第百六話 王城侍女取締
前話同日夕刻
ユーキが国王に菫との婚約を直訴したその日の午後、ピオニル領の領主への任命は何事もなく無事に済んだ。国王とミンストレル宰相、ゲルプ内相のみならず、縁戚のウルブール法相やウィルヘルム伯爵らからも次々と祝福と激励を受け、ユーキは今さらながらに臨時領主の責の重さを感じながら邸へと戻った。
同日夕刻の花街、花園楼の門の中に前日に続いて再び王家の紋章が描かれた馬車が入って行った。
今日は小型の馬車から出てきたのは、白髪が混じる栗色の髪を結い上げた女性である。生地は上等ながら飾り気のない質素な紺色の衣服に身を包んだその女性は、従おうとする供の者を手を上げて制止すると、一人で玄関の戸を開けて中に入って行った。
「いらっしゃいやし! ようこそ花園楼へ。御予約様でいらっしゃいやすか? 失礼ながら、お名前を伺ってよござんしょうか?」
一見の女性のいきなりの訪問ではあるが、出迎えた玄関番の松爺が愛想よく賑やかに声を掛けた。だが、返ってきた名乗りに今日も驚かされた。
「テレーゼ・コルネリア、王妃殿下の使いの者です。菫さんと言うお方にお会いしたく伺いました」
「きょ、今日は王妃様の? 失礼致しやした! ど、どうぞ、お上がりくださいやし! お足元にお気を付けなすって、お履物はそこにどうぞそのままで、ささ、こちらのお部屋で、少々お待ちを!」
昨日の今日である。松爺もユーキと菫の事情は察している。前日はユーキを迎えた最上等の応接室にお使い様を丁重に招き入れると、急いで薄の所へ飛んで行った。
「薄婆、た、大変です。王妃様のお使いとおっしゃる方が、いらっしゃいやした。菫に会わせろと」
松爺の言葉を聞いて、薄の顔が一瞬蒼くなった後に今度は赤くなり、両の目尻が吊り上がった。
「菫……ほら、言わんこっちゃない。あれだけ御大層な事を言ってても、結局、身分が違うから諦めろって話になるのよ。そんなこと、殿下が自分で言いに来いってのよ。使いに言わせて済ませようなんて、菫を馬鹿にして。冗談じゃないわ、見てなさい、今、追い返してやるわ」
薄はどすどすと音を立てて廊下を急ぎ、応接室に着くと扉を叩かず矢庭に開く。部屋の中では出された茶を啜っていたテレーゼが不意の闖入者にも驚かず卓に茶碗を静かに置き顔を上げると、薄は突っ立ってその顔をじろりと見てから深々と頭を下げた。
「失礼いたします。当楼の差配をしております、薄と申します。本日、お使い様のご来臨の栄に与るとは夢にも思わず、恐縮至極、当楼の誉れと心得てございます」
お辞儀と言葉は慇懃至極、だが声は平板どころか冷淡だ。薄と名乗った差配の女の後ろには目当ての少女らしい姿は無い。それを確かめたテレーゼは尋ねた。
「随分と丁寧な御挨拶、痛み入ります。で、菫さんはどこに?」
「それが生憎ながら、本日は宴のお世話のために同席しております。手を放せませぬゆえ、後日改めて」
答えた薄は言い終わると『話はこれまで、お帰りください』と言わんばかりに頭を上げる。
だが、これで『そうですか』と引き下がっては子供の使いである。王妃の側近として何度も交渉役を任されて面倒事に慣れているテレーゼは、話を終わらせはしなかった。相手と引けを取らない無感情な声で問い質す。
「いえ。どなたの宴席ですか?」
「それはお客様のことゆえ、申し上げかねます」
「本日に、との御妃様の厳命です」
「そうおっしゃられましても、こちらにはこちらの都合がございます。後日お改めいただけますれば」
「ほんの一時、呼ぶこともできぬと?」
再び頭を低く下げながらも木で鼻を括るような返事の連続に、テレーゼの気配が硬くなる。薄にも引こうとする様子は微塵もない。互いの声が徐々に大きく高くなっていく。
「故なく中座させては、宴のお客様に失礼となりますので」
「故なく? 御妃様の御命でも?」
「御命の内容をお聞かせくださいませ」
「何を言うのです。御妃様の御命を、本人に伝えぬうちに余所へ洩らせるわけにはまいりません」
