第百十三話(第一部最終話) 出発
王国歴223年6月後半
王都から勝訴の知らせが齎された数日後、ケンは村長に伴われてネルント開拓村を出発しようとしていた。
今日村を立てば、領都にはユークリウス殿下が赴任される何日か前に到着できるだろう。あの殿下のことだ、国王陛下には単に出来事の事実を報告するだけでなく、村の皆の気持ちも伝えてくれたであろうことが容易に想像できる。感謝と歓迎の意をできるだけ伝えたい、そのために出迎えに参加したい、それが村長とケンそして村人全員の思いだった。
それに偵察で世話になった宿屋に、礼と、クリーゲブルグ辺境伯閣下への感謝の意も早くに伝えたい。辺境伯閣下には、いずれお目に掛かってお礼を直接に申し上げねばならないだろう。
ケンはユークリウス殿下からの仕官の誘いを一晩考え抜いた後に、翌日の夕食の席で家族に伝えた。
全員が一様に驚いていたが、その誘いを受けて領都に出たいとケンが言うと、まず義母が泣き出してしまった。夫である村長がニードに鞭打たれた日も、自分が縫った革鎧を着てケンが戦いに向かった夜明けも気丈に振る舞っていた女性が、この家族の中での初めての別れを告げられて堪え切れなくなったのだ。
村長はそれを優しい声で叱り、とてもめでたい事なのだ、ケンの将来が開けたのだから泣くものではない、永遠の別れというわけではない、領都まではほんの一日ちょっとの距離だからいつでも帰ってこられる、会いに行けるのだと諭した。その後にケンに、「良かったな、おめでとう」と言ったが、本人も目から涙を零していた。
その後は全員が何も言わずに夕食を済ませた。義母はその間中、涙を流し続けていた。レオンは顔を真っ赤にしてずっと黙りこくっていた。
ケンが村を離れて領都に行くことは、あっという間に村中に広まった。会う人会う人がケンを祝い、励まし、喜んだ。
ただ、ハンナちゃんのような子供たちだけは、ケンに群がってしがみ付き、口々に「ケン兄ちゃん行かないで」と泣き出してしまった。ケンも親たちも、子供たちを宥めるのに苦労した。結局、ケンが一人一人を抱き上げて、これが最後じゃない、また会えると言って何とか泣き止んでもらった。
今日、領都へと出発するために村長とケンが乗ろうとする荷馬車の周りに、村人全員が集まっている。
ジーモンやホルストなどの齢の近い仲間たちはケンの肩を小突き、叩き、声を掛けてきた。領都の美女に騙されてしまえと、揶揄ってくる奴もいる。
粉屋のフレースは、これが最後とばかりにケンの背中を平手で叩いてきた。地味に痛い。
その娘のマリア姉ちゃんは片手で赤ん坊を抱きもう片手でマーシーの片脇を支えて、二人で一緒に村人の輪の外の方にいる。マーシーはケンと目が合うと右手の親指を立ててニヤッと笑い、左手でぽんぽんと左腰を叩き、さらに服の胸のあたりを掴んで見せた。
ケンも同じ仕草をして応える。そのケンの左腰には亡くなった実父にもらった剣が、服の中には例の一リーグ銀貨がぶら下がっている。
ケンがいよいよ荷馬車の御者台の村長の横に登ろうとした時、ミシュの「もう、何やってんの。早くしなさいよ」という声がした。振り返ると、俯いていたレオンがミシュに背中を押されて皆の輪の前に出てきた。まだ下を向いていたが、ミシュに肩を思いっ切りひっぱたかれて顔を上げた。それでも、何も言えない。
この期に及んでも仕方のない奴だなと思いながら、ケンは声を掛けた。
「レオン。義父さんと義母さん、それから村のことを頼む」
「言われなくてもわかってるさ、そんなこと」
「そうだったな」
ケンが苦笑いしながら馬車に向こうとすると、レオンが小さな声を出した。
「ファジアじゃないよな」
「え?」
