第百二話 望み
承前
ユーキたちの乗る馬車は蹄と車輪の音も高らかに、風を切りながら王都の街を走って行く。王家の紋章も鮮やかなその姿に道行く人が立ち止まって見送る中を花街通りに着き、花園楼の門を潜ったところで御者のエイネルが「どう!」の声を掛けて手綱を引いて馬を止めた。
馬車が停まるとクーツはさっさと降り、ユーキと花束を持って従うクルティスを先導して歩く。玄関の前まで来ると振り返り、真顔でユーキに尋ねた。
「殿下、お覚悟はよろしいですな?」
「……ああ。大丈夫だ」
ユーキが気を引き締めてそう答えるとクーツはにっこり笑い、楼の玄関を開けて一歩中に入ると声高く朗々と宣した。
「お出会いください! シュトルムこと、ピオニル領領主心得、王大甥ユークリウス・ウィルヘルム・ヴィンティア王子殿下のお成りであります! 貴楼妓女椿様付禿、菫様との御面会を望まれておられますれば、速やかにお取次ぎをお願い致します!」
玄関番をしていた松爺がそれを聞いて「へっ?」と跳び上がった。そしてクーツの後ろに立つユーキの顔を見ると「シュトルム様……って、で、殿下?」と慌てふためき、「こ、こちらのお部屋で、少々お待ちを!」と応接室の扉を開けるなり奥にすっ飛んで行った。
「では、私は馬車でお待ちしております。殿下、御健闘を祈ります。クルティス、後は頼んだぞ」
「はい、父上。お任せください」
クルティスの返事を聞き、クーツはもう一度ユーキを見て笑顔で力強い頷きを送ってから出て行った。
ユーキはクルティスと共に応接室で待った。相手の都合も考えず前触れも無しの突然の訪問だ。長く待たされても仕方がないと、ユーキは深呼吸を繰り返して逸る気を静めていたが、楼の差配である薄はほどなく現れた。だがその顔は予想していた通りに厳しい。挨拶もせずに刺々しい声でユーキを咎めた。
「シュトルム様、お約束と違うのでは?」
その白髪に挿した磨き上げられた玉簪のように光る眼から伸びる視線がユーキに鋭く突き刺さる。だがユーキに弁解はさせまいと、クルティスが間髪を容れずに割って入った。
「薄様、本日はシュトルム様ではなく、ピオニル領領主心得、王大甥ユークリウス・ウィルヘルム・ヴィンティア王子殿下としてのお成りです。然様お心得ください。殿下は急な事情のため、近日中に王都を出発され、暫く戻られません。そのため、止むを得ず御用を果たしに来られました。御迷惑は承知の上、殿下に成り代わりお詫びいたします。申し訳ございません。どうか菫様にお取次ぎをお願い致します」
普段の砕けたクルティスとは全く違う肩肘張った態度に薄は驚いたが、この程度で怯んでいては、常日頃から高位貴族や大商人を相手にする一流の妓楼の差配は務まらない。
「それでもお約束はお約束。王族は平然と約を違えられるのですか?」
「それでは、椿様にお取次ぎいただきたい。勿論菫様はお付きとして姐様のお世話をなさるだけ。それなら問題ないのでは?」
「それは」
薄はぐっと言葉に詰まり掛けたが、尚も言い返そうとした時に部屋の扉が音を立てた。室内の全員の目が集まる中、扉が開いて入ってきたのは柏を従えた椿だった。
椿はユーキに軽く頭を下げると、妓女らしく嫣然と微笑みながら告げた。
「殿下、ようこそいらっしゃいました。菫は私の部屋でお待ちしておりますれば、案内させていただきます」
「椿、あなた、」
「いいえ」
薄は椿を止めようとしたのかもしれないが、椿は何も言わせぬとばかりに言葉を被せて遮った。
「婆様、わずか数か月と言えど、やり取りされた熱情込めたお文の数々、全て読んだ私には、二人の心は既に通じ合っているとわかります。会う会わぬは私が決めるとのお取り決めのはず。私はお望みがあり次第お会いいただくと既に決めておりました。本日私が茶碾きで菫の体が空いているのも神の思し召し」
「……」
薄はそれでもまだ躊躇っていた。だが、椿が止めを刺すように「婆様」と声を掛けると諦めた。
「わかりました。椿、案内しなさい」
