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遠い世界

作者: 梅田浩志



   1

 その時の事を、まだ幼かったマイケルはあまりよく覚えていない。

 夜中、焦げ臭い匂いに目覚めると、窓から差し込む月の光が、部屋に立ち込める白い煙を照らしていた。電気スタンドのスイッチを捻るが、電気は付かない。

 煙は閉じられたドアの隙間から、どんどん沸き上がって来る。

「マ、ママ…」

マイケルは煙を吸って咳き込んだ。意識が遠くなる。

 乱暴にドアが開かれた。

「パパなの?」

 がっちりした銀色の服の男が、マイケルの体を抱き上げる。

 マイケルに、その後の記憶は殆どない。

 ただ、担架に乗せられ救急車に乗る寸前、開いた薄目の間から、大きなオレンジの炎が空を焦がすのが、見えただけだ。

    *

 マイケルを助けたのは、父ではなく、消防隊の人達だった。

 病院で父は火事で死んだのだと聞かされた。

 足に包帯を巻き、車椅子に乗ったまま、マイケルは父の葬儀に参列した。

 祈りの言葉の後、棺が墓に収まるのを見たが、あの中に父が入っていたのだと言う実感は、今でも、どうも上手く持つ事ができない。

      *

 火事の後、マイケルと母は街の中心にある、小さな低所得者用のアパートに引っ越した。 兄と三人で暮らしていたが、兄は学校の後の清掃員のアルバイト。母は夜の工場勤務の仕事に付いていたため、夕方の暗い部屋には、大抵、マイケル一人だけが残された。

 友達もなく、大抵はTVを眺めて過ごした。

 ある日、兄とTVのチャンネル争いをしていると、疲れたように帰って来た暗い顔の母が、仕事を失ったのだと言った。

 マイケルが、母に連れられて地下鉄に揺られ、郊外の駅に下り立ったのは、その翌週の雨の日の事だった。


    2

 地下鉄を降りてからの長い道程、母は無言のままマイケルの手を強く引いた。

「ママ、時間に遅れそうなの?」

 早足に進む母に、マイケルは聞いたが、母は険しい顔を崩さず、更に強く手を引く。

 今日は母の友達の家へ行くのだと言われ、マイケルは連れてこられたのだ。

 雨上がりの道路には、大きな水溜まりが幾つもあり、虹色に光る油の薄い膜が張っている。立ち並ぶ煙突からは黒い煙が吐き出され、重い鉄の固まりがぶつかるような音が、何処からか聞こえてくる。