「それでは、遺憾ながらお断りいたします」
「何故です。御妃様に対し、無礼ではありませんか?」
それを聞いて薄は顔を上げ、テレーゼを正面から見て声を強めた。
「では申し上げますが、菫は、菫とその母の葵はかつて貴族様に裏切られ、不幸な目に遭わされております。菫に二度目の煮え湯を飲ませるわけには参りません。御妃様と言えど、御命の中身も聞かず、お通し申し上げることはできません」
「煮え湯などとは、重ね重ね無礼な……菫さんにとって、悪いことではありません。私が保証いたします」
「失礼ながら、貴女様も貴族様でしょうに。信じ参らせることができましょうや」
無礼にもほどがある。そこまで言われてテレーゼはさすがに顔色を変えたが、頭に昇る血を懸命に抑えて考えた。
王妃の使いを蔑ろにすれば、上得意のはずの貴族の間に悪評が拡がり、この楼に良いことは何も無いはずだ。ここまで言うには何か余程の理由があるのだろう。
一度引き下がって事情を探るべきか。だが王妃の指示は『本日中に』との厳命である。何があっても果たさなければならない。ならばここは勢い任せに押し通り、子細はその後に調べよう。ここは感じた憤りの使い処だ。
「そう、わかりました。菫さんが来られないのであれば、私が参ります。席に案内してください」
テレーゼは気色ばんで立ち上がり、薄を押し退けて廊下に出た。
薄は驚いた。まさか、お上品なお貴族様、それも王妃殿下の女使が実力行使、現場に踏み込むと言い出すとは。
だが、行かせるわけにはいかない。慌てて追い縋ってその腕を掴んで叫ぶ。
「それは! できません!」
「できなければ結構。片端から一部屋ずつ、隅々まで重々念入りに、客の座席の裏側まで探させていただきましょう」
「そんなことはさせません!」
「無礼な、お放しなさい!」
「放しません!」
妨げる手を振り解こうとするテレーゼと、放すまいと力を込める薄の腕と腕が縺れる。声高に言い合いながら揉み合う二人の騒ぎを聞き付けた柏が現れてテレーゼの前に立ち塞がった。
「いくら御妃様のお使いとはいえ、無法はお止めなすって」
「菫さんに会わせていただければ、誰もこのようなことはいたしません」
柏は背は低いと言えども筋骨逞しい。力ずくでは取り除けそうにない男に前に立たれたテレーゼは、漸く薄を振り解いてそう言いながら柏の顔を見ると不審そうになった。
「貴方、お会いしたことがあるのでは?」
「いえ」
「もしかしてショルツ侯爵の……」
テレーゼが漸く事情を察し始めたその時だった。
「菖蒲!! 菫!! こっちへ来い!! 来いと言うのがわからんのか!」
二階の方から男の濁った怒声が伝わった。それを聞くや否や、柏は「ごめんなすって」と言い残して声の方へさっと走った。
残されたテレーゼが薄を振り返った。
「あの声はデイン子爵ではありませんこと?」
「デイン子爵? ……はぁ、どうやら御案内した方が良さそうですわね。どうぞおいでください」
テレーゼの問いに薄は溜息交じりに答え、先に立って男の声のした部屋に急いだ。
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「姐様、御膳と竹葉をお持ちいたしました」
「お客様に」
「あい」
寸刻前、ここは椿の間である。厨房から届いた膳と酒器を運び入れた菫と菖蒲が中年の小男の客の前に据え、銚子は椿の前に置いて下がる。椿の両脇に控えた二人を見て、客の目が光った。
「ここの禿は粒揃いと噂には聞いたが、これほどとは」
「何か?」
呟きを椿に聞き咎められた客が「いや、何でもない」と濁して膳から杯を取った。
「では、おひとつ」
椿が銚子を取って前に出て酒を注ごうとしたが、客は受けようとせず、菖蒲に向かって杯を突き出した。
「いや、いい。そこの切れ長の目のお前。酌をしてくれ」
「お客様、禿は酌はいたしません。私がいたしますれば」
「堅いことを言いおって。まあよかろう」
