恋する気持ち
最近、お狐様はよく店に顔を出すようになった。
15時を過ぎると必ず店に降りてきて、誰かを探すようにクルリと店内を見渡した。
まだ待ち人は来ていないことがわかると、カウンター内の定位置に座り、手に持った書物を読み出す。
浅葱以外の人間には見えないことが分かったのか、店に降りるときは隠すようにしていた狐耳は今日も丸見えだ。
本に集中するように目を伏せているが、耳は遠くの足音を聞いているのか、時折ピクリと反応する。
そんな千草の反応に笑いを堪えながら、浅葱は声をかける。
「若葉さんは今日は部活で遅くなるようですよ」
「……別にあやつを待っとらん」
若葉は千草の気まぐれで、最近バイトで雇った人間の若い女のことだ。
17歳の高校生の若葉は、まだ数ヶ月だが飲み込みが早く浅葱も重宝していた。
※
信夫のことがあってから千草はますます人間に興味を持ったようだ。
あまり店に出てこなかったのが嘘のように、毎日のように顔を出すようになった。
喫茶店で利益を出そうと思っていないため、ほぼ浅葱に丸投げ状態だったのが嘘のように千草は自らカウンターに立ち、珈琲を入れる。
千草の珈琲は絶品だ。浅葱が真似しきれない味を求めて、以前よりも客は増えた。
千草がいるだけで、店にはよい気が流れる。
そしてまた、店の雰囲気がよい客を引き寄せるようになった。
ちょうどレトロ喫茶が雑誌で取り上げられ若い女性に人気が出ていたのも功を奏した。
オーソドックスな昔ながらの喫茶店だったFox Tailも一気に若い女性が増えた。
千草の意向で昔から禁煙だった店は、いつしか近隣の女子高生が学校帰りに気軽に立ち寄るようになっていた。
「人でも雇うかの」
客が増えたことにより千草と浅葱と式神だけで店を回すことが難しくなっていた。
「え?僕、まだ出来ます。頑張りますから」
二人だけの空間を崩されたくない浅葱は必死で食い下がるが、千草は一笑する。
「そういう問題ではない。もう少し深く人間に関わってみたくなったのだ」
決めたあとの千草の行動は早かった。
式神にアルバイト募集の張り紙を作らせ、店の入口に貼る。
初めての試みのため、実際のところはわからないが、応募してきた人数はそこそこいた。
だが、千草は中々雇わなかった。
2ヶ月程募集をしていた。浅葱も忙しさでヘトヘトになっていた頃、応募してきた若葉に千草は待っていたとばかりにその日のうちに雇うことを決めた。
「なぜ彼女だったのですか?」
若葉が帰った後、浅葱はそっと千草に訪ねてみた。
いたずらな笑みを浮かべた千草は答えた。
「そのうちわかる」
返事は返ってこないだろうという予想通りの回答に、浅葱はそっとため息をつくのだった。
※
「遅くなりました!」
元気よく駆け込んできた若葉は、裏手で着替えるとすぐに接客に回る。
キビキビと働く若葉は客にも人気だ。まだ半年足らずだが、式神に働かせるよりも何倍も役に立つ。
夕方からの珈琲は浅葱が作ることが多い。今日も千草の横でカウンターに立ち、珈琲を入れている浅葱に小声で話しかける。
「もっと早く雇っとけばよかったの。浅葱も楽ができとろう?」
「……まぁ、そうですね」
躊躇ったのは若葉のせいではない。実際彼女は良くやってくれている。仕事も楽になった。
だが……。
(千草さんと二人で仕事をしていたかったな)
二人で細々としてきた店は浅葱にとって何よりも守るべきものだった。
若葉が悪いわけではない。わかっているが、どうしても異分子として捉えてしまう。
そんな自分にモヤモヤしていたのだろうか。
今日の珈琲はイマイチぱっとしない味だった。
今日はそれ程忙しくないこともあり、奥の席で若葉が賄いを食べているのに千草も付き合っていた。
人間に興味を持っている千草はこうして時々若葉の食事に付き合う振りをして色々尋ねている。
特に最近興味を持っているのは恋愛のようだ。
「ほう、最近の若者はこんな小さな機械で連絡を取るのか」
「千草さん、スマホ持っていないんですか?信じられない!私、スマホないと生きていけないです」
若葉の携帯で共に見ながら色々教わっている千草を見ていると、微笑ましくてたまらない。
浅葱の元に聞こえてくる声は断片的だが、時折笑い声が上がる。
声を上げているのは主に若葉だが、千草も嫌な顔は見せていない。
平和な時間。千草のいつもと違う表情。だけど、浅葱の胸の奥は少しだけチリチリと痛むのだった。