 時々、大きなトラックがガタガタと揺れながら、二人の脇を通り過ぎる。

 母は古ぼけた赤レンガの建物の前で止まり、取り出したメモで番地を確認した。

「ここが、お友達の家なの?」

「いい? いい子にしているのよ」

 扉を叩くと、中からは中年のシスターが現れた。彼女は母に挨拶をした後、眼鏡のフレームを持ち上げるように、マイケルを見下ろした。

「こんにちは、お名前は?」

「マイケル…。です」

「それじゃ、お二人ともこちらに来て下さい」

 シスターはマイケル達に背を向けると、暗くて狭い廊下を進み始めた。マイケルは不安になって、母の温かい手をしっかりと握り締めた。

 廊下の突き当たりに、木で出来た椅子があり、マイケルはそこに座るように命じられる。

「それでは、お母さんには、お話がありますから…」

 母とシスターは隣のドアの向こうに消えた。

 切れかけた蛍光灯が、周期的に点滅を繰り返している。廊下の隅にはステンドグラスがある。何の模様なのかマイケルが見ていると、突然外で稲光が走り、遅れて雷鳴が轟いた。

「マイケル!」

 雷の音と、同時に聞こえたシスターの声に驚いて、マイケルは振り向く。

 ドアの前にはシスターと母が立っていて、母は悲しそうに目を真っ赤にしていた。

「ママ、どうしたの?」

母は屈むと、急にマイケルを抱き締め、顔に何度もキスをした。「ねえ、どうしたの…、どうしたの?」

 やがて母は立上がり、シスターに促されるようにマイケルに背を向け、廊下を進んだ。

 再び雷鳴がとどろく。母の後を追おうとしたマイケルの手を、後ろに立った別のシスターが強く掴んだ。

「ママ…、ママ…」

 マイケルの声をかき消すように、激しい雨が降り始め、ステンドグラスを強く叩いた。

     *

「ママはどうしたの?ここが友達の家なの?」

「さあ、来なさい」

 シスターが手を引く。

「嫌だ。僕はママと家に帰るんだ」

「黙りなさい」シスターはそう叫んで、平手でマイケルの頬を打った。

 マイケルは遊戯室と書かれた部屋に放り出される。そこには沢山の子供達がいた。

 どうやって仲間に入っていいのか分からず、仕方なく、部屋の隅にあった積み木で遊んでいると、ぶ厚い眼鏡を掛けた少年が、マイケルの前に座った。

「やあ、新入りかい?」

「いや、僕はここでママを待ってるんだ」

 彼はゆっくりと首を振る。

「ママは来ないよ、きっと。残念だけど…」

「どうして?」

 マイケルの目に涙が溜まる。

「泣くなよ。仕方のない事はあるんだよ。それよりここのルールに合わせて生活する事だ」

「僕の名前はマイケル。僕と友達になってくれるかい?」

「僕はテッドだ。ここでは友達なんてできないんだよ、残念だけど…」

「どうして?」

「そのうち君にも分かるよ」

 突然、マイケルは背中を蹴られた。

「何をするんだ!」

 振り向くと、大きな体の年上らしい少年が、取り巻きを連れてマイケルを囲んでいた。

テッドは黙って俯いている。

「ここで、一番強い男は誰だ?」

「知らないよ」

 彼は再びマイケルを蹴る。取り巻きが笑う。「なら覚えときな。ここで一番強いのは、アルベルト様。つまりおれだよ」

「知った事じゃないね。僕はママを待っているんだ」

 マイケルがそう言うと、アルベルトはマイケルを殴り始めた。唇が切れて血が滲む。

「何するんだよ…」

 マイケルも体当たりを試みる。

「いったい何の騒ぎです!」

 騒ぎを聞いてシスターが部屋に飛び込んで来る。そして、揉み合う二人を引き離すと、二人の顔を交互に平手で打った。

「お互いに謝りなさい」

「すまねえな…」

 アルベルトは不敵な笑みを浮かべながら、手を出す。マイケルはそれを払った。

「あなたも謝りなさい」

「僕は何も謝る事なんかしてない。彼が先に僕を蹴ったんだ…」

 再びマイケルの頬が打たれた。

「あなたがこんな風にしてここの暮らしを始めるなら、とても面倒な事になるわよ…」

 シスターの背中に立ったアルベルトが、馬鹿にする様なふざけた顔を作った。「とりあえず、あなたの今日の夕食は抜きにします」

 シスターが去ると、テッドがやって来た。

「いいかい。ママは来るかも知れない、来ないかもしれない…。それは別としてここのルールは守るべきだ」

「ルール?」

「けっして難しい事じゃない。施設にとって、面倒な子供になってはいけないと言う事だ」

    *

 マイケルはみんなと一緒に食堂に連れて行かれたが、食べる事は許されず。テーブルの前に立つように命じられた。

 夜、ベットに入っても、マイケルはとてもおなかが空いていて、とても、眠れそうになかった。

 みんなが寝静まったのを見計らって、二段ベッドの梯子を静かに降りる。

 部屋の扉を小さく開き、廊下に出た。

 食堂に行けば、何か食べるものがあるはずだと思った。

「何をしているの?」

 マイケルは突然背後から呼び止められた。

 見回り中だったのか、まだ若いシスターが、マイケルの顔を覗き込み、近付いて来る。

「おなかがすいたんです」

 シスターはマイケルの前で身を屈め頬に手を伸ばした。マイケルはまた殴られると思って、首をすくめる。

「私はフランシスと言うの。どうしておなかがすいてるの?」

 マイケルが、アルベルトと喧嘩になって、夕食を抜かれた事を話すと、シスターフランシスが「ちょっと待っててね」と言って食堂の鍵を開け、ビスケットの小さな箱を持って来てくれた。

