探している香り
その依頼は少々変わっていた。
「匂い……か」
「ええ。祖母が時折まとっていた香りなんです。覚えているのは香りだけ、というか見えないからそれしか辿れないんですけどね」
お茶目に笑いながら言う依頼主に千草はふむ、と言うと腕を組んで黙りこくった。
常連の朱里は生まれつき目が見えない。
その分、聴覚、嗅覚、触覚は人より秀でていた。
特に嗅覚は優れているようで、今浅葱が朱里の前に置いた珈琲の匂いを嗅いだだけで、どの豆のブレンドか当てる。
「正解です。さすが朱里さん」
ニコリと笑うと朱里は珈琲に口をつける。美味しそうな表情をした彼女に浅葱も嬉しそうに微笑むと、話の続けた。
「それにしても、思い出の香り……ですか。千草さん、記憶だけで辿れるものなのですか?」
「いや、正直厳しいものがある。匂いほど、曖昧なものはないからの」
「ですよね〜。もしかしたら、と思っただけなので気にしないでください」
言葉通り、ケロリとした口調で言う朱里。けど、その言葉は半分本音で半分は嘘だ。
浅葱にも感じ取れる気配だ。千草にはもっと強い思いが伝わっているだろう。
「約束はできん。が、記憶に留めておこう」
そう言い、目で浅葱に合図を送ると千草はいつものようにカウンター内の椅子に座り本を開く。
浅葱は思わず苦笑する。ジロリと浅葱を睨みつけるが千草は何も言わず本を読むふりをする。
「朱里さんの思い出の匂い、もっと詳しく教えてくれますか?でも、期待はせずにいて下さいね」
浅葱のわざと困ったような口調に朱里は吹き出した。
「ええ、覚えている範囲でね」
朱里は記憶を辿るように、ポツリポツリと語りだした。
「しかし、全くわからんな」
朝ごはんの席で千草が呟く。
「まさか、一晩中考えていたんですか!?まだ本調子じゃないのに」
心配で声を荒げる浅葱を鬱陶しそうにしながらも、言い訳じみた返事をする。
「きちんと静養は取っておる」
「ですが……」
「お主こそ、きちんと休め。仮にもその体に強い呪いを受けたのだから」
そう言われると浅葱も口を噤むしかない。
浅葱こそまだ本調子でなく、無理をしていると自覚しているからだ。
特に昨日のように若葉が休みの時は、次の日体に堪える。
それでも、千草が店に立つのであれば自分も隣にいたい。そのエゴに気づいている筈の千草は、心配そうな顔をするが何も言わなかった。
そのことをいいことに、浅葱は自らの不調を押して店に出ていた。
「爽やかな香り……というだけでは中々難しい」
夏のような爽やかな香り。それが朱里が口にしていた表現だ。
人によっては好き嫌いが分かれるような癖があるそうだ。
「稲とか麦ではない、と言っていましたからね」
「100年前からあった香りだ。……浅葱、お主は何かわからぬか?」
もうだいぶ前に亡くなっているという朱里の祖母は生きていたら浅葱と同じ年代だ。
千草は、朱里の求めている香りを見つける鍵になるのは浅葱だと考えていた。
浅葱はしばらく考えていたが、ため息をつくと首を左右に振る。
「さすがにわからないです。……この100年で日本はガラリと変わりましたから。農村も減りましたし」
「確かにな。町に漂う匂いは大分変わったからの」
頷いて肯定の意を表した浅葱に千草はポツリと呟く。
「……探してやりたいの。目の見えぬ朱里にとって香りは、他の人間の何倍も思い入れが深いものだからの」
依頼されたわけでもないのに朱里のことを気にかける。お狐様の優しさに触れ、浅葱も柔らかい笑みを浮かべる。
「そうですね。僕も考えてみます」
「これも違うか」
千草のガッカリした気配を感じたのか、朱里は申し訳なさそうな表情をする。
今日は恋人の玄樹も一緒だ。玄樹もまたこの店の常連だった。
「初めて見ましたよ、千草さんのそんな顔」
玄樹の言葉に慌てる朱里。そんな二人のやり取りに笑いを噛み殺した浅葱の声がかかる。
「朱里さん、玄樹さん、気にしないで。この表情はいじけているだけですから」
「浅葱!」
余計なことを言うなとばかりに千草の叱責が飛んでくる。が、浅葱は気にも止めず話を続ける。