「あい」
椿はユーキを見やり、「殿下、どうぞ」と言い、クルティスが持つ花束に目を止めると嬉しそうに微笑んだ。
「では、お静かに」
「はい、お願い致します」
ユーキは椿の後からクルティスを従えて応接室を出た。
静かに進むとどこかの部屋からしっとりと艶やかな音色の音曲が微かに聞こえてくる。何だか懐かしい広い階段を登り、歩むごとに小鳥の鳴き音のように響く板張りの廊下を先へと向かう。仄かに漂う香の匂いもあの再会の日と同じと思い出す。
椿は自分の部屋に着くと、大振りの八重の椿花が描かれた扉代わりの襖を開けて控えの間に入り、客間を隔てる障子の前に座り居住まいを正してユーキの方を振り返った。
ユーキがクルティスから花束を受け取り、一つ小さく咳払いをしてから頷くと、椿は客間に向かって声を掛けた。
「菫、ユークリウス殿下がいらっしゃいました。お入りいただきますよ」
そしてゆっくりと障子を開く。
「殿下、どうぞお入りください」
椿はユーキを促して、両手を突いて頭を下げた。
「何卒、菫をよろしくお願いいたします」
「はい、有難うございます」
ユーキは椿に小さく頭を下げてから、菫が待つ部屋に一人で入った。
椿は静かに障子を閉めるとクルティスを残して控えの間を出ると思いきや、そのまま襖を閉めようとした。するとそれを押さえて、薄と柏、それにいつ現れたか菖蒲が口に指を立てながら忍び足で控えの間に入り、そっと襖を閉めた。椿は顔を顰めたが、薄は声は出さずに首を横に振って口の動きだけで『いいから』と制し、そのままそろりそろりと障子に寄った。
幸い、灯りは客間側にしかなく、控えの間は半ば闇となる。こちらの人影が障子に映ることはない。
薄に続いて椿と柏がそっと障子に寄ろうとすると、薄はそれを押し留めて『こうするのよ』と言わんばかりに人差し指をたっぷりと舐り、そっと障子紙に当てる。濡れた指に僅かに力を込めると音もなく指が通る。開いたその穴に薄はそっと目を寄せた。
それを見て、椿も柏も成程とばかりに真似をする。菖蒲も障子に寄ろうとしたが、クルティスも含め大人四人で障子の前は既に一杯だ。菖蒲が前へ潜り込もうと藻掻くのを柏が押さえ込んで静かにさせた。
全員が一様に気配を消して目を凝らし耳を澄ます。臍下丹田に気を集めここを先途とばかりに全神経を働かせる。
と、そう言えばまあ聞こえは良さそうだが、早い話が覗きである。障子は明日、松爺がぼやきながら張り替えるのだろう。
ユーキが部屋に入ると、菫も正座して手を突いて頭を下げていた。着替える暇も無かったのであろう、普段着のままである。何か月か振りに見る愛しい人のその姿を目にした途端に、ユーキが準備していた言葉が頭の中から綺麗さっぱり飛び去ってしまった。菫の前に自分も座ってはみたが、何と言って良いかわからない。
「菫さん、久し振りです」
思わず口を突いて出た、間の抜けた自分の言葉にユーキはがっかりした。
だが菫は気にも留めず、顔を伏せたままで返事をした。
「お久し振りにございます、殿下。この度はご領主と言う大役にご就任されるとのこと、誠におめでとうございます」
「はい、有難うございます。それで、そのことについて、お話があってきました。……顔を上げてもらえますか」
「……あい」
菫が少し躊躇った後にゆっくりと顔を上げた。その顔を見ると薄い化粧がかえって可憐さを際立たせているが、目が赤い。瞼もほのかに腫れている。今の今まで泣いていたのだ。
「菫さん、何かあったの?」
ユーキは驚いて尋ねたが、菫は言おうとしなかった。
「いえ、何でもありません。どうぞ、お話をお聞かせくださいませ」
きっぱりと答えた声の色と力が入って張った肩が、『それには答えとうございません』と告げている。
無理に聞き出すべきじゃない。そう覚ったユーキは、それ以上は触れずに「そう。じゃあ」と本題に入ることにした。
