第百十一話 マレーネの叫び
前話同日午後
ユークリウス王子に対して、リュークス伯爵の養女にして王妃殿下の侍女見習であるヴィオラとの婚約が内々に命じられたと、その知らせを告げる国王の使いは、ユーキの母マレーネ王女、そして祖母マルガレータ王女に対しても直ちに送られた。
マルガレータ王女は使者にそのことを知らされるや否や、やり掛けの仕事も放り出してマレーネ王女と夫のユリアン卿の邸に飛んできた。
迎えに出た従僕に碌に言葉も掛けず、案内も受けずにマレーネとユリアンの部屋に急ぎ足で直行すると、扉を叩くこともせずいきなり開けてずかずかと入るなり、悲痛な声で自分の娘に問い掛けた。
「マレーネ! 聞いた? どういうこと?!」
マレーネは自分の執務席で机に両肘を突いて頭を抱えていたが、母親の声にハッと顔を上げて席を立ち、駆け寄ると両手を取って握り合い、互いの顔を見合わせて二人ではらはらはらと涙を流す。
ユリアンも立ち上がったが、芝居染みた二人の動作を見てその勢いに気圧されているのか呆れているのか、突っ立ったままで眺めている。
「お母様、私たちも、今さっき、知らされました。あの爺……陛下に先手を打たれてしまいました。無念です。やっぱりユーキを問い詰めて、折檻してでも白状させて、菫ちゃんの身柄をがっちり確保しておくべきでした……」
「いや、マレーネ、お前、折檻して白状って、それは駄目だろう」
妻の暴言を聞いて急いで掛けられたユリアンの窘める言葉は、しかし妻の耳には全く届かないようだ。
「何てこと! マレーネ、ユーキを菫ちゃんに取られるのは仕方ない……私も覚悟していたわ……でも、肝心の菫ちゃんまでまさか妃殿下に横取りされるなんて! ユーキのお嫁さんになるその日まで、私の側で大切に育てようと思ってたのに……痛恨! 我が短い一生の不覚だわ……こうなったら謀反を起こして奪い返すしか……」
「義母上、短い一生とか謀反とかって」
ユリアンの呆れ声は義母の耳にも入らない。
「お母様、私、今から陛下のところに殴り込みに行きます!」
「私も行くわ!」
「ええ、御一緒に!」
「おー!」「おー!」
二人が目を吊り上げ拳を天に突き上げるのを見て、ユリアンが堪りかねて声を厳しくした。
「マレーネ、いい加減にしなさい! 義母上も好き勝手を言わないで!」
叱られた二人が、拳と共に恨みがましげに下げた情けない眼をユリアンに向ける。だが、王女一家を陰で支える大黒柱の言葉は容赦なかった。
「二人とも、聞きなさい! ユーキが我々ではなく陛下に直談判することを選んだんです。仕方が無いと諦めなさい。これからユーキたちが挨拶に来るのです。詰まらないことを言っていないで、しゃんとしてください、しゃんと」
「はぁーい」「はぁーい」
一方、ヴィオラはユーキと共に、国王夫妻と共にささやかな祝いの昼餐を取った後に、装いも新たにユーキの実家に向かった。
今は王家の衣装庫からの選りすぐりの衣装に身を包んでいる。軽やかな紫から裾に向かって鮮やかな青へと色が次第に移り変わる、王妃が若い頃に着ていた物である。大切に保管されていたその盛装を、王妃付きの着付け師が短時間のうちにヴィオラに合わせて大急ぎで縫い直した。大変な作業であったろうが、ヴィオラが着た姿を見た時の満足そうな笑顔からすれば、きっと、激務は報われたと思っているだろう。
国王から遣わされた馬車の窓から射し込む日の光を透かせて輝く銀髪の上には、これも王家の宝物庫から王妃が自ら選んだ、紫青玉を紫水晶が取り囲んだ小さな頭飾を乗せている。
しかしながら只一つ、化粧については担当した王妃の侍女たちの気合が少しばかり入りすぎ、『お色が過ぎている』かもかもしれない。
二人とクルティスが乗る馬車がユーキの実家の門を潜った。
