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借りていた手


千草は朝が弱い。そして店も月2回程しか顔を出さない。

そんな千草が朝から店にいるのは見慣れない光景だった。

珍しく着物を着ている。この喫茶店を始めた頃によく着ていた絣の着物。


昔の話だ。まだそこまで大きくない店で、朝から晩まで千草と二人きりで過ごす。

『浅葱はまだ下手だのう』

上手く珈琲を入れられず、薄かったり苦かったりするその液体を千草は苦笑いしながらも毎回残さず飲み干してくれた。

そしてその後、浅葱のためだけに珈琲を入れてくれる。

サイフォンに向かう千草の目と優雅な手付きをじっと見ているだけの時間。

今思い返すと、その時間はとても贅沢で大切な一時だった。



今では浅葱と千草の式神が店を回しているため、基本千草は店に来ても何もしない。

だが、今日は袖が邪魔にならないようにたすき掛けにしている。

(この店を始めた頃みたいだ)

一気に懐かしさを感じた浅葱はしばし無言で彼女を見つめていた。

浅葱の視線を感じたのか、先回りして千草が答える。

「今日信夫がくるぞ」

「信夫さん?50年ぶりですね」

「あぁ」

言葉少なく答えると千草は口を噤んだ。

「千草さん?」

しばし無言でフラスコの湯が沸くのを見ていた千草はポツリと呟いた。


「人間は儚いのう」



信夫が店に来たのは、丁度最初の撹拌をしている時だった。

「懐かしい匂いだ」

大きな風呂敷を持った信夫は真っ直ぐに千草の前のカウンター席に座る。

「お狐様も吾郎くんも久しぶりだ。儂は老いたが二人は全く変わらんの」

矍鑠とした老人になった信夫は豪快に笑う。

浅葱のことをかつての人間の名前で呼ぶのは、もう信夫くらいだ。

本人ですら忘れかけていた名前で呼ばれるのは何だかむず痒く、浅葱は照れ笑いを浮かべた。


「待っとれ、もうじき珈琲が入る。……浅葱も座ると良い」

「お狐様の珈琲か。いい冥土の土産だな!」

カラカラと笑う信夫の横に浅葱も腰掛ける。

そう間を置かず、二人の前に珈琲が置かれた。


香り高い珈琲にそっと口をつけると、まろやかな風味が広がる。

浅葱が真似をしようするが、未だに完璧には同じものは作れない。

100年経っても同じ味に出来ない千草だけの珈琲。

信夫のついでだが、久々に千草の珈琲を飲める幸せを浅葱は噛み締めていた。



「お狐様に頼まれていたものがやっとできましたわ」

飲み干すのが惜しいようにゆっくりと舌鼓をうっている浅葱の横で、生来の気質がせっかちな信夫はあっという間に飲み終わり、持ってきた風呂敷を千草に差し出す。

カウンター越しに受け取ると、包みを開け、中の木箱からコーヒーカップを取り出した。


妙に白い手でコーヒーカップを色々な角度から見た千草は、榛色の目を細め満足そうに頷いた。

「良い物だ。受け取ろう」

「よかったですわ、これで心残りもなくあの世に行けます」

「……お体、悪いのですか?」

その言葉で浅葱は信夫が今日ここに来た理由が分かった。

「浅葱、よく信夫の体を見よ」

千草の声に促されるように、じっと信夫の体を見る。それに気付いた浅葱は息を飲んだ。


信夫の姿ははっきり見えているかと思うと、次の瞬間には透けたり、一部消えていたりする。

「ここにおる儂は魂だけじゃ。体はもう死にかけておる。あともって数時間、といったところか」

命の炎の揺らぎが、魂だけになった信夫の姿を不安定なものにしているのだ。

千草は最初から気づいていた。だからあのような表情をしていたのだ。

やっと普段とは違う千草の様子に合点がいった。


「何か願いがあるのだろう?このカップの礼に叶えてやろう」

「そうだった。それを頼みに来たんだ」

そう言って、信夫は懐からあるものを取り出した。

大きなハンカチに包まれていたそれは、割れた瀬戸物の欠片だった。

浅葱がパズルのように手にとって組み合わせて見ると一つの形が浮かび上がる。

「湯呑?」

「そうだ。死んだばあさんが使っていたもんなんだが、家で倒れた時に割ってしまってな。雪江は儂が作ったこの湯呑を気に入っとったから直して持っていきたい」


浅葱の脳裏にその時のシーンがリアルに浮かんできた。



妻の雪江の仏壇にお茶を供えようと台所から居間に向かう途中で、急に胸が苦しくなる。

思わず、盆ごと湯呑を落としそのまま崩れ落ちた。

遠くで湯呑が割れる音がする。

(……直さないと)