「ジートラーだよな。ケン・ジートラーとして殿下の所へ行くんだよな。……兄さん」
「レオン?」
驚くケンに、レオンは今度は大声を出した。
「お前は、俺の兄さんだろ? この村みんなの兄さんだろ? だから、この村の村長の息子として、領都に、殿下の所へ行くんだろ? そうだよな? 兄さん! そうだよな、みんな!」
「おう!」「いいぞ、レオン!」「そうだそうだ!」
取り囲んだ全員が歓声を上げる。ポカンと口を開いて呆気に取られるケンを置いて、レオンは顔を髪の毛と同じ真っ赤にして村人を掻き分けて走って行ってしまった。
ミシュが溜息を吐いて、ケンに声を掛けた。
「もう、レオンったら。『兄さん、ごめん』って言いたかったくせに」
「……」
「ケンも、しっかりしなさいよ!」
大声で叱り付けられて我に返ったケンに、さらにミシュは尋ねた。
「レオンに何か伝える?」
「いや、いいよ。でも……」
「でも?」
「ミシュ、俺の弟を頼む」
ぶっきら棒を装っていても、震えるケンの言葉を聞いてミシュが相好を崩した。
「わかったわ。兄さん、元気でね」
そう言うとミシュもレオンが去った方に走って行った。
それを見送って、ケンは荷馬車に乗り込んだ。村長は既に御者席で準備を終えている。周りにひと声掛けると輓き馬に鞭を入れて荷馬車は動き出した。
村人たちが手を振り、口々にケンに別れを叫ぶ。ケンも手を振り返す。
荷馬車が前に進み、村人たちの間を通り抜けて行く。ケンは後ろを見たが、皆の姿はすぐに滲んでぼやけてしまった。
服の袖で涙を何度も拭いて、思い切り手を振る。
村の家々が、畑が、樹々が背後に過ぎ去っていく。昨日までは当たり前だった風景が、今日は儚く美しく愛おしく見える。その風景に溶け込んで小さくなっていく人々に、胸が張り裂けそうになる。
その姿が見えなくなる最後の時に、ケンは力の限りに叫んだ。
「みんな元気で! いつまでも!」
その声は風に乗り、周囲の山に木霊して、草原を流れて行った。
風の音と共に、流れて行った。
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ユーキがピオニル領へ出発する日になった。
今日までいろいろと準備をした。その中で、ベアトリクスがアデリーヌを連れて、前触れもなくいきなり押し掛けてきた時は驚いた。
「ユーキ殿下、私をお雇いくださいませ。もう税務局の方は辞表を出して参りましたから、否やは聞きませんことよ」
もう戻る職場がない、実家からも了承どころか後押しを受けていると言われてはどうしようもなく、仕えてもらうことにした。能力は既に監察団で知っているのでこちらは文句は無かったが、税務局長も前触れもなく押し掛けてきて『有能な者をいきなり引き抜かれては、国政に差し障りが生じかねません。残された者の業務が増え、恨まれますぞ』と苦情を繰り返し長々と申し立てられたのには参った。
他にも何人かの下級貴族の子弟が仕えたいと言ってきた所までは良かったが、さらにもう一人、監察の際にはスタイリス王子の取り巻きだったイザーク・アルホフ男爵令息の父親が、息子を側近く仕えさせたいと書簡を寄こしたのには驚きを通り越して呆れてしまった。
あまりに白地な掌返しはユーキとしてもあざといとの気が差すし、スタイリス王子の機嫌を損ねては本人のためにも良くない。自重するように答えたところ、それでもいずれは御膝下に参じさせたい、何かあればどんな事でも命じていただいて構わないと返事が来た。強く断るのも角が立つので、そのままそっとしておくことにした。
また王都の子爵邸も引き継ぐことになったが、こちらの管理は両親が代理で引き受けてくれることになった。