車を降り、ユーキとヴィオラが手と手を携えて既に大きく開かれていた玄関をいざ入ろうとしたところで、上空を旋回していた二匹のハーピー、もとい、手薬煉引いて待ち構えていた、でもない、つまり出迎えたヘレナとアンジェラに捕まった。
二人の侍女は仕える主であるユーキは押し退けそっち退けにして、ヴィオラを左右から挟んで立った。何事かと緊張で身を固くしている少女をついに捕らえた貴重な獲物の検分と言わんばかりの目で眺め回すと『うん、うん』と頷き合った。アンジェラが「十分……いえ、十五分」と言うと、ヘレナは「わかったわ。足止めは任せて」と応じて奥へと急ぎ足で去っていく。一方のアンジェラはヴィオラの二の腕を左手でハーピー掴み、いや鷲掴みにすると、ユーキに向かって握った右手の親指をびしっと立てて見せた。
「殿下、良くぞ捕らえられました。さすがは大人であらせられます。獲物、おっといけない、お嬢様は暫し私にお預けください。お嬢様、大丈夫、何も怖くありませんからね。さあさ、こちらへ。良い所へ参りましょうねぇ。怖くない、怖くないですよぉ」
そう言うと「ぐふふふ」と不気味に笑いながら強引に、半ば怯えるヴィオラを化粧室へと引き摺るように連れ去った。
……
ユーキが待つこときっかり十五分、ヴィオラは全く別人になって現れた。
強すぎた顔の色を全て綺麗に落とされ、素の可憐な美しさを活かした薄化粧になって帰ってきたのだ。
陶器のような艶やかな肌を、少し羞かしげに見せる頬のわずかな紅。眠れぬための目の下の隈は、跡形もなく白粉が消している。輝く紫色の瞳を際立たせる、優美に反った長い睫毛。少しだけ差した陰影が上品な鼻をさらに気高く見せ、薄桃色の口紅が唇を豊かに柔らかく輝かせる。
含羞んで俯きがちにしずしずと歩いてくるヴィオラを見て、ユーキは見惚れるばかりで何も言えなかった。再び手を取るときに思わず零れた「綺麗だ……」の一言以外は。
後ろでは壁に凭れて首を傾けたアンジェラが、聞こえよがしに大声で呟いている。
「殿下、私やりました……我が絶世の傑作を、殿下にお捧げいたします……私の全ての人生は、この僅かな時間に燃え尽きるためにありました……白い灰になりました……」
しかしながら、残念、ユーキの耳には入らなかったようで、手を取り合ったヴィオラの顔に只管見入っている。あまりにもじっと見詰められてヴィオラが頬を染めたところでアンジェラが「オホン」と咳払いを大きく放つと、漸くユーキが気を取り直した。
そのままヴィオラを広間に導くと、祖母のマルガレータ、母のマレーネ、父のユリアンの三人もそれぞれの従者を従わせ、先導するヘレナを後ろから押し倒さんばかりの勢いでやってきた。待ち兼ねたが故と同情の余地はあるといえど、それぞれに落ち着いた色の上品な盛装に身を包みこれぞ王族と言う装いに、その大股の歩様やどたどたという足音が全く調和していないのが何とも無念である。
家長たちを姿勢を正して待つユーキとヴィオラの周囲には、いつの間に現れたのか、クーツやクルティス、立ち直ったアンジェラを始め、家の者たちも勢揃いして澄まし顔で壁際に立ち並んでいる。恐らくクルティスに知らされて、一家の大慶事を見物、ではない、見守ろうと全員集合したのだろう。
マルガレータがヴィオラを見るなり、どこかに置き忘れた魂を探す亡霊のようにふらふらと歩き出した。
「貴女が菫ちゃん? 何て可憐な……愛らしい……ちょっとこちらへいらっしゃい……」
ふらつく体で魂を探すにしては迷いなく一直線にヴィオラに近寄って抱き着こうとしたが、然もありなんと予期していたユーキがヴィオラを背に庇って制止した。
「お祖母様、挨拶がまだ済んでおりません」
「そんなのどうでもいいわよ。お退きなさい、ユーキ。早く、早く」