椿が断ると客は眉の間に皺を寄せたが杯を椿に向けて酌を受け、注がれた酒を一気に干して、袖で口を拭った。
「椿、その禿どもの名前は何という」
客が空になった杯を椿に突き出しながら尋ねた。椿はまた注ぎながら答える。
「……左が菖蒲、右が菫にございます」
その杯も一気に呷る様子を見て椿は後に下がり、菫たちに席を外すように命じた。
「菖蒲、菫、お客様は竹葉がお進みの御様子。代わりのお銚子を」
「いや、良い。ここに居れ。いや、儂の両脇に参れ」
「お客様、それは成りませぬ」
「うるさい。菖蒲、菫、参るのだ」
「成りませぬ」
「ええい、年増は黙っておれ! 菖蒲!! 菫!! こっちへ来い!! 来いと言うのがわからんのか!」
早や酒が回ったのか、はたまた思うに任せぬ苛立ちか、赤ら顔になった客は怒声を上げると来い来いと手招きをする。しかし菖蒲も菫も動かない。二度、三度と招いても一向に来ないと見るや、ゆらりと立ち上がると「ええい」と手にした杯を振り上げた。背後で襖と障子が大きく開かれる気配には気が付かない。
菖蒲は怯えて椿の後ろに隠れたが、菫は「姐様!」と叫んで椿の前に出て立ちはだかる。客が投じた杯と酒の飛沫を避けもせず、引き締めたその顔で受け止めた。
「来いと言うに!」
客が怒鳴るが菫は脅えず、その場で正座して手を突いて答える。
「できませぬ。楼の掟でございます。禿は禿、妓女ではござりませねば」
「ぬ……!」
客が焦れて噴気を口から漏らしながら椿たちの方に歩み出ようとしたところに、部屋の中の様子を見定めた柏が素早く近寄った。膝屈みになって客の前に回り、その肩と腰を押し止める。するとどういう加減か、客の体はぴたりと動かず前に進めなくなった。
「此奴、何をする? は、放せ。儂に触れるな」
「これはとんだ失礼を致しやした。さ、どうぞお席にお戻りなすって」
力を込めてぐっと押すと客は腰砕けになり、尻から床に落ちて後ろ手を突いた。
「無礼者!」
部屋の隅に控えていた客の従者が叫び声をあげて柏との間に割り込もうとするが、やはり柏に腰と肩を押さえられると動けない。客と同じように押し戻されて呆気なく床に転がされる。
片膝着いたままの柏が静かに言った。
「御無礼仕りやした。されど、廓には廓の作法がございやす。貴族も庶民も妓女の前では一人の男。野暮な真似はお止しなすったが良うござんしょう」
しかし小男の客は、窘められて反って逆上した。無様に腰を落としたままで柏を睨み付け、頭から湯気を出しながら叫ぶ。
「この無礼者! 貴族たる儂に何を言う! 見ておれ、こんな妓楼のひとつやふたつ、儂が一声出せばどうなるか……」
と、さらに何かを言おうとした。
だがそこに、薄に伴われて部屋に入っていたテレーゼが、突っ立ったまま客を後ろから見下ろして氷雨のごとく冷たい声を降らせた。
「どうなるのですか? デイン子爵」
「ぬ?」
なぜ我が名を? 楼には偽って告げたはず。客はぎょっとして恐る恐る振り返り、そこに立つ女の顔を見た途端に血の気を失った。真っ赤だった顔が見る見るうちに蒼くなる。
その顔に向けて、テレーゼは冷ややかな言葉を重ねた。
「通人の密やかな遊び場で無体な狼藉を働いた上に無粋な大声を出して、この楼をどうしようとおっしゃるので?」
男は口をぱくぱくと開け閉めしていたが、辛うじて小声を吐いた。
「お、お前はコルネリア王城侍女取締。な、何故ここに?」
「なぜ? 貴方のお噂を聞いたからに決まっておりましょうが」
テレーゼが目を細めて吊り上げながら言った言葉に、デイン子爵は小さな両目を剝いた。手で床を突きばたばたと後退りながらテレーゼに向く。
「う、噂?」
「はい。まだ幼気な娘を求めて夜な夜なこの辺りを探し回っていると、もっぱらの噂です。まさかその様な馬鹿げたことがとは思いましたが、禿は未成人のはず。それに手を掛けて侍らそうとは、噂は馬鹿にできぬもの。『痩せ烏、鳴き騒ぐ下に腐肉あり』とは良く言ったものですね」