ユーキが様子を見に行った時、ペルシュウィンの側女だったという女はまだいた。ユーキに擦り寄って色目を使おうとしたが、全く靡かぬと見るやさっさと出て行ってしまった。無理だろうと端から半分諦めて荷物を既に纏めていた様で、あっという間に消え去った。ペルシュウィンから巻き上げた品々は既にどこかへ移していたらしく、めぼしい物は何も残されていなかった。全く抜け目のないことだ。
他にもニードが引き込んだ者は全て既に去っており、残った古くから子爵家にいた者たちは全員引き続き働いてもらうことにした。
ヴィオラは王城で部屋を貰うことになった。小さな部屋であるが、王妃やテレーゼ・コルネリア侍女取締の私室にほど近い。実は中で細い隠し通路を介して王妃の部屋に繋がっている、本来なら側近が使う特別な部屋である。何かあったらこっそり相談に、あるいは甘えに来るようにとの、近しい者が誰もいないヴィオラへの配慮である。
そして王妃の身の回りの世話を手伝いながら、テレーゼのもとで主に貴族の礼儀作法や王族の慣習について修行することになった。また、夜には書物で領主夫人の務めについても学ぶそうだ。
ついに出発の日の夜が明けた。
ユーキは実家で両親やその家臣に挨拶して熱い激励を受けた後、国王に報告をするためにクルティスと二人だけで王城にやってきた。クーツやヘレナやアンジェラ、そしてベアトリクスといった供の者たちは荷物を積んだ馬車の隊列とともに、王城の外で準備を終えて待機している。
国王の執務室を訪れると待ち構えていた侍従長に迎えられてすぐに通された。胸を張って進み、国王の執務机の前に背を伸ばして立つ。そのユーキの姿を見て、国王は満足そうに顎を撫でた。この短期間のうちに身長が大きく伸びるはずもないが、以前よりも背は高く、胸はずっと広く見える。大きいはずのこの部屋がなぜが狭く思えるほどだ。
「ユークリウス、いよいよだな。気分はどうだ?」
「はい。今日までの学びが試されるかと思うと、身の震える思いです」
「武者震いか。まあ、固くなるな。肩に力が入ると長持ちせん。失敗も学びの内と考えることだ」
「有難うございます。頂いたこの機会を活かして、成長したいと考えています」
「うむ、それで良い。補佐の件だが、家の当主のヴァイツ伯爵から概ね了承したとの書簡が届いた。一度ここへ来させた後に速やかにピオニル領に向かわせる」
「承知しました。有難うございます」
「何事もよく相談してな。但し、自主性は失うな。良いか、領主はあくまでお前なのだ。責任はお前にある。それを忘れんようにな」
「はい。領民のため、力を尽くします」
「うむ。くれぐれも頼んだぞ」
「はい。お任せください」
堂々と応じるユーキの姿に、国王は目を細めて首を縦に数度振ると顔を緩めて続けた。
「それで、この後はどうするのだ?」
「はい、メリエンネ殿下に挨拶をしてから出発します」
「そうか。メリエンネもかなり良くなってきたようだな。昨日に王妃が見舞いに行ったが、随分と明るくなったようだ。そのうち儂にも頼みごとをしたいらしい。元気になったのはお前のお蔭だと言っておったそうだぞ。ユークリウス、礼を言うぞ」
「いえ、私は何もしておりません」
「そうか? そんなことはなかろうが、まあいい。それで、ヴィオラとは暫しの別れは済ませたのか?」
「はい、一応。先日両親に紹介した後に王城まで送ってきた際に済ませました。永の別れではありませんから、簡単に。それに、忙しくはありましょうが、可能な限り時間を見付けて手紙も書こうと思います。王都にも全く戻ってこないわけではありませんし」
「そうだな。あれは良い娘だ」
「はい、十分に存じております」
国王が訳知り顔で言ったが、出発に気が急くユーキは素っ気無い。しかし最高権力を握る男は気にも留めない。