そう思ったのに、自らの体を真っ直ぐにすることが出来ない。

呼吸も出来ないくらい激しい胸の痛みに脂汗が滲む。欠片に手を伸ばそうとするが届かない。

目の前が暗く霞んでくる。

せめて一欠片だけでも、と僅かに指が触れた瞬間、最大の痛みが走って……。



「吾郎!」


――パンッ――



鋭い声と共に、耳元で柏手を打つ音が聞こえた瞬間、浅葱は現実に戻ってきた。

呆れたような表情の千草と、心配そうな信夫の顔。

「……すみません」

ため息と共に千草の小言が飛んでくる。

「不用意に触れるな。念がこもったものは人を取り込む。まぁ浅葱はわれの眷属だ、死ぬことはないだろうが。ただでさえ信夫はお前の真名を知っておる。用心しろ」

「……はい。申し訳ございません」

気まずい雰囲気が流れる。



まぁまぁ、と場を宥めたのは信夫だった。

「儂には時間がない。急ぎで直して欲しい」

チラリと千草は目線で浅葱に問いかける。

「もう大丈夫です。やれます」

気を取り直した浅葱は欠片に手をかざす。



浅葱の生まれ持った特異体質の一つだ。

対象のものに語りかけ、あるべき姿に戻す。

憑坐体質というのか、良くも悪くも影響されやすい浅葱は、逆に言えば影響を与えることも出来る。

今は千草の血の力の影響もあり、生前よりも強い能力を発揮出来る。

この程度の壊れた物を直すのは容易な作業だった。


ゆっくりと湯呑に語りかけ、それらが望む形に戻す。

そう時間もかからずに湯呑は、一見すると元の形に戻ったようだ。

「奥さんがいつも指を添える辺りは前と違って少し窪んでいます。前の形でしたら少し持ちにくいようだと言っていましたので」

信夫は直った湯呑を手にする。そして、満足そうに頷く。

「この湯呑を作ったあとに雪江がリウマチになってな。確かにこうするとあいつでも持ちやすいだろう」

まだまだ精進が足りんな、と笑う信夫に浅葱は首を振る。

「作られてまだ10年くらいなのに、湯呑自身がキチンとなりたい形を持っていました。大切に作られて大切に扱われていたんですね」


信夫は一言では言い表せない顔をする。それは雪江と歩んできた時間の深さを表していて、浅葱は羨ましく思う。

千草はそんな信夫の感情を読み取ることは出来ないのだろう。

僅かに鼻を鳴らす。



「そうだ、もう一つあるんじゃった」

思い出したように、信夫は千草に両手を差し出す。

「お狐様に貰ったお力をお返しします」

「……なんの。われが与えたのはお前の父親のもので、元々はお前のものだ。あっちに持って行っても良いぞ」

信夫は首を振る。

「その親父の残された手の記憶が儂にはとても有難かった。本来なら親父が戦争で死んだ時に消えるはずのものだった。

残念ながら跡継ぎはおらん。お狐様にお返しして、もし望む者が現れたら引継いで頂きたい」


一度目を閉じた千草。彼女が再び目を開けた時には、その瞳は金色に輝いていた。


唄うような声が聞こえる。信夫はその声に誘導されるように目を閉じた。



「千草さん、もう……」

浅葱はそう言って首を振った。

目の前には空襲で殺られたのだろう、生きているのが不思議なくらいの状態で男が倒れていた。

「息子を……頼む」

目もよく見えていない様子の男は、腕の中で無事な様子の男の子を千草達に託そうとした。

多くの人の死を見てきたのだろう、男の子は泣き叫ぶこともなく父親の命が失われようとする様子をジッと見ていた。


「お前の望みを叶えてやろうか?」

千草の発言はほんの気まぐれだった。

戦時中の中、死ぬ人間は多い。全ての人間の望みを叶えることは出来ない。

だが、目の前で命を終えようとしている男には何か息子に残したいという強い想いがあった。

鬼気迫るような強い願い。


「千草さん!そんなことをしている場合では」

浅葱の焦る声が聞こえるが千草は目の前の男から目を離さなかった。

榛色の瞳が金色に変わる。そのタイミングで男が口を開いた。

「     」

ゲフッと血を吐きながら望みを伝える男の声は、もう言葉になっていなかった。

だが、千草には聞こえたようだ。


千草の口から祝詞のような声が紡ぎ出される。意味はわからないが、高く低く唄うように響く音。


