそ何様のつもりだ!」「そうだ、大股押っ広げて偉そうな座り方をしやがって!」「店に迷惑掛けてんのはお前らの方だろうが」
だが三人の傭兵も退く気は全くない。自分たちの馴染みの店で虚仮にされて黙って引くわけにはいかない。
「何だと、この野郎」「後から来ておいて、ふざけんな」
両方が前に出て、胸付き合わせんばかりだ。
それを見て、柏が助け起こした店員が「店の中では止めてくれ! 外でやってくれ!」と叫ぶ。周囲の客は迷惑そうに黙り込むのが半分、面白そうに「いいぞ、そんな連中やっちまえ! やれ! やれ!」と煽る連中が半分だ。店の中は大騒ぎになり店の奥からも店員が出て来たが、両者の剣呑な雰囲気に、間には入れずにいる。
柏の横にいた店員は「衛兵を呼んでくる!」と言って店の外へ走って行った。
柏は「やれやれ」と溜息を吐いた。
折角しんみりと飲んでいたのに、面倒なことに出くわした。ここは花街の外だし何が起きようが知ったことではないのだが、さりとて放っておいては穏やかには収まりそうもない。早いとこ静かに飲み直したいし、とばっちりを食らわされては堪らない。
柏は静かに立ち上がると、もう面突き合っている男たちの方へ近寄って行った。
男たちは息を荒げて睨み合っていたが、傭兵の一人が鼻先で相手を嗤った。
「ふん、突っ立ってるだけか、出来損ないの木ゴーレム野郎。席は空けたぜ。どうするんだ」
「じゃあ座らせてもらおうか。そこを退け」
「座りたけりゃあ座れよ。だが俺たちは退かねえぜ。どうしてもってえんなら、自分で退かせてみたらどうだ」
「おう、いいのか。こっちが大人しく言ってやってるうちに退かねえと、どうなっても知らねえぜ」
「面白え。どうなるのか教えてもらおうか、口先がけたたましいばっかりの鶏野郎が。鳴くのは籠の中でだけにしやがれ」
「何だと? もう我慢できねえ! 思い知らせてやる!」
新参の客が憤激して相手の胸倉を掴もうとして手を上げた。
だが、その手は危うく寸前で止まった。横から伸びた柏の右手が客の手首をがっちりと掴んでいる。
「兄さん、止しときな」
柏はそう言うと同時に、傭兵三人の顔を見て目配せを送った。
自分の顔は花街の外でも少しは売れている。こいつらもこっちの顔ぐらいは知っているだろう、と。
だが、新参の方は柏のことなど知る由もない。
「横から何をしやがる! お前も痛い目が見てえのか!」」
掴まれた手を振り解こうとしたが、柏に掴まれた手は動かない。それどころか、ひょいと捻られると男の体がくるりと回されて後ろ手になった。
「何を見せてくれても構いやしねえが、もうすぐ衛兵が来る。怪我をしてもさせても厄介事にしかならねえぜ」
そう言ってやっても、男は何とか振り解こうと「痛え、放せ、痛え」と藻掻く。そこへもう一人が「何をする! お前、何様だ!」と叫んで柏に掴みかかろうとしたが、同じように柏の左手に腕を取られてあっという間に捻られた。
柏はそのまま二人一緒に門口の方にずんずんと押していき、入り口から道へと突き放した。あっけに取られていた残りの四人も、三人の傭兵や店員たちに取り囲まれるとたじたじとなり、顔を蒼くして後退りして入り口まで来て柏の顔を見た。
「俺は花園楼の『柏』ってんだ。逃げも隠れもしやしねえ。話があるなら聞くぜ、耳でも腕でもな」
そう言ってすっと着物の袖をまくって筋骨逞しい腕を見せると、まるで敵いっこないと覚ったのだろう、男たちはぶるぶると震え出した。
「ここらにゃ、いくらでも店はある。他を当たるんだな」
