第百九話 花街との別れ
承前
菖蒲の言葉で皆の視線が真っ赤になっている菫に集まり、菫が両頬に手を当てて羞らう間にテレーゼは態勢を立て直した。
「オ、オホン、では菫さん、王城へ一緒に来ていただきますので、身支度をしておいでなさい。身一つで構いません。身の回りの品はこちらで備えた物がありますし、必要なものがあれば明日以降、こちらから取りに伺わせます」
「あの、お衣装はどのようにすればよろしいでしょうか」
「普段着で構いません。貴女は装わずともそのままで十分です。むしろ、今のお顔はお色が過ぎるようです。まだ成人の儀前の十三歳、ありのままの素顔と姿を陛下に御覧いただきましょう」
「承知しました。失礼いたします」
「菖蒲、手伝ってあげなさい」
「あい、婆様」
菫がテレーゼの指示に従って立ち上がろうとすると、薄が静かに言葉を添えた。菫がまだ赤い顔に片手を添え、もう片手を菖蒲に優しく取られながら座を外すと、テレーゼは薄に尋ねた。
「薄さん、菫さんのお父上のことを御存じなのでしょう? お聞かせいただけませんか?」
それは高位貴族の醜聞に関わる事である。どこまで打ち明けて良いものか、薄は目を伏せ、躊躇いがちに応じる。
「はい。大変申し上げ難いことですが、あの子の母親、葵はさる御大家の御長男に無残に捨て去られました。菫が宿っていると葵が知ったのはその後のこと。お家からは、与り知らぬ、最早縁も所縁もない、当家に二度と関わるな、と一方的に申し渡されております」
「……何ともお気の毒な。それが『煮え湯』、ですか」
「如何にも然様でございます。ただそのお方も、菫が三つの頃に亡くなったと、私共は人伝で知りました」
「三歳というと、十年ほど前ですね。先程の菫さんと殿下の出逢いのお話……柏とやら。其方以前は、」
テレーゼは柏の出自を問い質そうとしたが、その言葉は途中で柏本人にきっぱりと遮られた。
「コルネリア様。あっしは只の若い者。以前も何もござんせんし、何にも存じておりやせん。詮索は御無用にお願い致しやす」
その強い口調と下げた頭をひくりとも動かさない柏の態度に、テレーゼは更なる探りは諦めざるを得なかった。
「……わかりました。其方にはこれ以上は聞きますまい。薄さん、その家の名はお察しいたします。ですがはっきりとお聞かせいただければ、陛下にお伝えしてそちらに何らかの処置をお願いすることもできますが」
「いえ、今更それは、菫のためになりますまいし、ユークリウス殿下にはお伝えしてございます」
「わかりました。ですが、王族の正妃ともなれば今更ながら縁者がしゃしゃり出て来ぬとも限りません。こちらで調べて菫さんにも柏さんにも手出しせぬよう、当主に釘を刺しておきます。柏さん、よろしいですね」
「へい、有難うございやす。あっしはどうなっても良うございやすが、何卒、何卒、菫のことをよしなにお頼み申しやす」
「其方もまた殊勝者。菫さんは、良い方々に育てられましたね……」
テレーゼが感心していると、薄の脇から椿が膝でにじり出た。
「あの、この後、菫はどうなりましょうか。もしも万一、陛下のお気に入らぬとなれば、戻されましょうか。ここまで来てそうなってはあまりに哀れで」
薄も柏も心は同じと、心配そうに見上げている。テレーゼはその様子を見回すと、温かく微笑みながら答えた。
「もちろんお約束はできかねますが、御心配は無用かと思います。先程もお伝えしましたが、本日早々の直談判でユークリウス殿下が陛下から、菫さんのお心さえ確かなら反対はなさらないとのお約束を勝ち取られていますゆえ」
「殿下が、陛下に直談判を?」
