第百一話 行くべき所
承前
ユーキは自分の部屋に戻ろうと廊下を歩きながら、祖母と両親に尋ねられたことを考えていた。皆同じ様に『他に何かないか』って言ってたけど、何かあるはずなんだろうか。領主への任命で陛下のおっしゃったことは報告したし、監察はピオニル領についても子爵についても家族に報告するようなことじゃないし……やっぱり良く分からない。
きっと気のせいだろう。それより、先のことを考えなくては。
頭をピオニル領に行くための準備に切り換えてあれこれと考えながら自室に近付いて顔を上げると、扉の横でクルティスが壁に凭れて立って待っていた。ユーキが近付くと、もの言いたげににやりと笑う。
「クルティス、どうかした? その顔は何?」
ユーキはちょっとむっとして尋ねたが、クルティスは揶揄い顔を崩さなかった。
「ユーキ様、菫様には? 南部の領に行ってしまうと暫くは菫様と会うどころじゃなくなるし、手紙を書いている暇も無いかもしれないじゃないですか」
「あっ!」
「早く知らせた方が良いのでは?」
「……」
ユーキは言葉を失った。頭からサーッと音を立てんばかりに血が落ちていくのがわかる。今、鏡を見れば、顔が真っ青になっているのだろう。普段から政に関わっている時は菫さんのことは考えないように気を付けているのだが、今回は完全に頭から消えていた。拙い。
「どうしよう……手紙だ! ごめん、クルティス、届けに行ってくれ。すぐに書くから一緒にちょっと待っていてくれ、頼む!」
ユーキは自分の執務室に飛び込むと急いで机に向かい、便箋を取り出した。挨拶文もそこそこに、伝えるべき事を認めていく。
『ピオニル領の領主に任じられ、何年間か王都を離れます。難しい役のため、忙しくて手紙も書けないと思います。どうかお元気で、』
これじゃ、完全に別れの手紙じゃないか。駄目だ、書き直しだ。
『遠くから貴女を想っています』
違う、違う、これも駄目だ。
『これはお別れの手紙ではありません。本当です、信じてください』
いや、こんな馬鹿な文、送れるわけがない。愛想を尽かされて向こうから別れの手紙が来てしまう。
焦れば焦るほど考えが纏まらず、何を書いていいのかわからなくなり、文章もおかしくなっていく。
…………
「駄目だ駄目だ、どう書いても、別れの手紙に読めちゃう、どうすれば良いんだ!」
書いては便箋を両手で握り潰すことを繰り返す、その何度目かに思わず口に出して叫ぶと、自席の横で退屈そうに腹筋やら腕立て伏せやらをしながら待っていたクルティスが、「ぷっ」と笑った後にゆるゆると首を横に振って立ち上がった。
『あー、もう』と言う声が聞こえそうだ。二人切りだと本当に遠慮のない奴だ。
「ユーキ様、ちょっと待っててください」
そう言うとクルティスは部屋を出て行ってしまった。どういうつもりかと訝しんだが、ユーキはそれどころじゃなかったと我に返ってもう一度机に向かった。
…………
便箋を前にして只管藻掻き続けること暫し。それでも上手くいかず、やはり駄目だと思った時に、扉が軽やかに四度叩かれた。
誰だろう。「どうぞ」と声を掛けると、入って来たのはアンジェラだった。綺麗に畳まれた白い服を両手で捧げ持ち、取り澄ました顔でユーキに向かって真っ直ぐに向かってくる。その足取りが嬉しそうに弾んでいる。今にも三拍子で円舞曲を踊り出しそうなほどだ。
「殿下、お召し替えをお手伝いします」
「え? なぜ?」
尋ねたが、アンジェラは答えずに持ってきた真白い服をユーキの目の前に置いた。その手がそのままユーキが着ている上着に伸びてきて、釦を外して脱がせようとする。
「いや、自分で脱げるよ。……アンジェラ、持ってきたこれ、王子としての公務用の礼装だよね? 任命は明日なんだけど」
しかしアンジェラは手を止めようとしない。あっという間に釦を上から下まで外し終わると、ユーキの背後に回って上着を剥がしに掛かる。
「そんなのより、よっっっぽどの重大事が今からあるとお聞きしました。御安心ください、明日は明日の風の服です」
「いや、意味がわからないよ。長袴は自分で履き替えるよ。引き下ろさないでよ。それに、『そんなのより』って、明日は領主の任命だよ?」
「それはそれ、これはこれです。それとこれでは、これがあれです」
「意味がわからないってば」
「ほれ、脱げ、やれ、脱げ、全部脱げ」
「わかったよ。脱ぐから、引っ張らないでってば」
「はい、脱いだらさっさと履いて疾っ疾と袖をお通しになって、これをお持ちください」
「この手巾、紫色のなんて、あったっけ?」
「はい、こういう時もあろうかと、予め準備しておきました」
「こういう時って?」