「千草さん、今回は自信があったんです。でも違ったから拗ねている。……ですよね?」
にっこりと微笑む浅葱に千草は呆気にとられる。
次の瞬間、千草は笑いだした。
「妖狐にそんな口のきき方する者なぞ、浅葱以外おらぬ」
ひとしきり笑った後、朱里にむけて千草は気にするな、と伝えた。
「浅葱の言うとおりじゃ。朱里が気にすることない。……中々お主のいう香りが見つからんで拗ねとっただけじゃ」
「安心しました。……でも千草さんも忙しいでしょうし。
今まで見つからなかったんですから、出会えなくても仕方ないって思っているんです。なのであまり気にしないでくださいね」
朱里の言葉に軽い口調で千草は答える。
「なんの。考える時間も楽しんでおる。
……それに100年程前の香りを探すのは、吾にとって浅葱と過ごしてきた日々を思い出すことにもなる。記憶に思いを馳せる時間の過ごし方は、意外と悪くないものだ」
――ガシャーン。
「す、すみません」
浅葱が手を滑らせ、カップを割る。
驚いた三人は浅葱の方を見るが、浅葱は誰とも目を合わせないままカップの欠片を拾う。
床にしゃがんだ浅葱の顔は真っ赤だったが、幸いにも千草には気づかれなかったようだ。
「気をつけよ。だが、珍しいな。疲れているなら家で休め」
普段と同じ千草の声に、安心しつつも先程のセリフで動揺しているのは自分だけだと思うとやりきれない。
「大丈夫……。いえ、やっぱり少し休みます」
黙って頷いた千草に顔を見られないように素早く片付けると、浅葱は朱里と玄樹に一礼して奥へと引っ込んだ。
「千草さん、罪なことしますね」
ピンと来ていない様子の千草は首を捻り尋ねる。
「なんのことだ?」
どこか責めるような目で千草を見ていた二人だったが、返答を聞くと顔を見合わせ盛大なため息をついた。
「浅葱さんも大変だ」
玄樹の返事にますます千草は混乱するのだった。
部屋に戻った浅葱はまだ顔を赤くしたままベッドに横になる。
千草は何も思っていない。
わかっているが、共に過ごしてきた100年が千草の中で振り返るに値する時間だということに、こみ上げるものがあった。
「……100年、か」
千草がいくつか知らない。だから彼女にとってどれ程の重みがあった時間なのかはわからない。
だが、元人間の浅葱としてはとても長い時間だ。
目を閉じると、あの時の千草の声が鮮明に思い出される。
『吾は……お主の命を長引かせることが出来る。が、人とアヤカシの間で生きることになる。
どちらの世界でも半端者だ。辛いだろう。
……だが、それでも共に来るか?』
どのように自分が答えたのかも覚えている。
『行きます。お狐様と共に……この命を』
今、同じ問いをされても返事は変わらないだろう。
100年前、この返事をした浅葱に痛々しい目を向けた千草。
今、同じ回答をしたら、どんな表情を彼女は見せてくれるのだろうか……。
※
――これは朱里の記憶だ。
そう気づいたのは、目の前が何も見えなかったからだ。
「朱里」
自分の名前を呼んだ声の方に手を伸ばすと、ギュッと抱きしめられた。
「おばあちゃん!」
朱里は抱きしめながら祖母の香りを確かめる。
太陽をいっぱいに浴びたお布団に包まれているような匂いに混じって漂う、独特の香り。
これは祖母の匂いだ。
嬉しくなって、朱里は思いっきり鼻で息を吸い込んだ。
※
コンコン、と部屋をノックされる音で目が覚めた。
浅葱が返事をする前にドアを開けた千草はホッとした表情をする。
「起きておったか。大分疲れとるようだったの。丸2日寝ておったぞ」
「え?そんなに?」
千草の言葉に驚いた様子で答えた浅葱に軽く頷く。
「朱里と玄樹が様子を見に来ておる。動けるようなら顔を出すが良い」
「わかりました」
その答えを聞いて部屋を出ていこうとする千草を呼び止める。
「朱里さんの記憶……を見ました」
眉をあげた千草は無言で続きを促す。
「朱里さんが言っていたお祖母さんの匂いも嗅ぎました。僕も昔、嗅いだことあります。……何かは思い出せないのですか」