焦ってユーキの肩越しに伸ばしたマルガレータの手を、横からマレーネががっしり掴んで冷たい声を掛けた。
「母上、ここは私の家、主の私が先です。それに百数えたら交替です」
「マレーネ、そんなドケチなことを言わなくても良いじゃない。私は老い先短いんだから先にしてよ。千でも万でも思う存分堪能させてよ」
「老い先? 何が短いんだか。それ言い出してからもう十年経つじゃないですか。駄目です。私が先です」
「駄目よ、私よ。ああ、もう、ユーキ、なんでこんな可愛い子をお母さんに隠してたの?」
「そうよユーキ、折角あの爺い……陛下を『あっ』と言わせようと思ってたのに。先にあっちに行くなんて、この親不孝者! 育てた甲斐がありません!」
ぎゃあぎゃあわあわあと勝手なことを喚き立てながらそれぞれにヴィオラを我が腕の内に収めんと藻掻き、そうはさせじと互いに妨げようとする祖母と母。
「……お二人とも、ヴィオラ嬢が怯えております。もう、このまま王城に帰しますよ!」
呆れたユーキが強めの声を出すと、縺れ合っていた二人が、ピシッと背筋を伸ばして直立した。横で父のユリアンが呆れながらも同様に姿勢を正す。
マレーネが取り澄ましてユーキに言った。
「ユークリウス、大儀に思います。今日の良き日を寿ぎます。では紹介を受けましょう」
やっと収まった。
ユーキはヴィオラと頷き合うと、紹介の言葉を始めた。
「母上様、お祖母様、父上様。これなるは、菫、改めてヴィオラ・リュークス嬢と申します。庶民の生まれにして、父君、母君、共に既に鬼籍に入っておりますが、父母の刎頸の友の薫陶を受け、齢十三、かくも立派に成長致しました。リュークス伯爵閣下の養女となり、既に国王陛下、妃殿下のお許しを受けここに私の婚約者として紹介させていただきます。よろしければヴィオラ嬢の挨拶をお受けくださいますよう、一子ユークリウス、心よりお願い申し上げます」
「良いでしょう、ユークリウス。ヴィオラ・リュークスとやら、聞きましょう」
マレーネの静かな促しに、ヴィオラは小さく礼をした。その顔は緊張で固いが、頬は紅く紫瞳は輝いている。ゆっくりと顔を上げると、凛とした声で挨拶を始めた。
「はい、ありがとうございます。皆様方の御目に掛かれます事、光栄至極に存じます。忝くもユークリウス殿下に御紹介いただきました私、菫、花街という卑しき里の妓女の館花園楼にて生を受け、父の顔も名も知らず、母、葵を早くに病に失いました。そのまま儚くなるべき露命を周囲の皆々様の御厚意により禿として繋ぐうちに、幸運にも殿下に御知遇をいただき、その正義に篤く弱きに優しいお人柄をお慕い申し上げておりました。この度勿体なくもお妃にとのお望みを頂戴し、この身には過ぎたこととは知りつつも、殿下の御心のみをお頼みし、か弱き力なれどもお手添えさせていただきたいと存じ、国王陛下、妃殿下の御許しをいただきました。さらに有難くもリュークス伯爵閣下のお家にお迎えいただき名をヴィオラ・リュークスと改め、本日皆様方のもとに参りました。不束者ではございますが、皆様方のお教えとお叱りをいただき、もって殿下に相応しい者となるべく精一杯に励みたく思います。皆様、何卒、よろしくお願い申し上げます」
菫、改めヴィオラは挨拶を終えると衣装を摘まみ持ち、膝を曲げてゆっくりと頭を下げる。
マレーネは満足そうに頷いた。
「ヴィオラ・リュークス嬢」
ヴィオラに掛けた厳粛な声は、つい今しがた母親と縺れ合い争い合っていた時とはまるで別人である。
「はい」
ヴィオラは頭を下げたまま返事をして聞いている。