「詳しくは言えないんだけど、僕が任じられたピオニル領は、ちょっと問題があって。一応解決はしたんだけど、領民に安心して暮らしてもらえるようにするために、僕は暫くの間は現地にいなくちゃならなくて、滅多に王都に戻ってこられなくなる」
「あい。お役に専念されるは、お務めであれば当然至極と承知しております」
「うん。それに、僕は領主の仕事は未経験でよくわかっていないし、やらなければならないことも一杯あるだろうから、とても忙しいはずなんだ」
「それもまた、是非もなく」
一つ一つ丁寧に。ユーキは噛んで含めるように急な事情を話していく。しかし菫の返事は淡々としている。応じる言葉に感情を籠らせないように、気持ちを覚られまいとするかのように。
「だから、会えないのは勿論、手紙も滅多に書けなくなるかもしれないと思うんだ」
「あい。止むを得ないことと思います」
そう答えると、菫は床に手を突いて頭を下げた。潤む目を愛しい人から隠しても、雫がひとつ、ぽとりと音を立てて床で光る。
「今まで誠にありがとうございました。今日までの日々、大変に楽しうございました。殿下には感謝の想いしかございません」
礼の言葉と共に、もう堪えられずに涙がぽとぽと落ちていく。
「これからはこの日々を大切な思い出に、陰ながら殿下の御健勝と御活躍をお祈りさせていただきます。さよう……」
「待って! 待って! 違うんだ!」
ユーキは慌てて遮った。
「え?」
訝しげに顔を上げた菫に、急いで誤解を解こうとする。
「お別れを言いに来たんじゃない!」
「違うのですか? ……では?」
「手紙だとそうやって誤解されそうだから、直接伝えに来たんだ」
「そうなのですか」
「うん。涙を拭いて」
ユーキは菫に、アンジェラが用意してくれた菫色の手巾を渡した。それで涙を拭くと、菫が肩に込めていた力が漸く抜けた。安堵で声も柔らかくなる。
「お成りの声を聞いた姐様が、殿下は遠くのご領主になられるようだと。それをお聞きして、てっきり……」
「それで、泣いてくれていたの?」
「あい。お恥ずかしうございます」
「ううん。誤解させてごめんね」
「いえ、私こそ、早とちりをして申し訳ありません。では、わざわざそれをお伝えに来てくださったのですか?」
「うん。そうだけど、それだけじゃない」
「他にも?」
「うん。えーと、つまり……あ、そうだ。これ」
要領を得ないように尋ねる菫にどう言えばいいのか。言葉に詰まりながらも次の言葉を探すうちに、アンジェラに言われたことや、手の中のゲルトが作ってくれた花束を思い出した。
「これを」
心を決め直して、葵と菫の花束を差し出す。
「これを、私に?」
「うん」
「かかさんと私の花……とても綺麗……」
「それと一緒に、伝えたいことがあって」
「……」
受け取った菫の頬にさっきまでとは違う赤みが差し始める。もしかしてと、次の言葉を静かに待っている。
「君が好きだ。愛している。暫く会えなくても、手紙をやり取りできなくても、僕の気持ちは変わらない。いや、違う」
「……」
「初めて逢った時から再会する時までのように、再会してから今日までのように、君への想いはこれからも強くなる」
語るうちに聞くうちに、二人の頬は次第次第に紅くなる。
「君に手紙を書いたり君の手紙を読んだりすることで、確信したんだ。僕の一生の中で、この人が後にも先にも唯一の人だって。そして今日が絶対に逃がしてはいけない、唯一の機会だって」
「……」
「だから、今日、これを伝える」
「……」
「二年経てば君も成人の儀を迎えて大人になる。そうしたら……」
「……そうしたら?」
ユーキがからからになった喉をゴクリと鳴らすと、待ちかねる菫が先を促す。少し下がっていた視線を上げて目の前の紫色の瞳を見詰めながら、震える声で精一杯の言葉を繋げていく。
「僕は君を迎えに来る。君と共に生きるために。僕は君と幸せに、君と二人で力を合わせて幸せになりたい。これを伝えに来たんだ。どうか、お願いだ」
ユーキは言葉を一度切って深く息を吸い、声に力を込めた。
「僕の妃になってください」