「すみません、僕もう少し店にいます」
閉店後の片付けも終わり若葉も帰った後、浅葱は千草にそう告げた。
若葉に借りたのだろう、少女漫画を両手に抱えながら何もかも見透かすような目で千草は頷いた。
「今夜は満月だ。お主の気持ちに正直に。吾に縛られることはないぞ」
「え?」
キョトンとしている浅葱に振り向くことなく、千草は部屋に戻っていった。
千草の言葉の意味をしばらく考えていた浅葱だが、考えたところで答えは見つからない。いつものように時間が経てばわかるだろう。
ため息を一つついた浅葱は、洗ってあったサイフォンを一つ手に取り珈琲を入れ始めた。
コポコポと静かな店内にサイフォンの音だけが響く。小さな音は営業時間中には中々聞き取れない。
ゆったりとした時間の流れの中、ただひたむきに珈琲と向き合う。
抽出が終わった珈琲をカップに移して口に含むと、浅葱は笑みを浮かべて頷いた。
――カラン
突然、入口の扉が開いて驚きながらそちらを見ると帰ったはずの若葉が立っていた。
「あ、ごめんなさい……スマホ忘れちゃって。驚かせてしまいました」
「いえ、大丈夫ですよ」
浅葱は若葉に微笑みながら店内に促す。
若葉もホッとした顔で店の奥に行って忘れ物を取る。
「よかった、ありました。……浅葱さん、珈琲入れていたんですか?」
「ええ。今日の味に納得できなくて練習していました」
「浅葱さんの珈琲いつでも美味しいから練習しなくてもいいのに」
笑みをたたえながら浅葱は緩く首を振る。
「全然ですよ。心に引っかかることがあれば乱れる。僕もまだまだ修練が足りない」
ふうん、と呟いた若葉はカウンター席に座る。
「浅葱さん、珈琲残っていますか?私も頂いていい?」
「いいですけど、寝れなくなりませんか?」
「大丈夫です!……多分」
元気よく答えた後、不安そうに付け加えられた言葉に思わず笑い声を上げた浅葱は、戸棚の中から赤い珈琲豆の缶と新しいサイフォンを取り出した。
缶を見ただけで浅葱の気遣いが伝わる。赤い色はノンカフェインの珈琲豆が入っている。
新しい豆で若葉のためだけにサイフォンに火をかけた。
先程と同じようにコポコポと静かな音が店内に広がる。
元々自ら喋る方ではない浅葱。いつもは元気で明るい若葉も今は静かだ。
二人の間に静寂が広がる。
黙って浅葱の手付きを見ていた若葉は、そっと口を開く。
「……好きです」
下手したら聞こえないくらいの小声で、それでもたった一言を大切な宝物のように言葉にした若葉に一瞬ハッとした表情を浮かべるが、浅葱は何も言わなかった。
若葉は浅葱の気持ちを知っているからだ。
黙々と珈琲を入れて、珈琲カップに注ぐ。
選んだのは信夫の作ったカップだった。
信夫の作った珈琲カップは持つとしっくりと手に馴染む。
信夫の優しさに触れているようで、浅葱はゆっくり過ごしてほしい客に珈琲を出すときはこのカップに注いでいた。
もちろん若葉もこのカップを浅葱が使うのはどんな時か知っている。
そんな優しいところがたまらなく好きだった。
「ありがとうございます」
珈琲カップを置いた浅葱に礼を言うと、両手で包み込むようにカップを持ち上げた。
浅葱の珈琲は彼の性格を表しているかのように、優しい味がした。
浅葱は何も言わなかった。ただ若葉とカウンター越しに向かい合って珈琲を飲む。
若葉の声は聞こえていたのはずだ。なのに何も発しない。
店内に響くのは二人の息遣いと、時折カップをソーサーに置いた時に聞こえる小さな音だけだ。
今店には千草はいない。彼女がいる時は少しだけピリッとする空気を中和する浅葱の優しいオーラ。
そのバランスがある意味店を繁盛させていた。
今は浅葱だけが作り出す空間だ。
彼が生み出す、ただただ優しいだけの場所。
胸が痛いほど、切なくなるほど深い優しさ。
その優しさの中には、彼が千草を想うひたむきな気持ちも含まれていた。
浅葱にとっても叶わない恋。
分かっているのに、好きにならずにいられない。
何も言わない浅葱。
だけど、言葉よりも雄弁に彼の気持ちを物語っていた。
若葉の目から涙がこぼれ落ちた。
報われない恋とはわかっていた。それでも惹かれた。
本気で好きだった。だけど浅葱には全然届かない。
端から彼は千草以外見ていないからだ。
「若葉さん、ありがとうございます。僕を好きになってくれて」
ようやく口を開いた浅葱は、それ以上は言わなかった。
ただ普段どおりに微笑みながら、普段どおりに答える。