「然もあらん。だがまあ、聞け」
「はい、陛下。では承ります」
ユーキが苦笑しながら返事をすると国王は嬉しそうに「うむ」と頷いた。
「三日前のことだ。王妃の部屋に行った時にヴィオラが淹れた茶を飲んだのだが、それが実に香り高く優しい味でな。つい、三杯も飲んでしまった。愛娘の淹れた茶は美味く感じると言うが、それだけではありえないほど美味かったのだ。給仕の作法も丁寧でいて仰々しくなく、気に障るところが全く無い。王妃もすっかり気に入って、奥に戻ったら側から離さんようだ」
「そうなのですか」
「本当に良くできた娘だ。良くぞ見出した。褒めて取らす」
「有難うございます」
「うむ。お前もヴィオラもまだ若い。離れて暮らせば互いに案じられることも多いだろう。良いか、あまり堅苦しく考えず、どんどんこちらへ顔を出すようにせよ。こちらから領政状況の報告のために上都を命じることもあるだろう。順調であれば、社交の季節はこちらで過ごしても良い。王城にはヴィオラの知り合いはおらん。できるだけ、気に掛けてやれ」
「そのように致します」
国王はまだまだ何か言いたそうに口を開いたが、横から侍従長に「陛下、殿下はお忙しいお体。その辺で」と声を掛けられ、「わかった、わかった」と手を挙げてそれを制した。
「ああ、出発前に、テレーゼの所へ顔を出してくれ。何か王妃からの言付けがあるそうだ」
「はい、承知しました」
「うむ、では、体に気を付けて行け。下がって良い」
「はい。陛下も御健勝でお過ごしください。行って参ります」
次にメリエンネの部屋を訪れると、王女は車椅子の中で眼を輝かせて待っていた。
「ユークリウス様、いよいよですね」
「はい、メリエンネ様。暫しのお別れです。どうかお体にはお気を付けください」
「あなたもね。同志の門出だと思うと、私も我が事のようにどきどきするわ」
「できる限りお手紙を書いて、実際の領政についてお知らせします」
「ありがとう。私も王都の情勢について、気の付いた事をお知らせしますわね。でも……」
メリエンネが目を一段と光らせながら言葉を切る。ユーキが「でも?」と促すと、身を乗り出して囁いた。
「ユークリウス様ができる限りお手紙を書くべき相手は私ではありませんよね?」
「メリエンネ様……」
絶句したユーキを見て『やれやれ』と首を横に振りながら、背凭に身を預けて「ふぅ」と嘆きの声をいとも楽しそうに上げてみせる。
「昨日、王妃様が新参の愛らしい侍女見習を連れてお見舞いに来てくださったの。ヴィオラ・リュークスっておっしゃる御令嬢で、紫色の大きな瞳がとても美しくて惹き込まれるようで。リュークス家として新しく迎えられた御養女ですってね。王妃様、それはそれは自慢げでしたわよ。うふふ」
「えーと、メリエンネ様、実は……」
ユーキが顔を染めると、メリエンネはまた「うふふ」と笑って優しい顔に戻った。
「はい、ひと目見てピンと来ました。以前仰っていた、『幼き出会いの、紫青玉の瞳の君』ですね。うふふ。御再会、おめでとうございます」
「……有難うございます。実は陛下から婚約のお許しを得たのですが、内々の事ですし、恥ずかしくて言いそびれてしまいました」
「駄目ですわよ、恥ずかしいなんておっしゃっては。素晴らしい方なのでしょう? きちんと自慢して差し上げないと。それがヴィオラ嬢への御褒美なのよ。但し、相手を十分に選んでね」
「はい。いつもお教え有難うございます」
「陛下が新たに御養女を迎えられたことは既に貴族の間で噂になっておりましょう。内々にしておられても、ユークリウス様とのこともどこかで洩れてくるでしょうね」
「ええ、私は覚悟しておりますが、ヴィオラ嬢がどう言われるか少し心配です」