「ありがとう、シスター」

 マイケルは両手にビスケットを掴み、口一杯に頬ばった。

    *

 翌日は晴れたので、みんな庭に出て遊ぶように言われる。アルベルト達は広場で鬼ごっこをしていたが、マイケルは砂場で山を作っていた。

「ハーイ」

 気が付くと、マイケルの前に少女が立っていた。

「私の名前はウエンディ。あなたは?」

「マイケル」

「あんまり見ない顔ね。最近来たの?」

「うん、昨日来たばっかりなんだ」

 マイケルが言うと、ウエンデイはマイケルの手を引いて、マイケルを立たせた。

「私が面白い遊びを教えて上げる。こっちに来て…」

 ウエンディはトランポリンの上に乗って飛び始めた。「あなたも飛んで…」

 マイケルとウエンディは、遊びの時間の間中、笑いながら、トランポリンを飛び続けた。「ねえ、僕と友達になってくれる?」

 シスターに呼ばれて施設の建物に戻る時、マイケルはウエンディに聞いた。

「ええ、もちろん」

 ウエンディは言う。

     *

「君は、ここでは友達は出来ないと言った。それは、間違いだよ」

 夕食の時、マイケルはテッドに言った。

 テッドは、マイケルを疑い深く眺めた後、「まあ、そのうち分かるさ」と返した。

 翌日、ウエンディとマイケルが遊んでいると、シスターがウエンディの名を呼んだ。

「ちょっと、行ってくる…」

 ウエンディはマイケルに言って、シスターの所に走った。

 翌日から、ウエンディの姿はどこにも見えなくなった。

     *

「ウエンディはどこにいったの?」

「さあね。どこか、遠くさ。目の悪い僕は、長くここにいるが、まともな奴等はみんなすぐに行ってしまうんだよ。だから友達なんか出来ないって言ったんだ…」

 テッドは吐き捨てる様に言った。

     *

「マイケル、マイケル!」

 シスターがマイケルを呼んだ。

「どうやら、君の番だな」

 テッドが呟いて、マイケルの肩を叩いた。

「はい、シスター」

 マイケルは広場の隅から、走ったが、彼女には不満のようだった。

「呼ばれたら、すぐ返事をなさい。面会です」

「ママなの?」

 彼女はそれには答えずに、マイケルの手を強引に引っ張った。

「マイケル。ゴードン御夫妻です。あなたを連れて行ってくださるのです」

「どうして…」

「あなたの事を気に入って下さったのですよ」

「でも…、だって…」

 マイケルが口ごもっていると、シスターは見えないように、マイケルの手を抓った。

「あいさつなさい」

「こ、こんにちわ」

 夫妻は口々に、挨拶を返す。いかにも面倒臭いと言う感じだ。

 ミセス・ゴードンは、マイケルを上から下まで見た上、「つかいもんになるかねえ」と夫に言った。

    *

「さあ、用意をなさい」

 シスターはマイケルを部屋に連れて行って、身辺の荷物をまとめさせた。荷物を作ると、玄関の方へ強引に引っ張られる。

「まっ、待って…。テッドに挨拶しないと…」

「私が伝えます」

 施設の前に車が止まっていた。マイケルはその中へ押し込まれる。

     *

「坊主、勘違いするなよ。おまえを引き取ると政府から補助金が出るんだ。おまえの事なんか、これっぽっちも好きじゃない。覚えときな…」車を運転するミスター・ゴードンが、助手席のマイケルに言った。