「え? そんな筈は。この街へは今日が初めて……」
「この街へは? ではどこへ?」
「い、いや、ほんの戯事だ。禿如きに手を掛けるなど、本気で儂がそんなことをする筈がなかろうが」
「戯事? あの転げた酒杯は? 今、詰め寄っておられましたね? その二人は明らかに未成人。こっちへ来いとは? 戯言で済むとお思いですか?」
「いや、それはその」
デイン子爵が言い逃れを探そうと目を白黒させていると、椿の前にいた菫がすすとテレーゼの前に進み出て平伏した。
「取締様、私どもの事をお気に掛けてくださり、まことにありがとうございます。ですが今のは、お客様が私どもと鬼事をしてくださったまでのこと。あの酒杯は私が膳に躓いた拍子に転がり落ちたもの。私どもの不調法、何卒、お許しください」
「鬼事、ですか?」
「あい、鬼事です。それが大事になりますれば、私どものせいで楼に迷惑が掛かります」
それまで菖蒲は椿の陰から、思い切り歪めた顔だけを出してデインに向かって舌を大きく出していたが、菫のテレーゼに向けた言葉を聞くと菫の横にすすすと出て、一緒に手を突き声を合わせた。
「「何卒、何卒」」
「わかりました。其方たちがそう言うのであれば、そうなのでしょう」
テレーゼは禿二人に優しく暖かくそう言葉を落とすと、デインに向いた。言葉の温度が一気に下がる。
「デイン子爵、命拾いをしましたね。本日のことを陛下や妃殿下に報告する必要は無いかと思います」
「う、うん? そうか。そうだな、ただの鬼事だしな。はは、さ、続きをするか」
デインは誤魔化し笑いをしながら禿二人の方を向こうとしたが、テレーゼは許さなかった。歩を進めてデインと禿の間に割って入って見下ろし続ける。
「いいえ、然にあらず。本日は今までここにいらっしゃいませんでしたし、今からもいらっしゃいませんわよね? ですから、貴方がこの楼をどうこうすることもあり得ない。そうであればこそ、報告することは何も無いと」
「うっ。そ、そうだな」
テレーゼはデインの返事を待たず、さらに言葉を突き刺していく。
「明日以降ももうこちらにお見えになることは二度と無い。ああ、御持病の腰痛は打ち身で悪化されたらしい、当分お勤めは欠かれると、それはお伝えいたしましょう」
「いや、それは」
「ではとっととお引き取りを」
「いや、しかし」
「お引き取りを。然もなくば」
端から冷たかったテレーゼの声はさらにどんどん温度を下げていき、今では雹が降る如く。
デインは暫し口を閉じたり開いたりを繰り返していたが、テレーゼが目を細めて睨み付けるに至って観念した。
「わかった、帰る。もう来ん! こんな安物の荒屋、誰が来るか!」
デインはどたどたと部屋を出て行き、従者も慌てて後を追った。
柏はそれに向けて声を張る。
「松爺! 椿の間、お下がり!」
そしてもう一声続けた。
「塩、撒いとけ!」
楼が静かになると、薄がテレーゼの前に出て菫に並び、手を突いた。
「取締様、お蔭様を持ちましてこの場が収まりました。お礼を申し上げます。有難うございました。あの、この件、陛下には……」
「もちろん報告いたします。あのような者、放置するわけには参りません」
「それを伺い、安堵いたしました」
「この一件のみでは処分には至らぬでしょうが、他にも不埒なことをしでかしておらぬか、調べることになるでしょう」
「さきほど、『噂』とおっしゃっていたのは……」
「竜の欠です」
「欠?」
「ほれ、『竜が口を開けば、欠も炎に見える』とか言うでしょう? 弱みのある者は簡単な脅しでも飛び退ります。それに私は王城では、不埒な貴族には容赦のない、遣り手婆と呼ばれているようですし。誰かさんと同じように」
そう言って「くっ、ふふふふ……」と笑い出すと、薄も思わず「ほっ、ほほほほ……」と笑いを零す。二人の声を合わせた笑いが部屋に高らかに響いた。
「さて、本題に戻りましょうか」
そう言ってテレーゼが床に腰を下ろすと、薄も威儀を直した。
「はい、先程は大変失礼をいたしました」
