沈む
大学時代の友人、佐久間から久々に連絡が来たのは、盆明けの湿った夜だった。
「お前、あの頃、"水没した村"の話、信じてただろ? 連れてってやるよ」
彼が言っているのは、学生の頃よく話していた都市伝説の一つだった。
山奥のダム湖の底に、昔、村が沈んだ。祭りの夜に大雨が降り、避難もままならず、そのまま丸ごと水に飲まれたという。
死者の数は正確に記録されておらず、今でも雨の日にその湖畔を通ると、沈んだ村の灯りが見えるのだとか。
私は迷った末に了承した。あの頃、半ば冗談で語っていた幻想が、年を重ねて色褪せていくのが、少し寂しかったのだ。
*
集合場所は、長野の山中にあるダム湖のほとりだった。
夜の湖は静まりかえり、街灯もない。対岸には木々が黒い塊になって重なり、風もなく、まるで水面に蓋をしたような空気が漂っていた。
佐久間は車のトランクから古びたウェットスーツとダイビング用のマスクを取り出した。
冗談かと思っていたら、本気らしい。
「なあ、まさか本当に、潜るのか?」
「おう。この時期は水量が少ない。底の方に、家の残骸が見えることもあるらしい」
その言葉に、ぞわりと背筋が冷えた。
*
湖に入ると、思ったよりも水は冷たくなかった。ただし、視界はひどく悪い。
濁った水の中で懐中電灯を点けても、数メートル先は何も見えない。
やがて、湖底に黒い影が浮かび上がった。
家だった。
瓦のような破片、沈んだ木材、苔むした石垣。確かに、かつてここに「誰かの暮らし」があった痕跡が、水の底に眠っていた。
私は無意識に息を呑み、そのまま仰向けになって水面を見上げた。
空が、知らない景色だった。
昼でも夜でもない、妙に青みがかった空。雲が逆さに流れていく。
――違う、これは"水面に映る空"じゃない。こっちが、本当の空だ。
背筋に氷が這った。急いで浮上しようとするが、体が思うように動かない。
上昇しているのか下降しているのか、それすら分からない。
「……か……?」
かすかに、誰かの声が聞こえた。
遠く、鈴の音のように細く、澄んだ声が。
「……わたしのこと、覚えてる……?」
音の方へ首を向けると、水中に灯りが浮かんでいた。
橙色の提灯。屋台の看板。子供の浴衣。
そう、それは、沈んだ村の夏祭りの夜景だった。
その光の中に、人々がいた。笑って、手を振って、こちらを見ている。
その中に――自分がいた。
もう一人の自分が、微笑んで、湖の底に立っていた。
*
目を覚ますと、湖畔にいた。
佐久間がいなかった。
荷物も、車も、ウェットスーツも、すべて消えていた。
私は警察に通報したが、ダム湖での事故として扱われた。
「彼が一人で潜って、そのまま……」ということになっていた。
だが、それから数日後。
私は毎晩、同じ夢を見るようになった。
夢の中で私は、知らない村の夏祭りにいる。
顔見知りではないはずの人々が、まるで家族のように私に接してくる。
浴衣姿の子供が手を引き、笑顔で言う。
「おかえりなさい。もう、帰ってこられたね」
目が覚めると、口の中に水の味が残っている。
濁ったような、ぬるい水。どこかで嗅いだ、あの匂い。
そして今夜もまた、私は夢の中で、あの村へと足を運ぶ。
少しずつ、その時間が長くなる。言葉も、風景も、なぜか懐かしく感じられてくる。
私は、このまま戻れなくなるのではないかと、うっすらと思い始めている。
でも、それが――恐ろしくないのだ。
きっと、もう何度も、そこにいたから。