 マイケルは景色を見ようと、水滴で曇ったガラスを指で拭く。

「汚い手で触るんじゃないよ!」ミセス・ゴードンがマイケルの手を払った。

 家につくと、彼等の息子がいた。

「やあ、僕はマイケル、君は…」

 彼が答えようとすると、両親が遮った。

「この子はジョニー。身分をわきまえな。マイケル。これからはジョニーおぼっちゃん。とお呼びするんだ」

「さあ、二階の窓を拭いてもらおう」

 家に着くと、重いバケツを持たされ、追い立てられる様に二階へ向かった。「いいかい、みっちり拭きな、手を抜いたら承知しないからね」

 仕事が終わると、食卓に夕食が用意してあった。量も少なく、すっかり冷めている。

「食い終わったら、自分で皿を洗っときな。明日は五時起きだよ、とっとと寝な」

    *

 翌朝、庭の草むしりの後、朝食の手伝いをさせられた。

「芋の皮を剥きな」

「はっはい…、でも…」

「はい、奥様って言うんだよ」

 ミセスはマイケルの手を叩いた。

「やった事がないんです」

「施設で何を習ったんだい。やっぱり使いものにならないのかね。こんな子は…」


「母さん。おなかがすいたよ」

「マイケルがチンタラしてんだよ」

「マイケル、何をしているんだ!」

 ミスター・ゴードンが怒鳴る。

 その後も、マイケルは、掃除や洗濯にこき使われた。

『こんな所、もう嫌だ』

 夕方、昼寝をしているミセス・ゴードンの目を盗んで、マイケルは、家を出た。

「何をしてるんだ?」

 夜の公園で座っていると、マイケルは警官に呼び止められた。

 結局、翌日には、施設に戻された。

     *

 シスターはマイケルの尻を物差しで打った。

「あんたみたいな子が、貰ってもらえるなんて、珍しい事なんだよ。どうしてくれるの」

 また夕食にはありつけず、ベットに潜った。

 翌朝、マイケルは庭で、テッドに言った。

「こんな所、真っ平だ。家に帰りたいよ…」

「みんな、そうだよ。一度は思うもんだ」

「とにかく外に出たいんだ。もうあんなのは御免だよ」

 マイケルが泣き出したのを見て、テッドは仕方なく言う。

「おまえが出たいなら、方法を教えてやってもいい。きっと後悔するだろうけどな…」

    *

 マイケルは施設の金網に手を掛ける。

 少し離れた場所にいるテッドが、辺りを見回し、目撃者がいないのを確認して「行け」と合図を送った。

 マイケルは金網によじ登り、向こう側に降りると、シスター達に見付からないように、急いで駆けた。


    3

 逃げ出したものの、マイケルは家まで、どうやって帰ったらいいのか分からなかった。 途方に暮れたマイケルが、バス亭のベンチに座っていると、序々に人が集まり始めた。 やがて、銀色の市バスがやって来る。

 マイケルも人々に続いて、バスに乗り込む。

 大人達はバスに乗り込む前に、運転席の横にある料金箱に、小銭を入れている。

 マイケルはポケットを探ったが、もちろん一セントのお金も無かった。

 黒人の太った運転手は、優しく笑って、運転席の真後ろの席に座るようにと、手でマイケルに指示した。

 鼻歌交じりの運転手は、大きな体を揺すりながら、ハンドルを回す。

 停留所に止まる度、ドアから人がどんどん吐き出されて行った。

 郊外の停留所で最後の一人を降ろした後、バスに残ったのはマイケルと運転手だけになった。

「坊や」

 気の良さそうな運転手は、後ろに座ったマイケルに話掛けた。「ここが、終点なんだよ。このバスはこの後、車庫に行くだけさ。坊やはどこに行きたいんだい?」

「ママと兄のいる所…」

「そいつは何処だい?」

「ネルソンストリート1693」

「ダウンタウンか、悪いがこのバスはそこには行かないんだ」

 信号でバスが止まると、運転手は振り向いて、マイケルを見た。「他に行きたい所はあるかい?」

「本当は、おうちに帰りたい…」

「家?」

「火事で焼けちゃって、もうないんだけど…」

「そいつはどこにあったんだい?」

「ジャクソンビル」

「ジャクソンビル? そいつはよくある地名だな。どこのジャクソンビルなんだい」

「ペンシルバニア州…」

「ハハハ、ペンシルバニアか…、随分遠いな」

「おうちがあったんだよ。火事で、お父さんは死んじゃったし、お母さんはお兄いちゃんと、ネルソンストリートに住んでいるんだ」

 運転手は指でハンドルを叩いた。

「おれに選択肢は二つある。ジャクソンビルに行くか、警察に行って君を預けるか…」

「警察? また施設にかえされちゃうの?」

「嫌かい? それじゃ、ジャクソンビルに行くとしよう」

 運転手は腹の肉を捻るようにして、マイケルに右手を差し出した。「おれの名前は、ニックだ」

「僕の名前は…」

「マイケルだろ」

「どうして僕の名前を知ってるの?」

「ハッハッハ…」

 ニックは笑うだけで答えない。

「………」

「おれも施設にいたんだよ。両親に捨てられてね。貧しい上に子沢山だった者だから、歓迎されて生まれた子供じゃ無かったんだね。おやじは飲んだくれで、母がやっと稼いだ金もみんな持っていきやがった」