それは、彼が客の女の子に告白された時と同じ返事だった。
(浅葱さんにとっては私もお客さんの女の子と一緒なんだ)
千草以外は彼の目に止まることはない。
わかっていたつもりだった。だけど、目の前で同じように返事されると涙は止まらなかった。
浅葱は何かを考えるように顎に手を当てていたが、覚悟を決めたように息を吐いた。
「若葉さん」
浅葱は呼びかけると若葉の額にそっと触れた。
――パチッ
目の前がスパークするように一瞬光ったと思うと若葉の脳裏に映像が流れ込んできた。
走馬灯のように次々と流れ込んでくる映像。
その中心はいつも千草だった。
周りの風景は目まぐるしく変わる。
武士が歩き長屋が立ち並ぶ町の風景から始まり、自動車や蒸気機関車が走るようになる。
風景は変われど千草は変わらない。
町が焼け野原になっても、町中に活力が漲りビルが立ち並ぶようになっても千草は変わらず美しいままだ。
そして、千草を見続けているこの人物の気持ちも変わらない。
この人物を通じて見る千草は、常に彼女が中心だった。
彼女のことをただひたむきに想い、彼女のために生きる。
千草も月日が経つに連れ、この人物に心を許すようになったのだろう。
最初よりも柔らかい笑みを向けるようになっている。
だがそこには彼が欲しい感情は、ない。
切ないほど一途に千草に向ける想い。長い長い年月を過ごしても報われない恋。
心を許してくれる度に、さらなる愛おしさだけが募っていく……。
――これは浅葱の記憶だ。なんて切なく、深く千草を愛すのか――
再びパチッという音がして、若葉は現実に帰ってきた。
カウンター越しに見る浅葱の顔は、いつものように笑みを浮かべているのに、どこか違って見えた。
「ごめんね、いきなり見せて。……でも君にはきちんと伝えたかったから」
浅葱なりに若葉を理解していた。他の言い寄ってくる女性達とは違い、若葉は強く浅葱を想ってくれていた。
その気持ちに応えるべく、浅葱なりに考えた誠意だった。
「……ずるいなぁ、浅葱さんは。振る時にいつもの浅葱さんじゃない顔を見せられたら、ますます好きになっちゃう」
「えっ?」
困った顔で慌てる浅葱。その顔も初めてみる顔だった。
少しだけ意地悪をする。
「千草さんは全然その気、ないですよ」
「うん、わかっている。でも僕は千草さんの側に居続けたいんだ」
そう告げる浅葱の顔は、今までで一番男らしいかった。
「失恋しちゃった」
ポツリと呟いた若葉に、浅葱はいつものように微笑んだ。
振られたのに、清々しい気持ちだった。
浅葱は千草以外、見向きもしない。
叶わない恋。それでも一途に千草を愛する浅葱を格好いいと思うのだった。
「若葉さん、送ります」
立ち上がった浅葱に若葉は一つだけ頼み事をした。
その願いを聞いた浅葱は、悩んだ末頷いた。
「若葉さんを信用します。が、念の為呪をかけます。……いいですか?」
そう言い差し出された浅葱の小指に、若葉はそっと自分の指を絡めたのだった。
※
「記憶は消さんかったのか?」
「ええ。若葉さんなら大丈夫かと思ったので」
若葉を送って戻ってきた浅葱に千草は声をかける。
「若葉は辞めるのか?」
浅葱は首を左右に振る。
「いえ、変わらずここで働きたいと。あなたがお狐様と言うことも理解した上で、明日からもよろしく、とのことでした」
そうか、と呟いた千草の声からは何の感情も読み取れなかった。
「千草さん……?」
若葉が気に入っている千草だ。もっと喜ぶと思っていた浅葱は拍子抜けだった。
名前を呼ぶが返答はない。不思議に思い、近づこうと一歩踏み出した時、千草が口を開いた。
「人と生きても良いのだぞ。お主が望むなら」
電気はついていない。千草がどのような顔をして言っているのか、浅葱にはわからなかった。
だが……。
「僕はあなたと共に生きます。最期までご一緒させてください」
自分の気持ちを伝えた浅葱に千草は何も言わなかった。
フッと千草の気配がなくなった。どこか行ったのだろう。
浅葱は誰もいなくなった店内で独りごちる。
「……狐と人間が結ばれるのは、お伽話の中だけ、か」
浅葱の声は誰にも届かないまま、空中に吸い込まれた。
――Fox Tail――
そこはお狐様に恋をした人間が大切にしている場所。
様々なドラマが繰り広げられるその小さな喫茶店で店主のお狐様は何を思うのか。
それはまだお狐様も知らない物語の結末。