アンジェラはユーキを無理やりに礼装に着替えさせ終わると、上から下まで、アラクネが巣網に捕らえた男を涎を垂らしながら品定めするような目で睨め付け回し、『うむうむ』と首を縦に何度も降って「良いでしょう、良いでしょう」と満足げに独り言ちた後にきっぱりと言い切った。
「大切な方を、幸せになさりに行く時です」
「大切な方って」
「花街に行こうというのに野暮なことを。皆まで申させられますな、殿下。それとも『坊ちゃま』に戻られますか?」
そういうことか。
ユーキはアンジェラの言わんとすることを覚った。クルティスの仕業だろう。
でも。
「……でも、認めてもらえるまで会わない約束なんだ」
「今が、お認めいただくべき時でしょう」
ユーキが言っても、間髪を容れず、有無を言わせぬ口調で応じる。
「……」
ユーキが口を閉ざすと、アンジェラは『やれやれ』と大きく首を横に振って「はあー」と声付きで派手に溜息を吐いてから言った。
「殿下、御領主は多くの領民を幸せにすることがお役目と存じます」
「そうだけど」
「ただ一人の一番大切な方を幸せになされずに、どうしてそれが果たせましょう。『人を幸せにする』、それが殿下の芯ではございませんでしたか? 今からこそが、殿下が真に試される、本当の試練の時とお覚悟なされませ」
「……わかった」
アンジェラが言いたいことを理解して答えた時、黒い正装を着たクーツが計ったかのように入ってきた。
「殿下、お馬車の準備が整いました」
「クーツ、馬車って、僕、何も言ってないけど」
クーツは答えず、彼もまたユーキの姿を上から下まで思う存分に確認する。
「『僕』ではなく『私』です、殿下。ですが今日に限っては、『僕』が優るかもしれませんな。うむ、良い男振りです。では参りますか」
そう言ってユーキの背中を扉の方へとずんずんと押す。横ではアンジェラが、どこから取り出したのか両手でヴィンティア国旗の小旗をぱたぱた振っている。
「殿下、行ってらっしゃいましー、御健闘をー」
見送るアンジェラの嬉しそうな声を背中で聞いてユーキは部屋を後にした。
さらに押されるままに玄関に向かうとそこにはヘレナが待っていた。彼女もやはりユーキの周りをぐるりと回って上から下まで舐めんばかりに見回した後に、ユーキの項に仄かに甘い香りの香水をそっと付けて、頭を下げる。
「坊ちゃま、いえ、殿下、行ってらっしゃいまし。神と四精の御恵により今日という佳き日に殿下に幸多からんことを心からお祈りいたします」
「あ、ありがとう」
再びクーツに「さあ、殿下」と促されて玄関を出ると、そこには顔が映るほどピカピカに磨き上げられた王家の紋章入りの馬車が停まっており、やはり正装に着替えたクルティスが扉を開いてピシッと直立して待っていた。
「クーツ、この馬車、母上が公務で使う、我が家の正式の馬車だよね?」
「はい。母君様、御前様にお願いして拝借しました。今日は殿下の一世一代の大切な日、シュトルツではなくこちらをお用いください。行先や用向きはお伝えしておりませんのでどうぞ御安心を」
御者台を見ると御者のエイネルが良い顔でこちらを向いて右手の親指を立てて見せた。馬車の前では四頭の輓き馬までが丹念に梳き上げられた鬣を陽の光に輝かせ、『待たせるな、ほら、早く行こうぜ』とばかりに盛んに前掻きをしている。
「中に置いてある葵と菫の花束は?」
「庭師のゲルトが、この日のために以前から庭の片隅で丹精込めて育てていたものです。お気付きになりませんでしたか?」
「気付いていたけど。こっそり喜んでいたけど、偶然だと思ってた。いや、そういうことを聞いているんじゃなく」
「殿下、疾くお乗りください。では、花園楼に参りましょう」
答えるまでもないとクーツに馬車に押し込まれ、クルティスが続いて乗ってさっさと扉を閉める。クーツは御者のエイネルの横に跳び上がり、エイネルが待ち兼ねている馬に合図を出すと馬車は勢いよく動き出した。
少しして、ユーキは馬車の中で向かいに座っているクルティスに言った。
「クルティス、皆にバラしてたろ」
「はい、殿下。勿論です」
「いつから?」
「この前に花園楼に行かれた日に、です。『親に知られても構わない』とおっしゃってましたし」
「じゃあ、母上、父上にも?」
「いいえ。ですが、親父が報告しているかと。マルガレータ様にも伝わっていると思います」
「……そうなんだ。だからお祖母様も、母上も、『他に報告は』とか言っていたんだ」
「いけませんでしたか?」
「いや。でも、皆に知られていたと思うと物凄く恥ずかしい」
「まあ、いいじゃないですか。お仕えしている者は全員がお味方とわかったでしょう?」
「ああ」
「では、殿下、頑張ってください」
「……クルティス」
「はい?」
「有難う」
「はい。皆に伝えておきます」
「うん。頼む」