「大変だったんだね」

「ああ、大変だったさ。君と同じようにね。とてもさみしかったし辛かった。死のうかとも思ったんだが、その時、神様がおれにいい仕事を下さってね…」

「神様のお陰で、バスの運転手に?」

「ハッハッハッ…」

 ニックは再び大きな声で笑った。「まあ、おれと君は仲間さ。兄弟のようなものだ」

 マイケルは窓の外の風景を眺める。外は既に日も暮れかけ、太陽が紫の余韻を残して、今日の役目を終えようとしていた。

「本当におうちに行くの?」

「もちろん、警察でも施設でもないさ」

 気が付くと、バスの外の景色は全く見えなくなっていた。バスは全く揺れず、雲の中でも走っているみたいだ。

 ニックは鼻歌を歌う。マイケルは心地良く、柔らかな眠りに落ちていった。

   *

「マイケル。さあ、着いたよ」

 バスは止まり、マイケルは揺り起こされた。ニックが、指でバスを降りる様に促す。

 ドアの向こうは凄い霧で、視界が殆どない。

 マイケルがバスを降りると、ニックはブオン。とクラクションを鳴らして、走り去った。 バス亭を見る。

 ちゃんと『ジャクソンビル』と書いてある。

 霧の向こうに黄色い明りが一つだけ見えた。

 マイケルは明かりに向かって歩き出した。

 だんだん明かりがはっきりと見えて来る。

 なんと、それはジャクソンビルのマイケルの家だったのだ。火事で焼けたはずなのに、家の姿は全く昔のままだ。

 窓から中を覗く。父がソファーに座ってTVを見ている。

「パパは、死んだはずなのに…」

 マイケルは家の窓を力一杯に叩いたが、父はそれに気付く様子もなく、小型コンピュータを持って、居間を出た。

 やがて、二階の書斎の明かりがともる。

 マイケルは家の横の木を使って、二階の屋根に登った。

「パパ、パパッ、僕だよ」

 窓を叩くが、やはり父は気付かない。

 隣の部屋の明かりがついた。見ると、母に連れられたもう一人のマイケルが、部屋に入って来てベットに潜り込んだ。

「おやすみ、マイケル…」

 母はそう言って、マイケルにキスして、スタンドを消した。

「おい、おおい。僕はここだよ。おおい」

 叫んだがママももう一人のマイケルも、屋根の上のマイケルに気がつかない様子だ。

 屋根から降りて、ドアのノブを捻ったり、インターホンのボタンを押したりしたが、中の家族はそれに何の反応もしなかった。

 やがて、家から白い煙が上がった。

「火事だ。大変だ。火事だ!」

 キッチンの方からオレンジの炎が上がり、兄が叫びながら家を飛び出す。

「何ってこったい。どうなってるんだ…」

 近所の人達が、家の周りに集まる。

 すぐに消防車がやって来た。

 素早い作業でホースを消火栓に繋ぎ、家に向けて水を掛け始める。数人の消防服の男達が、裏口を突き破って中に入る。

 やがて、ぐったりとした母を、そして、続いてマイケルを、家の中から救出した。

 懸命に放水を続けるが、それ以上の勢いで火は燃え盛り、家はやがて圧倒的な炎と、黒煙に包まれた。

     *

 その焼け落ちかけた家の中から、父がのんびりと歩きながら現れた。燃える家や、周囲の人達を不思議そうに見ている。

「マイケル。おまえも死んだのかい?」

 父は家の前にいたマイケルを見付けて言う。「いいや、僕はまだ死んでいないんだ。もう一人のマイケルはまだ生きている」

 父は不思議そうな顔をして少し考えていたが、やがて首を振った。

「分からん事だらけだ。とにかく、おれは死んだらしい、クソッ。なんて事だ…」

 その時、道路の向こうで、ブオン。とクラクションが鳴った。

 道路の先にニックのバスが止まっている。

「さあ、乗りな、二人とも…」

 扉を開けて、運転席のニックが手招きしながら叫ぶ。

 父とマイケルは、バスに乗り込んだ。

「お気の毒だが、気を落とさん事です。こう言う事は、誰の人生にも一度はやって来る…」

 ニックは父に言って、ハンドルを回してバスを発進させた。バスは再び霧の中を走る。

「これが、神様がくれた仕事?」

「ハッハッハッ。そう、こう言うことだよ」

 ニックは笑ってマイケルに言った。

「私には、妻もいるし、幼い子供もいる。もし、このバスがあの世に行くなら…」

 父が言うと、ニックは真剣な顔になった。

「悪いが、下ろしてやる事は出来ないんだ。あきらめてくれ…」

「……………」

 父はうなだれて首を振った。「マイケルはいい子だ。きっと将来は立派になるね。おれはね。あの世とこの世の送迎をしているんだ。もちろん神様とも時々会う。おれが神様に頼んでやるよ。マイケルが幸せになれるようにと」ニックは父を慰める。