「そうですわよね。ヴィオラ嬢はお城にお知り合いがおられないのでしょう? 御不安ですわよね。……そう、王妃様のお許しを得られたら、ヴィオラ嬢をお茶にお招きしていいかしら」
「よろしいのですか?」
「ええ。ユークリウス様と御一緒したように、一緒に何かを学びながら、少しはお慰めできると思います。私の学び仲間がいなくならずに済み、楽しみができますし」
「お心遣い、有難うございます。では甘えさせていただきます。何卒、ヴィオラ嬢をよろしくお願い致します」
「うふふ。大切な同志へのはなむけですわ。お任せください。どうか安心していってらっしゃいませ。お体にはお気を付けて」
「はい、メリエンネ様もお体をお大切になさってください。では、失礼致します」
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ユーキがメリエンネに別れを告げて立ち去ると、その様子を廊下の端で窺っていた女がシェルケン侯爵の控室にそそくさと向かい、中で姉のペトラ・グラウスマン伯爵と一緒にいた侯爵に報告した。
「シェルケン閣下、ユークリウス殿下が姫様の部屋を出られました」
「ふん、これで殿下とは暫しのお別れか。お蔭で王女も使い物になるぐらいには元気になった。殿下自身は一端の力を見せて、目障りになってきたしな。王都から消えてくれるのは丁度良いというものだ」
「王女には靡きそうもないと思ったら、陰で色街に女を作ろうとしているらしいとか聞いたわよ。従者をしょっちゅうあちらこちらの妓楼に走らせて」
「そうなのですか、ペトラ姉さん」
「糞真面目の堅物殿下どころじゃないわよ。結構見所があるんじゃない? 私、興味があるんだけど」
「では、いずれまた別の手を考えますかな」
「ええ、期待してるわよ」
「まあ何にせよ、王都の表舞台から消えることを自分で選ばれるようなお方だ。当面我々の邪魔にはならんでしょう。不確定要素が消えて良かったとしましょう。姉さん、我々の派閥の誰か若い男を王女の配にさせますか」
「そうね。そうすれば王女を完全に取り込めるわね。でも、貴方の息子でなくて良いの?」
「彼奴には既に印章局のデイン子爵の娘を娶らせていますでしょうが。離縁させて、折角引き込んだ味方を敵に回すわけには行きますまい」
「そうだったわね。そこを押さえておいて次は王女をこちらのものにすれば、ピオニル領での失敗を取り返せる。あちらこちらに寄子も作れているし。後は機を待てば良いわね。トーシェ、準備を怠らないようにね」
「わかっていますよ、姉さん。王女もこれまで面倒を見てもらった東宮局の長官には逆らいますまい。まあ、見ていてください」
姉と弟が不穏な笑みを交わしていると、ほとほとほとほとと静かに扉が叩かれ、侯爵家の家令であるハインツが入って来て侯爵に告げた。
「お話し中、失礼致します。閣下、至急のお知らせが」
「ハインツ、何だ?」
「新たに寄子になられた方々から、手切れ状が次々とお家に届いております」
「何? 何故だ! ハインツ!」「どういうことなの!」
「……わかりかねます(ピオニルを見捨てたからに決まっているだろうに……)」
「手切れ状一つとは無礼であろう!」
「使者は、『閣下は寛大な方ゆえお許しくださると聞いた』と申しております」
「……」
「閣下、今度は大至急のお知らせです」
「今度は何だ!」
「陛下からの書状です。御使者の方のお言葉では、宰相府次官と東宮局長官を当分の間、休職するようにとのことです」
「何? 何故だ! ハインツ!」「どういうことなの!」
「御使者の言われるには、腰痛治療に専念せよとの御配慮のようです(御前に出ないからに決まっているだろうに……)」