柏がそう言って顰めた顔を店の外に向けて振って『出て行きな』と合図をすると、捨て台詞も言わずに一斉に走って逃げ出してしまった。
「お客さん、有難うございます」「あんた、済まなかったな」「有難うよ」
店員や傭兵たちが口々に礼を言うのに「良いってことよ、後は静かに飲ませてくんな」と言い、柏は席に戻った。
やれやれ、すっかり醒めちまった、こりゃあ飲み直しだなと思って杯を持ち上げたところへさっき外へ飛び出した店員が、数人の衛兵を連れて来た。
「騒ぎはここか?」
先頭にいた女衛兵の声が響く。柏にとっては聞き憶えのある声だ。顔を見てみれば、案の定マルテルだった。
やれやれ、また面倒なと思いながら、柏は立ち上がって手を振って合図を送った。マルテルがこちらに気付いて「あら」という顔をしたところに頭を下げて見せた。
「主任、御苦労さんでございやす。たった今、騒ぎは収まったばっかりで。引き起こした連中は出て行きやした。幸い、怪我人もございやせん。一つ穏便にお願い致しやす」
柏がそう言うと、近くにいた別の店員も「そうそう」と頷き、騒動の相手になった傭兵三人も立ち上がって「お手数をお掛けして済んません」と頭を下げた。
「そう、それは何より、良かったわね」
通報した店員にマルテルが言うと、店員は懐から心付けの小袋を取り出して渡そうとした。
「お手数をお掛けして申し訳ありません」
「いらないわよ、そんなもの」
そう断ると部下に「先に戻って」と告げて帰らせ、自分は柏の卓の方に歩いて来た。
「珍しいわね。こんな時間に一人で飲んでるなんて」
「ああ、湿気た顔してたら『客が寄り付かねえから出ていけ』って、婆に放り出されちまった」
「まあ、それは御愁傷様。でもお蔭で手間が省けたわ。どうせ貴方が鎮めてくれたんでしょ。有難う」
「喧嘩なんざあ、肴にゃならねえ。反って酒が不味くなるからな。ついお節介を焼いちまっただけだ、礼には及ばねえよ」
「そう。最近、多いのよ。ここら辺だけじゃなく、王都のあちこちの居酒屋で見慣れない北部訛りの連中がいざこざを起こしてるって」
「今の連中も北部訛りだったなあ」
「あら、そうだったの。詰所に引っ張って話をさせてみたかったわね」
「そいつは反って申し訳なかったな」
「ううん。大騒ぎにはなっていないから、別にいいんだけどね」
「そうかい。衛兵さんは大変だな。座れよ。飲んでいったらどうだ」
「執務中だから」
そう言いながらも、マルテルは柏の前の椅子に腰掛けた。店員が注文を取りに近寄ってきたが、それを右手で払って断ると、柏の顔をじっと見詰めた。
「……貴方、今日は何か、肩の力が抜けて見えるわね」
「まあな」
「あの子を手放しちゃったから?」
「手放したってわけじゃあねえよ」
「ごめんなさい。『巣立った』って言った方が良かったかしら」
「ああ。まだまだ雛っ子だったけどな」
「本当に可愛い子だったわね。お使いに行くところを何度も見掛けたけど、すぐにわかったわ。あの子の艶々した銀髪はフェルディナント様譲りだもの」
「そうだな。あの方に、一目見せてやりたかったなあ」
「そうね」
マルテルが頷くと、柏は「はあっ」と大きく一つ溜息を吐いて、ぼそりぼそりと菫の思い出を語り出した。
「思い出したんだ。あいつがよ、フェルディナント様の御葬儀から帰る時によ。もう歩けねえっつうからおぶって帰ったんだけどよ。俺の背中で、シュトルム様に繋いでもらった左手を右手で包んで『おにいしゃんの手、あたかかい手。おにいしゃんの手、あたかかい手』ってよう、ずっと嬉しそうに言ってやがったんだ。何か不憫でさ。本当ならフェルディナント様と葵様に両手をずっと温めてもらってたはずだったって思ったら泣けて来ちまいやがってよう」