「ええ。さすがはユークリウス殿下です。陛下は完全に降参されたとのことです。妃殿下も、私に直ちにこちらに参れと、それはもう満顔の笑みでお命じなされました。それに私の見る限り、菫さんなら大丈夫です。齢十三にして、ここまで聡明で、勇敢で、上品で、優美で。皆さん、良くぞ育てられました。貴族の令嬢方も、なかなかこうは参りますまい。殿下が望まれるのも頷けます。安心してください、私も菫さんにお味方することをお約束します」
王城侍女取締がその胸をぽんと軽く叩きながら言明すると、一同は揃って床に手を突いて礼をした。
「有難うございます。何卒、良しなに」
そして深々と下げた頭を上げ、座の雰囲気も和らいだところに折良く菫と菖蒲が戻ってくると、テレーゼは真っ直ぐ座り直して菫に命じた。
「菫さん、今日これからは王城にてお部屋を頂き、住まわれることになります。ここへはおいそれとは戻れないでしょう。今日まで貴女を大切に育ててくださった皆様に挨拶をなさい」
「あい」
菫が皆の前で手を突いて今までの恩義への礼を篤く述べて涙ながらに別れを告げると、薄は菫の手を握り、柏は二度、三度と菫の頭を撫で、椿は自分の簪を抜いて菫の帯にそっと挿し込んだ。菖蒲は「えへへ」と笑いながらも涙を流し、菫に抱き着いて暫く放さなかった。
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菫のことは、他楼の妓女妓夫の間でも静かな噂となっており、昨日今日と続けて王家の馬車が堂々と乗り入れたことで事情は早くも伝わっていた。
菫が馬車に乗せられて去る際には、様子を察した自楼他楼の者たちがそちこちで部屋の窓に寄り、己の客に構いもせずそっと手を振って見送った。
隣楼の窓辺でのことである。
「どうか、幸せに……」
朱紅を差した唇から祈る言葉を零しながら窓の外をじっと見下ろす妙齢の妓女に、壮年の男客が自席から声を掛けた。
「おい、そんなところで何をしてるんだ?」
「『春の夜の夢に芽吹きし菫草』」
「は?」
「『風の誘ひに咲けや、いざ咲け』」
「何だそりゃ?」
「あたしはこの花街が気に入ってんだけどね。それでも、ここで齢を取って行って欲しくない子、っていうのもいるものよ」
「へえ、妓楼には似つかわしくない子ってわけか?」
「まあね」
「ふうん」
妓女が動かずにまだ窓の側にいると、客が近寄ってきて隣に立った。見下ろす先では、菫が花園楼の玄関を出て、中に向かって深々と頭を下げている。
「おい、ありゃあ王家の馬車じゃねえか」
「そうみたいねぇ」
「あの銀髪の子がその『菫草』かい?」
「ええ、そうよ」
妓女は菫が馬車に乗り込むのに小さく手を振って見送る。客はその隣で佇んでいたが、馬車が動き始めるのを見て真顔に戻ると呟いた。
「『野に落ちし玉ゆ萌え出づ若菫』」
「え?」
「『賤の大人よ花な手折りそ』、ってわけか?」
「……あんた、見掛けによらないのね。見直したわ」
「止せやい、見掛けはねえだろ。これでも娑婆では貴族の端くれなんだ。ちったぁ歌も習ったさ」
「端くれって、飛ぶ鳥をも落とす勢いの、近衛の大隊長様が?」
「近衛と言っても、半端者が集まった第三大隊だ。俺も家では冷や飯喰らいの末っ子が、何とか近衛に潜り込んだだけの男だがな。お前が気に掛けた子か。憶えておくよ」
「まあ……今夜は泊っていってくれるんでしょ?」
「珍しいな、お前がそんなことを言うなんて」
「今は、そんな気分なの。嫌ならいいのよ」
「いや、泊ってくよ。偶には、ゆっくりと歌の話でもするか」
「ええ、子守唄代わりに聞かせてちょうだい」