そして横に座った菫に手を添える。
「これに居りますのが、菫にございます。挨拶をさせてもよろしいでしょうか?」
「然るべく」
「菫、取締様に挨拶なさい」
「あい」
薄に命じられ、菫が姿勢を正して再び手を突き頭を下げる。その上品な所作にテレーゼが感心するうちに挨拶の言葉を述べた。
「取締様、さきほどはお助けくださり、ありがとうございました。私、今は亡き妓女、葵の一子、菫と申し、齢十三となります。椿姐様の下で禿として修行中の身、未熟ではございますが、精一杯に励ませていただいております。何卒、お見知りおきのほど、謹んでお願い申し上げます」
「菫さん、そのお齢にして良い御挨拶、痛み入ります。私は王城侍女取締をしていますテレーゼ・コルネリアです。皆さんもコルネリアと呼んでいただいて構いません。お父様は?」
「名も顔も存じません。私が幼い頃に儚くなったと伺っております」
「そうでしたか。ごめんなさい。お顔を上げて……ああ、お顔をお拭きなさい」
「あい」
菫は懐から手巾を取り出してデイン子爵に掛けられた酒の飛沫を拭くが、その手はふるふると震えている。
テレーゼはその姿に視線を走らせながら尋ねた。起伏の無い、感情を込めない声だ。
「先程は怖かったでしょう?」
「あい」
「それでも姐様を庇われたのはなぜ?」
「姐様は楼の珠玉であられますれば。私は未だ磨かれざる石塊。石もて玉を護るは当たり前と心得ます。それに、芸事に励む上では些少の事に怯えていては務まりません。この有様、ただ恥じ入るばかりです」
「……何か武術を嗜まれておりますか?」
「いいえ。芸事のみでございます」
菫の答えを聞いてテレーゼは感心した。
これはなかなかに勇敢な娘だ。武術の心得があればともかく、身を護る術も持たずに姐を庇って酔客の暴力の前に身を投げ出したのか。察するに、日頃から姐に可愛がられてその恩義を身に沁みて感じているのだろう。
「芸事の修行には何を励みになされていますか?」
「あい、芸事は亡き母の業であり、名も知らぬ父も、母の芸を大層好んでいたと聞きました。両親の恩に報いるべく。それに……」
「それに?」
「今、励ましてくださるお方もおられますれば」
「シュトルム様ですね?」
「……あい」
テレーゼはそこまで聞くと、薄と椿に向き直った。
「薄さん、それから、菫さんの姐様」
「あい」「あい」
「お二人はシュトルム様の実の事、昨日の事は?」
「この場におりますものは皆、全て承知しております」
「そうですか。ならばこちらも実の事をお話ししましょう。シュトルムと名乗られたユークリウス殿下は、本日早々に国王陛下、妃殿下に菫さんとの婚約をお許しいただきたいと直談判されました。殿下は陛下を説き伏せられ、妃殿下も反対なさいませんでした。それで妃殿下から私に、菫さんの心根を確かめて参るよう、御命が下されたのです。殿下のお心は真っ直ぐ偽りない、後は菫さんのお心一つと」
「そうでございましたか。私はまた、殿下のことを忘れるように菫にお命じに来られたのかと、一人合点をいたしておりました。もしそうならば、殿下が御自身で断りに来られるべきと……重ね重ね失礼いたしました」
薄が詫びを言い頭を下げたが、テレーゼは首を横に振った。
「いえ、菫さんを大切にされてのことと思います。お気になさらず。では、大切なこと故、申し訳ありませんが菫さんと二人にしていただけますか?」
「畏まりました。菫、失礼のないように。大切な、一生事です。悔いの無いようになさい」
「あい」
「では、失礼いたします。椿、柏、菖蒲、行きますよ」
「あい」「へい」「あい」
薄に促され、呼ばれた面々が立ち上がる。椿は優しく、柏は力を込め、菖蒲は胸の前で両手を握り締めて、それぞれ菫に頷き掛けると薄に従って部屋を後にした。
……そして勿論全員が控えの間で様子を窺っている。今日も、指を舐めて障子に穴を開けて。松爺は明日もまた嘆きながら張替えねばならないだろう。