「どうするのよ、トーシェ! 何もかも台無しじゃない! 貴方のせいよ!」
「糞っ、儂は諦めんぞ……」
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メリエンネの部屋から戻りテレーゼ・コルネリア侍女取締の所へ向かう途中、ユーキは廊下に立っていたクレベール王子に呼び止められた。
「ユークリウス殿下、急いでいるだろうところを申し訳ないが、少し良いか」
「はい、クレベール殿下」
「今日出発だと聞いた」
「はい。この後に少し用を済ませたら、出ます」
「そうか。良かったら、これを持って行って欲しい」
差し出された物は袋入りの荷物である。ユーキが受け取るとクレベールは淡々と続けた。
「南部地方の農作物に関する書物だ。何かの役に立つかも知れんと思ってな。私は王都にいるが、何かできること、手伝えることがあったら遠慮なく声を掛けてくれ」
「有難うございます。書物も、是非とも役立たせていただきます」
「スタイリス殿下と共に来られれば良かったのだが、生憎と監察成功の祝賀会の準備が忙しいようでな」
「祝賀会? 帰都された早々に既に開かれたのでは?」
「ああ、今回で三回目だ」
苦笑いしながら言うクレベール王子に、ユーキも苦笑を返すしかない。
「ユークリウス殿下、今回は本来ならスタイリス殿下か私かが受けるべきだった。私事のために難役を回すようなことになって申し訳なく思う。どうか頑張って欲しい」
「そんな。お気になさらないでください。陛下がくださった、自分を試す良い機会だと思っておりますので」
「そうだな。そして殿下なら、この試練も乗り越えてさらに大きく伸びるのだろうと期待している。では、引き留めて済まなかった」
「いいえ。有難うございました、クレベール殿下。では失礼します」
「うむ」
ユーキが身を翻してクルティスを従えて去る姿を見ながら、クレベール王子は独り言ちた。
「試練を越えて大きく太く伸び、やがてこの風の国の嵐にも揺るがぬ大樹となる、か。私も本当はそうありたいが。せめて、若木が育つまでの支えぐらいにはなりたいものだ」
ユーキはクルティスと共にテレーゼの執務室へ急いだ。そろそろ出発の時間が近い。それにこの付近は侍女たち、女の園だ。男にとっては居心地が悪い。足を早めて進むと、テレーゼは部屋の前で待っていた。
「殿下、お呼び立てして申し訳ありません」
「テレーゼさん、王妃殿下からのお言付けとのことですが、何でしょうか?」
「はい、秘事ですのでこちらへどうぞ」
テレーゼが導いた先は、小部屋の扉だった。
「中へどうぞ」
テレーゼが扉を開き、促されて中に入ると部屋の奥の窓際に小さな人影が立っている。
「お言付けはこれですわ。……殿下、私は少し用事がありますの。重い物を運ぶので、クルティスさんをお借りしてよろしいかしら」
「コルネリア様、俺で良ければ喜んでお手伝いします。殿下、用事が終わりましたら、部屋の外でお待ちしています」
ユーキが何も言わない間にクルティスが嬉しそうに返事をしてさっさと扉に向かって握りに手を掛ける。ユーキは苦笑の他にすることがない。
「わかった。テレーゼさん、有難うございます」
「殿下、御活躍と御健勝をお祈りしております。ではクルティスさん、行きましょうか」
「はい、参りましょう」
二人が部屋から去り扉が閉まると、窓を向いていた人影は、銀青の髪を揺らしながらゆっくりと振り返り、静々と近付いてきた。薄いながら美しく粧った笑顔に紫色の瞳が輝き、淡い紅の塗られた唇は何か言いたげに艶めいている。
ユーキもゆっくりと歩み寄る。
「ヴィオラ嬢……えっと、これからも、二人切りの時は『菫さん』って呼んでもいいかな?」