「頼む。私が遠くに行っても、子供達を見守ってやってくれ」

 父が手を差し出すと、ニックもその手を握り返した。

「分かった。約束しよう」

     *

 バスは、マイケルが最初に乗った、あの孤児院の前の停留所に止まった。

「さあ、降りるんだ。マイケル」

 ニックが言う。マイケルが立ち上がると、父はマイケルの体を抱き締めた。

「マイケル。残念だ。私はみんなの事を愛していたんだ。家族みんなに伝えてくれ。私はいつでも、みんなの幸福を願っていると…」

 父は、静かに涙を流した。マイケルはゆっくりとバスを降りる。

「困った事があったら、また呼びなよ」

 父とニックを乗せて、バスは走って行った。

 マイケルが停留所のベンチに座っていると、やがて、本物のバスのヘッドライトが現れた。

 シスターフランシスが降りて来る。

「あら、マイケル。ここで何をしているの?」

「あの、今、パパと…」

 マイケルの表情を見て、シスターは何かを感じ取ったようだった。

「お話はゆっくり聞きたいわ。まず施設に帰りましょう」

「…………」

「大丈夫、怒られないようにしてあげるから、約束するわ」

 マイケルも頷き、シスターとマイケルは施設に帰った。

     *

 マイケルはシスターに、今日起こった出来事を全て話した。荒唐無稽な話しだったが、シスターは全く疑おうとはしなかった。

 シスターは、マイケルを施設の中の小さなチャペルに連れていった。

 十字架に掛けられた白い像がある。シスターは目を閉じ、難しい祈りの言葉を呟いた。

「マイケルも、お礼を言って」

 シスターに促されたマイケルは、「ありがとう神様」と言った。

 心なしか、その人物が俯いたまま少し笑った様にマイケルには見えた。

    *

「よう、やっぱり帰って来たか、どこかで捕まったんだろ。この国で子供が一人で生きるのは、どだい無理なんだ」

 翌日、施設の庭でテッドが言った。

 マイケルは施設を出てからの事を全部テッドに話した。しかし、テッドは渋い顔のまま、疑い深くマイケルを見ている。

「僕はそんな非科学的な事なんて、悪いけど、信じないよ。神様がくれる幸福なんて、信じちゃいないんだ。僕だって何度祈ったか、一度だって神様が答えてくれたことなんか…」

 テッドはそう言って泣きだした。きっとテッドは、自分よりずっと長い間、辛い目に会っていたのだろうと、マイケルは思った。

     *

 二か月後、突然、母親がマイケルを迎えに来た。マイケルと面会した母は、再婚するから、また一緒に暮らせるのだ、と興奮した様子で話した。

「今度のパパはどんな人なの?」

「それがね。驚く程、前のパパと似ている人よ。本当に何から何まで…」

 その日、新しい父と面会すると言う事で、マイケルに外出許可が出た。

 マイケルが施設のドアを出て振り返ると、施設の窓から、シスター・フランシスとテッドが並んで手を振っているのが見えた。

 マイケルも、大きく手を振り返す。

    *

「ねえ、その人って、お金持ちなの?」

 バス亭で、バスを待っている間、マイケルは母に聞いた。

「何を言うの? 子供のくせに…」

 そう言いながらも、母は笑っている。

 笑っていると言う事は、きっと貧乏ではないのだろうと、マイケルは思った。

 マイケルは、テッドを兄弟にして一緒に暮らしたいと考えていたのだ。

(断るような人なら、ママとの再婚を認めてやらないからな!)

 マイケルはそう心に決めたていた。


 やがて、銀色のバスがやって来た。

 バスは、ブオン。と大きなクラクションを鳴らす。

 ドアが開く。運転手のニックが、悪戯っぽい表情でマイケルにウインクをした。   

アメリカンなテイストです。

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