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神野先輩が歩いて来る。私に向かって。
もう、逃げない。目を逸らさない。
足が後ろを向かないように、顔が下を向かないように、全身に力を入れて耐えた。
そうしていると、神野先輩の姿がボヤけてきた。動かないように気を張ったら、涙が出て来てしまったみたいだ。
神野先輩が私の目の前で立ち止まる。
「鈴原ちゃ・・・」
「あの、神野先輩!私っ」
先輩の声を遮って喋り出した。声が少し大きかったみたい。周囲を歩いていた生徒達が振り返ってこちらを見る。でも、そんなの気にしていられない。
先に言わなきゃ。神野先輩の言葉を聞いて何かを考える前に伝えないと、また言えなくなってしまうから。
「私、神野先輩の事が好きです!」
言った。ずっと伝えられなかった事を言えた。
周囲から「おおー」という声や「キャー」という悲鳴みたいな声が聞こえて来る。
ヒナとユリちゃんに嘘を吐いた。神野先輩に上履きをぶつけた。追いかけ回して、挙句神野先輩の善意を振り切って逃げた・・・。
涙がぼろぼろとこぼれ落ちて来た。色んな感情が心臓の周りでグルグル回って暴れているみたいだ。
申し訳ない、恥ずかしい、怖い、逃げたい、逃げない、伝える、目を見る、見ていたい。
そして・・・好き。
神野先輩の事が好きな事を、もっとしっかり伝えたい。
「聞いてください。私、上履きぶつけた時、違うって言った時に、その時に・・・」
そこまで言った時に、神野先輩の左手が私の肩に乗った。反対側の手でズボンのポケットからハンカチを取り出して私の涙を拭いてくれる。柔軟剤の良い匂いがした。
「ダウニー・・・」
思わず口からこぼれた。神野先輩はプッと吹き出す。
「鈴原ちゃん、ありがとね。好きって言ってくれて。俺も鈴原ちゃんの事が好きみたいだ」
頭の中が白くなる。心臓の周りで暴れていた感情が一瞬静かになって、そして間髪置かずにバクバクと更に激しく動き出した。
何て言ったの?今、神野先輩は私に向かって何て言ったの?『好き』って言ってなかった?え?何で?待って、分からない。何でなの?本当?私の事が『好き』なの?
混乱している私の感情を気に留める事なく、神野先輩の手が私の頭に回る。次の瞬間、ポニーテールにして束ねていた髪がパラパラ落ちて来て顔を覆った。
「泣いてる顔、他の奴に見られたくないから。ゴメンね、ちょっと我慢して」
神野先輩の大きな手が、私の手を優しく持ち上げる。ハンカチを持たせてくれて、自分で自分の顔を隠すように涙の位置に運んでくれた。
「俺と、付き合ってくれる?」
両肩に手を置いて、そして深く屈んで私の顔を覗き込んで聞いてきた。
背が高い。屈まないと私と目が合わないくらいに。
最初に見た時は、この高い身長が怖いと思った。でも今ではとても素敵に見える。
神野先輩の顔が近い。涙が引いていく。
「はい」
私は頷いた。
神野先輩は、顔をくしゃくしゃにした笑顔になる。
瞬きをした。瞬間視界が真っ暗になる。途端にダウニーと、神野先輩の良い匂いに包まれる。
私は神野先輩に抱き締められていた。
「ありがと。ウレシ」
耳元で先輩の声。
周囲からは歓声と拍手の音が聞こえて来た。道ゆく生徒達が祝福してくれている。
私の頭はショート寸前。全身が細かく震えて、立っているだけでやっとだった。
神野先輩は一度私を離すと、ウエストを引き寄せて支えてくれた。そして倉庫脇を振り返る。そこにはさっきの先輩と、いつの間にかやって来た児島先輩がいた。軽く手を挙げ挨拶してから、反対側の校門に向かって歩き出す。
「軽く初デートね」
高い位置から私に向かって、ううん、私だけに降ってくる声。
「は、はい!」
返す声が裏返ってしまった。
「俺の事、友也って呼んで」
「と、友也・・・先輩」
名前、呼ぶだけで胸が破裂しそうです・・・。
「先輩は要らないかな」
呼び捨ては無理です。
「じゃ、じゃあ、友也、さん?」
私がそう言うと、神野先輩は顔を背けて肩を震わせた。
笑われた?
「イイネ、下の名前でさん付けは初めてだ。鈴原ちゃんだけそう呼んで」
戻った顔は優しい笑顔。
「下の名前、何?」
「あ、由香です。鈴原由香」
「これから宜しくね、由香」
呼び捨てに、されちゃった・・・。
私は頷いた。嬉しくて顔が緩む。明日は1番にヒナとユリちゃんにお礼を言わなくては。
そう考えていると、友也さんが周囲を見回した。何かな?と思っていると、急に曲がり道を回り込む。ウエストから引っ張られて体勢を崩した私を抱えるようにすると、突然だった。
唇に柔らかい感触。私は唇を奪われていた。
体から力が抜ける。友也さんのシャンプーの匂いとかダウニーの匂いとかでも情報量オーバーなのに。初めてのキス。付き合い初めてまだ何分かしか経ってないのに。
動けなくなっている私をゆっくり離すと、おでことおでこを付けて目を覗き込まれた。
「俺、キス魔だから覚悟してね」
至近距離からの甘い声。
「は、はい・・・」
もう、駄目かも。
私は下を向いて両手で顔を覆った。
「友也、あのさ」
俺は昇降口から出て来た1年女子を見ていた。その子の視線はずっと友也を追っている。
「ん?」
友也は聞きながら俺の視線を追った。そして、その子を見て動きを止める。
「あの子、お前の事見てるよ」
「・・・え?」
「気付いたの今日だけど、朝からずっと。休み時間全部使って」
「・・・俺なの?」
疑問形は俺に向かってなのか、その子に向かってなのか。
「行ってくる」
「おう」
友也と話す1年女子。恋する瞳は綺麗だ。涙が溢れる。それでも逸らさない目。
良いね。
「あれ?友也ナニ?告られてるの?」
コジが来て、横に座りながら言う。
「どっちからどっちに、なのかは不明」
俺は2人の方を、正確には1年女子の涙に濡れた目を見たまま答える。
「え?友也からなの?」
コジがそう言った時、友也が1年女子の髪を解き、おまけに自分の体で守るようにして俺らの視界から彼女の顔を隠した。
「あー・・・」
俺とコジは隠された事にブーイング。
友也は1年女子を抱擁。okだったみたいだ。めでたい。
そして友也はこちらを振り返ると、彼女を小脇に抱えながら何故かコジに向かってドヤ顔を見せた。
そのまま手を挙げて校門に消えていく。もう帰って来ないだろうな。
「何あの顔。俺に喧嘩売ってる?あいつ」
納得行かない顔のコジ。
「お前が空気読めないからじゃね?」
「えー」
コジがブーブー言ってる。いつものように。
日差しが強い。
夏が近づいてる。