「そうだったの」
「もうこれからは、あのお方と二人でずっと手を繋いで並んで行くんだろうなあ。有難えよなあ。嬉しいよなあって、いけねえ、また泣けて来ちまうぜ」
「今日は本当に素直ね」
マルテルが静かに答えると、柏は左手を顔に当ててずずっと洟を啜った。
「へっ、酒と気の迷いのせいさ」
「ふうん。ま、いいんじゃない?」
柏は杯を取ると残っていた酒を一気に呷った。そして店員を呼んでお代わりを頼む。
マルテルはその様子を見て一度微笑んでから、淋しそうにした。視線を宙に泳がせている。昔のことを思い出しているのだろう。
「葵様とのことは私も何回か弟君のフレドリク様に進言してみたんだけどね。上手く行かなかったわ」
「あの家の中では、フレドリク様がフェルディナント様の唯一の理解者だったな。母君様には逆らえなかったが」
「あの家では誰も母君様には何も言えなかったもの。迂闊なことを言おうものなら家から叩き出されてしまいかねなかった」
「叩き出されちまった上に、母君様の命で実家からも勘当された俺にそれを言うかい?」
柏が「へへっ」と皮肉に笑うと、マルテルは素直に謝った。
「ごめんなさい。でもね、私が辞めたすぐ後に母君様も父君様も亡くなったけど、お二人とも随分後悔しておられたみたいよ。もう少しフェルディナント様の話を聞いてあげれば良かったって」
「今更、だな。『冷え切った鋼、ドワーフの槌でも延びはせず』、か。それにあの時の勢いじゃあ、少々話し合ってもどうにもならなかっただろうよ」
「そうね。フレドリク様もフェルディナント様に、早く御両親に打ち明けて身請けのお願いをするように言っておられたのよ。でも、先に母君様に知られちゃって」
「言わんこっちゃない、か。あん時の母君様はおとろしかったなあ。世の中に鬼って本当にいるんだって思っちまった」
「ちょっと、周りに聞こえるわよ。否定できないけど」
柏がまた「へへっ」と笑うと、窘めたマルテルも「ふふっ」と笑いを合わせてから続けた。
「侯爵様もフェルディナント様もフレドリク様もスプライトより小さくなっちゃって」
「それが全部笑い話になりゃあ良かったんだろうけどよ。そうは行かなかったなあ。思い出しても胸が痛えよ」
「そうね。母君様はもうその後は、『別れろ、二度と会うな』しか言わなかったわね。誰が何と言っても取り付く島もなかったわ」
「いくらフェルディナント様が謝ろうが、フレドリク様が取り成そうが全く聞く耳が無かったからな。俺まで目通り適わずになっちまって」
「それでもフェルディナント様は葵様に会いに行ったんだから。よっぽど好きだったのよね」
「ああ、毎日のように手紙を書いて、しょっちゅう家を抜け出して街馬車を拾って通ってた。とうとう楼の方から出禁の通知が家宛に来ちまって、母君様がますます不名誉だって怒り狂っちまったんだ」
「その後はもう、思い出したくもないわね」
「だな」
柏がまた杯を呷り、マルテルは「ふぅ」と溜息を吐いた。
「やっぱりあたしも飲みたくなっちゃった。もっと昔話をしたいわ。あの子の小さい頃の話も聞かせてよ」
「その格好じゃ拙いだろう」
「そうね。もう当直も終わりの時間だから着替えて来るわ。待っててよ?」
「ああ、花園楼の柏は逃げも隠れもしやしねえよ。衛兵さんに逆らって、詰所に引っ張られちゃあ堪らねえ。事情聴取じゃ、酒も飲めねえからな」