千草は無言のまま、そっと浅葱の額に手を当てる。
「夢見……か。さて、どうしたものか」
「何かまずいことでも?」
いや、と言ったきり黙りこくる千草の顔が近い。
息をするのも憚れるくらいの沈黙が部屋を支配する。
憂いを帯びた千草の顔に、不謹慎ながら浅葱の心臓は逆に鼓動を早める。
千草に聞こえてしまう、と思えば思うほど、ますます鼓動は早まり同時に顔が熱で火照る。
ただ固まったまま、千草のなすがままにされる浅葱。
そっと額から手が離れると同時に千草も身を遠ざける。
「感受性が高いのも考えものだの。……先だっての呪詛を祓う際に力加減を少々間違えたようだ。
……力が強まっておる」
「それだけ、ですか?なら……」
そこまで影響がない、と続けようとした浅葱は言葉を飲み込んだ。
榛色の目に浮かんでいたのは、哀しさだった。
千草は何も言わないまま立ち上がると、フッとその場から消えた。
店に顔を出すと、いたのは若葉と朱里、玄樹の三人だけだった。
「あれ、千草さんは?」
若葉の問いかけに浅葱も緩く首を振る。
「出かけたみたいです」
いつものようにカウンターに向かう。が、何かいつもと違う。
不思議そうに周りを見渡す浅葱に不審げな表情を向ける若葉に尋ねる。
「何か模様替えした?」
「?いえ、何も」
「大掃除……とかもしていないよね?」
「ええ、普通に普段通りの掃除だけですけど」
心配そうな顔で浅葱を見る若葉。
浅葱の目には2日前と違う店のように見えていた。
店内が、二重にみえていたのだ。
今まで見えていた店の上に薄いベールが張られていた。
窓の外に目を向ける。窓の外も二重に視える。
膜がはっている外側を歩いている男性が店内に入ろうとして、ドアに手を触れる。
と、次の瞬間呆けた顔を見せると、フラフラと店の入口から離れる。
再び歩き出した時には、男性の目にはこの喫茶店は映っていなかった。
ハッとした瞬間、酩酊にも似た感覚が体を巡る。倒れそうになる体をいつの間にか後ろに現れた千草が指一本で支える。
「吾郎」
真名を呼ばれた瞬間に、全身に流れる千草の気に意識が持っていかれる。
「落ち着け。深呼吸をし、目を閉じよ」
浅葱にしか聴こえない大きさだが、凛とした声に誘導されるように目を閉じた。
「額の目もだ。半分開いておる」
開いていることに気づかなかった。
いつも第三の目を開いた時に感じている違和感が全くなかったからだ。
すべての目を閉じ、数回深呼吸する。
落ち着いた、と思った時には千草の指は背中から離れていた。
ゆっくり目を開けると、店は普段どおりの風景を見せていた。
さっさとカウンターの中に入った千草が手づから珈琲を入れる。
用意したサイフォンの数を見ると、どうやら今店にいる5人全員に入れるつもりなのだろう。
目で浅葱と若葉にもカウンターに座るように促す千草に甘えて、二人は朱里と玄樹を両サイドから挟む位置に腰掛けた。
珈琲を飲みながら朱里と玄樹は浅葱の元気そうな様子に安心したようだ。
「すみません、心配かけて」
恥ずかしそうに答える浅葱に朱里は朗らかに答える。
「今度は浅葱さんの珈琲飲みたいな」
笑って次は自分が淹れると約束をすると、浅葱は話題を変える。
「お祖母さんの匂い、わかったんですか?」
首を振る朱里に浅葱は何と答えたら良いかわからなかった。
何とも言えない雰囲気が漂う。
そんな空気を変えたのは玄樹の言葉だった。
「そういえば朱里、おばあちゃんのことで思い出したことあったんじゃない?」
そうだ、と呟くと浅葱のいるであろう方向に顔を向ける。
――何かお祖母さんのことで思い出したことがあれば教えて欲しい。
そう伝えていた浅葱に答えるように朱里は口を開いた。
「おばあちゃん、おちょこを大切にしていたの。おじいちゃんに大昔貰ったって」
「おちょこ?」
浅葱は顎に手を当てて考える。
額の第三の目が開いたことで千草が微妙に眉を顰めているが、朱里の話に集中していた浅葱は目が開いたことも千草の気配にも気づかなかった。