「殿下、あの、『菫さん』は実は何か少しだけよそよそしく感じられて。よろしければ、『菫』とお呼び捨ていただけませんでしょうか。楼の皆にもそう呼ばれていましたので」
「じゃあ、僕も二人切りの時は『殿下』は無しの『ユーキ』と呼び捨てで」
「申し訳ありません。王子殿下をお呼び捨てするのは難しいです。『ユーキ様』ではだめですか?」
「えっと、菫さんがそれが良ければ」
「『構わないよ、菫』」
菫がユーキを睨みながら言い直しを求め、ユーキは笑って復唱した。
「構わないよ、僕の可愛い菫」
それを聞いた菫が頬を染めて応じる。
「! ずるいです、私の愛しいユーキ様」
二人はふふっと笑い、互いの手を取った。
「暫く逢えないけど、きっと元気で頑張るから、心配しないでね」
「あい。例え何のお便りもなくても、私は何も心配いたしません。皆様にこれほど良くしていただき、そしてユーキ様にたくさんの……この胸から溢れるほどのお心をいただきました。安心してお待ちいたしております。どうか御領主様のお務め、お励みください」
「うん。頑張るよ。そして胸を張って君を迎えに来る」
「あい。その時は私ももっと成長して、胸を張ってお迎えできるよう、精一杯励みます」
「うん、しっかりね。……菫」
「……ユーキ様」
「……いい?」
「……あい」
二人は躊躇うことなく取り合った互いの手を引いて近付いて行き、やがてそっと抱き合った。
もう何の言葉も要らない。見詰め合い、微笑み合う。
二人の影は、さらにゆっくり、ゆっくりと重なって行き、菫は顎を上げ静かに目を瞑った。
ユーキが部屋を出ると待っていたクルティスが近付き、懐紙を差し出し、自分の口を手で押さえて見せた。ユーキは少し顔を赤くしたが、差し出された懐紙で唇を押さえて軽く拭いた。クルティスが頷くと、ユーキは頷き返して力強い声で宣言した。
「行くぞ。我が領に」
「はい。行きましょう、殿下」
ユーキは身を翻し、クルティスを従えて歩み去った。
部屋の中では、菫、いや、ヴィオラがじっと立ち尽くして頬を染め、少し俯いて目を閉じ両手で唇をそっと押さえていた。
暫くしてテレーゼが部屋に戻ってきても、気付かずにいる。
「おや、まあ」
テレーゼはヴィオラの横を通り過ぎ、窓に寄ると大きく開け拡げる。忽ち吹き込んでくる風に、ヴィオラははっと気付いてテレーゼを見た。
「ヴィオラ嬢、ご存じかしら」
「何でしょうか?」
「今の季節、この窓からは、王城を出入りするお馬やお馬車の音が風に乗って良く聞こえますのよ」
「そうなのですか」
「ええ。お妃様は今暫く、表からお戻りになりません。お呼びになられるまで時間があります。それまでの間、ここで休憩していてはどうかしら」
テレーゼはそう言って微笑むと、部屋を出て行った。
ヴィオラは窓に振り返った。
「ピオニル領領主王大甥ユークリウス・ウィルヘルム・ヴィンティア王子殿下の御出立である! 開門!」
気負って朗々と叫ぶクルティスの声が聞こえ、ヴィオラは窓に駆け寄った。
城門が門衛たちによって力強く押し広げられてギイッ、ギッ、ギーッとゆっくり、重々しく軋む。ユーキの力強い「ハイ!」という掛け声に愛馬シュトルツが勇ましい嘶きで応じ、蹄音が高く響き始めた。
ヴィオラはユーキとクルティスが乗る二騎が駆ける音を、耳を澄ませて聞いていた。
それが徐々に遠ざかり聞こえなくなった後も、目を瞑って風の声を、風の音を、いつまでもいつまでも聞いていた。
(第一部了)
明日より六話の幕間閑話を挟んだ後に、第二部が開始します。
もし本作をお楽しみいただけておりましたら、御感想、レビュー、御評価、ブックマーク等をいただけますと、嬉しく、創作の励みとさせていただきます。
よろしくお願い申し上げます。