「私は王姪マレーネ・ヴィンティア。こちらは私の母、王妹マルガレータ・ヴィンティア王女殿下、こちらは夫のユリアン・ウィルヘルム・ヴィンティア卿です。貴女を将来ユークリウスの妃として迎えることを、心より嬉しく思います。貴女をお認めくだされた偉大なる国王陛下、来るべき待ち遠しいその日までお預かりくださる情愛溢れるリュークス伯爵閣下御夫妻に、私たちは深く感謝しております。されどまずは、慈愛深き王妃殿下の御手の下でユークリウスに相応しいと万人が認めるように修行に励みなさい。その暁には、ユークリウスと二人で力を合わせ、偉大なる国王陛下の下、王家の一員として国のため国民のため、持てる力を尽くしなさい。そして二人の愛を大切に、幸福になりなさい」
マレーネはそこで隣に立つ自分の母親に振り向いた。
「お母様、いかがかしら?」
「そうね。私も異存はありません」
マルガレータも頷いて肯定すると、ヴィオラに優しく話し掛けた。
「ヴィオラ・リュークス嬢、貴女は卑しい里の生まれなどではありません。どこで生まれ育とうが、貴女は父と母の愛によって生を受けた者。周りの愛によって育まれた者。それは何より尊いのです。またユークリウスは自身精一杯励み、また精一杯励む者を愛する男。貴女は沢山の愛の下、精一杯に生きてユークリウスを選び、ユークリウスに選ばれたのです。その身を誇りなさい。何度でも言います。貴女は卑しくありません。貴女を生んだ者、育てた者を誇りなさい。貴女自身を誇りなさい」
「はい、ありがとうございます。マルガレータ殿下……」
ヴィオラは、マルガレータ王女の優しい言葉を聞いて目に浮かんだ涙が流れないように、懸命に我慢している。それを見たマレーネたちがまた騒ぎ出した。
「あ、母上、狡い、それ私が次に言おうと思ってたやつ。取らないでよ。ほら、ヴィオラちゃん泣いちゃうじゃない」
「ユーキ、ぼさっとしているんじゃないの、ほら、手巾よ、早く、早く」
「あのー、私、まだ何も言っていないんだが……二人とも、良い場面が台無しじゃないか。ヴィオラ嬢、ユークリウスをよろしく頼む」
ユーキは促されるまでもなく手巾を取り出そうとしていたが、それに先んじてアンジェラが横からすすすと音も無く進み出てヴィオラの涙をそっと拭いてまた音も無く引き下がる。
ヴィオラはにっこりと笑って礼を言った。
「皆様、ありがとうございます。よろしくお願いいたします」
「可愛いぃいぃいぃ……ああ、もう我慢できない!」
マルガレータが叫ぶなり、矢も楯も堪らずヴィオラに抱き着いた。
「あ、母上、また自分勝手に狡いことを……百数えたら交代ですよ、百。ああ、こんないい娘に、将来『お義母様』と呼んでもらえるなんて……。幸せ! ユーキ、良くやりました。なんて親孝行なの、育てた甲斐があったわ! 一、二、三、四、五、六、百、はい百です、交代、交代!」
「まだよ、まだ十も数えてないでしょ、違うわよ、マレーネ。『お義母様』は私。貴女は『義母上様』」
「そうだわ、『お義姉様』呼びも格別甘露かも!」
「その下らない設定、まだ続いているのか。まあ、どのみち私も『お義父様』と呼んでもらえるのか。嬉しいなあ」
盛り上がって馬鹿騒ぎする三人にユーキが呆れていると、ヴィオラがマレーネとマルガレータの絡まる腕の中で、とても言い辛そうに声を出した。
「マレーネ殿下、申し訳ありませんが、そのことなのですが……」
「なあに? ヴィオラちゃん」
「本日の朝、国王陛下、妃殿下にお目に掛かった際に、殿下宛にお言付けをお預かりしまして」
「私に? 何ておっしゃっていたの?」
「あの、真に申し上げ難いのですが、必ずお伝えするようにと、国王陛下に厳命されました」
「ええ、何て?」
「その、『まずはリュークス家の娘になったのだ、父、母と呼ばれたのはこっちが先だ。もう何度も呼ばれたぞ、お先に失礼、羨ましかろう』、と……」
「あっ……。くそじ……陛下! 悔じいいい……!」
部屋中に響き渡るマレーネの悲痛な叫び声に、家中一同、一斉に目を逸らした……