「触ったこと……あっ」
浅葱が朱里に問いかける途中である映像が流れ込んできた。
※
おちょこだ。
おちょこを手に取り、水を含ませた筆でそっとなぞる。
おちょこの縁についている玉虫色の何かは、水に反応するように色を変え……。
『おばあちゃん!』
幼子がこちらを見ている。視線は合わない。見えていないからだ。
『朱里』
そう呼びかけたその声は、年老いた女性のものだった。
――バチッ
無理矢理額の目を閉じられた感覚に、ハッと目が醒めた感覚で浅葱は現実に戻ってくる。
「浅葱さん、大丈夫ですか?」
若葉が一番離れた席から声をかける。
まだ夢と現実の間にいる浅葱がポツリと呟く。
「玉虫色の……なんだったかな。……そうだ、紅だ」
浅葱に小言を言うために構えていた千草だったが、その一言で表情が変わる。
「玉虫色の紅……。小町紅か!ということは……」
「ええ」
二人の会話に若葉と玄樹はただ呆然とするだけだ。
突然黙りこくったと思うと、急に突飛なことを話しだした浅葱についていけない若葉と玄樹をよそに、千草と浅葱は二人で話を続ける。
「どうしたの?」
目の見えない朱里は、突然始まった不思議な会話に首を捻る。
浅葱が朱里の方に顔を向け、弾んだ声で伝えた。
「朱里さんの探している匂い、わかりました」
※
「やっぱり紅花だったか」
電気をつけず、窓に腰掛けて月の光と夜風に当たっている千草。その声からは感情を読み取ることはできない。
浅葱はいつものことだと特段気にせず、言葉を続けた。
「ええ、玄樹さんから先程連絡がありました」
山形に旅行に行っている二人は無事目的の匂いにたどり着けたようだ。
良かった、と嬉しそうに微笑む浅葱に目を合わせず、千草はいつになく真剣な声で問う。
「あの時、お主は誰の記憶を見ていた?」
ピリッとした空気。
この空気を一度だけ体感したことがある。千草と共に生きるか、決断を迫られた時以来だ。
懐かしさを感じつつ、一呼吸置いた浅葱は普段と変わらぬ口調で答えた。
「朱里さんのお祖母さんです」
千草は自分の顔が強張ったのがわかった。
朱里の願いの解く鍵になるのは浅葱とは思っていた。
だが、千草が望んでいたこととはかけ離れていた。
「浅葱」
押し殺すような低い声。浅葱の目は見れなかった。
「はい」
浅葱は返事をする。いつも通りの口調で。
変わらぬ口調で千草の言葉を待っている浅葱に、何を言えばいいのかわからなくなった。
――気遣い。
口を噤ませているのは、狐には本来持ち合わせていないもの。
千草は自分が何故言えないか気づかないが、浅葱は千草の気遣いを読み取る。
それは千草の心が読めるほど、浅葱の力が強くなっていた証拠でもあった。
「千草さんの望むままに」
浅葱の方を振り向いた千草に、彼はいつものように穏やかな笑みを浮かべていた。
「元々はあなたに生かされている命です。どうしても駄目なら千草さんの手で始末してください。
ですが……」
千草の榛色の目が浅葱を見つめる。
月明かりに照らされたその目は、いつもより神秘的に見えた。
――禁忌。
千草と浅葱を隔てる大きな谷。
浅葱はその谷を今日超えた。
「千草さん、妖狐と人間が共に暮らせる道を探しませんか?僕はあなたとこの先も共に生きたい」
浅葱の願いに榛色の瞳は迷うように揺れた。
二人を静寂が包み込む。
それは嫌な沈黙ではなかった。むしろ会話をするよりも濃密にお互いの気持ちが通じ合う。
逃げたのは千草の方だった。
「もう遅い。……はよ床につけ」
千草はそれだけ伝えると、妖狐の姿となりその場から掻き消えた。
残されたのは、千草の香り。
浅葱はしばらくその場から動けなかった。
――Fox Tail――
そこは、半端者の元人間と、追放された妖狐が住む楽園。
傷を舐め合うように寄り添っていた二人の間にあった隔たり。
見ないようにしていた、あちらとこちらを分ける谷。
かつて人間だったものは、その谷を越えて、アヤカシ側に行くことを決めた。
アヤカシ側にいるお狐様は
まだ……。




