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土竜・オブ・ザ・シティ  作者: 九木圭人
転移、そして転職
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転移、そして転職2

 そして加えて、ここで母親の登場だ。

「男の子は理系じゃないと」口癖のようにそう言っていたが、ボール蹴ることしかしていない息子がそんなすぐ高校数学など理解できるはずもない。

 有難かったのは、学校は通知表という形で明確な数字を出してくれる=お宅の息子はとてもじゃないけど理数系の大学入れるような頭はしていないよと教えてくれるという点で、二年生の終わり位になるとテストの度に炸裂していた癇癪が鳴りを潜めた。


 そして代わりに出てきたのが両親合作の「大学には行っておけ」だ。

 大学に行って何するかなど何も言わない。ただ二人とも学歴では苦労したからとばかり繰り返して、俺を、俺でも入れるようなレベルの大学にねじ込んだ。

 ――大学出なくても息子を大学に入れるぐらいの金があるのかよという点は気になったが、この頃になるともう何を言う気にもならなかった。

 必要なのはこの二人の要求を可及的速やかに実行する事だけだ。それが上手くいかなければどうなるのかなど、サッカークラブの帰り道とテストの返却日の度に味わってきた。


 俺は大学に行った。何を勉強したのかは分からない。

 大学に唯一いい所があったとすれば、そこにいる間は俺の人生にとって貴重品だった自由を味わえたという事だろうか。

 夢にまで見た贅沢品。しかし悲しいかな、手に入れたそれをどう使うのか、迷っているうちに満喫できる時間は終わってしまった。


 三年生の夏ごろになると、今度は「やっぱりスーツを着られる仕事がいい」と始まった。

 どちらが言い出したのかは分からないし、興味もない。

 そうだ。興味などない。

 あの二人のどちらがそう言ったかなど、そして――どんな仕事をするかも、どんな人生を送るのかも。

 死ぬのが怖くて生きているだけ――その頃には俺は、その事実に何となく気付いていた。

 何がきっかけだったのかは分からない。でもなんとなく、三年生が終わる頃には、それが自分自身であると気付いていた。


 死ぬのは怖い。病死でも自殺でも、なんでも。

 俺が生きている理由なんてそれだけだ。何か夢がある訳でもない。好きなものがある訳でもない。友達も恋人もいない。死ぬのが怖くて、それを避けるから消去法的に生きているのだ。


 当然、仕事なんてなんでも良かった。いや、仕事だけではない。これまでの人生全て、なんでも良かったのだ。

 命令にさえ従っていればいい。命令通りサッカーをやって、命令通り勉強をして、そしてそのどちらも命令者を満足させるような結果は出せなかった。

 だから次は命令をこなさなければならない――就職活動中の俺を動かしていたものなど、そんなものでしかなくて、そして幸運なのか、そんな状態でも無名の中小企業の営業職に滑り込めた。


 大学を卒業して社会人一年目の夏。父親が死んだ。

 まるで命令に満足したように、病気であっさりと死んだ。

 そしてそれからまた一年後、こちらも自分の望んだ形=スーツを着てサラリーマンとして働いている息子を見て安心したように、母親が後を追った。それが半年前の事。


 俺が仕事を辞めたのは、その四十九日が済んですぐだった。

 上司は形の上だけ引き留めた。

 いや、ちょっとは気持ちが入っていたのかもしれない――ここで部下を失うと評価に響くとかそんな感じで。


 会社の事は別に好きではなかった。仕事についても同じだ。だから当然、成果など出せる訳もなかった。

 加えて、入社した年の末に当時の社長が退いて会長に就任し、経営をそのお坊ちゃまに一任するようになった後は致命的だった。


 俺ははっきりと、このお坊ちゃまが嫌いだった。

 自信に満ち溢れていて、いつもハキハキしていて、思ったことは口に出して、沈黙は肯定と同義という理屈を、意識してか無意識にか当たり前のように使う。

 誰かを翻弄する側とされる側なら、間違いなく前者に属する、いつだって口を開くことを認められてきた人間特有の居心地の悪さをプンプンと充満させている男。

 自分とは正反対の存在=誰かの都合や感情が自分の意思に優先することが当たり前だった人間の存在など、ツチノコか何かと同類に考えていそうな男。

 俺の人生の、慣れたはずの痛みを凝縮したようなこの男と毎日顔を合わせない事など、従業員が30人程度のこの会社では無理な相談だった。


「アメリカのエグゼクティブは――」

 これがアメリカ帰りらしいこのお坊ちゃま社長の口癖だった。そんな話をアメリカのエグゼクティブとやらの半分の給料も貰っていないだろう俺たちにされても困るのだが、彼のキラキラしたビジョンにそういう人間は不要だった。

 同じく彼を嫌っていた新卒時の上司はすぐさま別の部署に飛ばされ、変わってやってきたのは経営者一族が白と言えばカラスもポストも白い絶対の忠誠を誓った男。どういう経歴かは忘れたが「俺は会長に拾っていただいた恩義がある」とか何とか酒の席で語っていた男。

 命令者は最早存在せず、会社に愛着もなく、仕事だって好きでも得意でもない上に未だに営業なんて慣れないしうだつが上がらない。


 全てがどうでもよくなったのは、よく分からない自己研鑽だか何かで自主的な出勤時間の繰り上げを要求され、なんだかわからない横文字の理屈を並べ立てられた挙句、お坊ちゃまがお気に入りの社員たちに社内公用語を英語にするだとか何とか漏らしていたと知った時だった。

 だが、それ自体がトリガーだったわけではないというのは、なんとなく覚えている。本当はそれらに比べればもっとどうでもいい、大したことではない話だったような気がする――もう忘れてしまったが、忘れてしまっているぐらいだから多分そうなのだろう。


 俺は会社を辞めた。その後どうするかなんて考えていなかった。ただ、もう全てがどうでもよかった。

 だが、最後の出社を終えて会社を後にした時のことは今でも覚えている。

 テレビでサッカーの日本代表が金だか銀だかのメダルをとったとか言っていた。

 電車の中のニュースでは何とかいう大学で何とかいう病気の進行を抑える画期的な新薬が作られたか何だとか言っていた。

 同じ電車の中の広告では、何とか言う大企業の経営者だかの書いたビジネス書に学びがあっただ何だと美辞麗句を並び立てていた。


「……ふっ」

 全部、全部、全部。

 俺に関係のない話。

 俺の行かれなかった世界の話。俺に出来なかった話。

 その日から俺は、この居場所のない世界で金と時間を浪費し続けている。

 俺のこれまでしてきた唯一の事に腕を振るう機会はもう二度とこない。即ち、両親の期待と言う名の命令に服従することは。


 そしてそれ以外に何も出来ない人間は、多分この世界にいる必要がない。

 俺には特異な才能がない。理数系も分からない。英語やコンピューターも詳しくない。夢がある訳でも勉強が好きな訳でもない。仕事だって得意じゃないし、そもそもそんなに勤勉でもない。

 誰からも――自分自身からも――必要とされないし、生きている必要もない、しかし同時に死ぬ勇気もない、ただそれだけの人間。


 こうして中古の軽自動車に乗って夜中にドライブしているのだって、決して好きだからではない。

 何となく、そうしていると気がまぎれるように思えただけだ。このクソみたいな己から。


(つづく)

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― 新着の感想 ―
うーん 僻んで僻んで 他責思考なだけだなこりゃ
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