千草が唄い終わると同時にコトリ、と赤い珠が男の目の前に転がった。

いつもの榛色の瞳に戻った千草が白い指でつまみ上げる。

「確かに。時期が来たら息子に与えよう」

もう男の耳には届かない。千草は浅葱と残された男の子ー信夫を連れてその場を去っていった。




千草の唄が終わるとコトリ、とカウンターに紫の珠が転がった。

「……紫?親父の時は赤い珠だったのに」

「ほう。上手く混ざったな」

千草は満足そうに頷く。


『息子に、俺の陶芸家としての技を教えたかった』

信夫の父親は激しい想いと共にそう言い残した。

燃え上がる炎のような赤い珠。

そこに信夫の穏やかだが深みのある青が混ざり、紫になったようだ。

「きれいなすみれ色じゃ。信夫の陶芸家人生は満足できたようじゃな。……父親の分も」


父親の死を目の前で見たのは5歳の時だ。それから千草に育てられた。

『信夫が決めたらええ。どう生きるかも、父親の跡を継ぐのも』

千草が尋ねたのは信夫が15歳になった春だった。

信夫は迷うことなく父親の跡を継ぐことを決意した。

ならば、と千草は信夫の眉間に赤い珠を押し付けた。

その瞬間、父親の技の記憶が押し寄せる波のように信夫の脳内を駆け巡った。

そして、父の最期の言葉も、この珠に込めた想いも。


だが、父親の記憶をトレースしたところでイメージ通りの焼物は出来るものではなかった。

むしろ、理想の姿があるからこそ、表現できない自分がもどかしかった。


――お狐様に守られていては一生大成しない――


そう考えた信夫は千草の元を去っていった。

『お主の満足いく品が出来たらぜひ欲しいものだ。待っとるぞ』

千草はアッサリと信夫を送り出した。

それから50年、便りは出しても会うことはなかった。



「紫、か」

今までのことを走馬灯のように思い出しながら、信夫は指でそっと珠を撫でた。

もう指先には感覚がない。それでも触れると安心した。

「この……は二……の魂を……。いず……れ相応しい……げん……に」

千草の言葉も半分も理解出来なかった。だが、言っている言葉は分かった。

(儂と親父の魂を引継ぐ相応しい人間、か。お狐様なら見つけてくれるじゃろ)

意識が遠のく。もう体も息を引き取る寸前なのだろう。


「ありがとう、お狐様」


きちんと言葉になったかわからない。だが、きっと千草には聞こえているはずだ。

そこで信夫の意識は途切れた。




「今日は刺し身か」

居間に顔を出した千草は並んだ膳を見て鼻を鳴らす。

「ええ。信夫さんが好きだった鰆が売っていましたので」

自分の場所に胡座をかいて座った千草は箸を取り、さっさと食べ始めた。

「人間はわからぬ。信夫の膳を用意したところでアイツは食わぬぞ」

千草の指摘を予想していたのか、浅葱は苦笑いで答えた。

「陰膳の代わりですから、後で僕がお下がりを頂きます。本当は生モノはダメなのですが、信夫さんが好きだったので」

ふうん、とつまらなそうに箸を運ぶ。

と、その時千草の箸が信夫の膳に伸びて刺し身を掴んだ。

「ちょ、千草さん!?」

行儀の悪さを指摘した浅葱を気にも止めず、サッサと食べ終わり席をたった。



「もう一度くらい信夫と一緒に飯を食べたかったの。……人間はすぐ死ぬ」


ポツリと呟いた千草は、浅葱がなにか言う前にその場から消える。

同時に浅葱に千草の気持ちがなだれ込む。


生まれ持った能力と分け与えられている血の影響があっても、千草の気持ちは浅葱には読み取れない。

だが、今日は千草の気が乱れているからか、アッサリと感情が伝わってきた。


「千草さん、それが『寂しい』という気持ちなんですよ」

千草が聞いたら、目を三角にして怒るだろう。


だが、浅葱の独り言は彼女には届かない。

浅葱は静かに食事を再開した。



――Fox Tail――


そこはお狐様とかつて人間だった青年が営む喫茶店。

人間のことを知りたくて山から降りてきた狐と、人に寄り添いすぎる人間の小さな住処。


あなたの大切な記憶を後世に残したいのであれば、一度聞いてみればいい。

気まぐれなお狐様が叶えてくれるかもしれません。



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