婚約者の私よりも、ご自分の義妹ばかりを優先するあなたとはお別れしようと思います。
「エリアーナ、紹介するよ。僕の義妹の、キルスティンだ。可愛いだろう?」
婚約者のデイビッド様と出かける予定だった私は、彼が迎えに来たと執事に言われ、玄関へと急いだ。玄関で目にしたのは、デイビッド様と最近出来た彼の義妹の姿だった。
「初めまして、キルスティンです。義兄がいつもお世話になっています」
可愛らしい笑顔で挨拶をする彼女に、私も笑顔で挨拶を返す。
「初めまして、エリアーナです。本当に、可愛らしいですね」
「今日の予定だけど、キルスティンも一緒に連れて行こうと思う。食事の予約は二人だったから、キャンセルしたよ。キルスティンは、肉があまり得意じゃないしね。キルスティンが行きたいカフェがあるそうだから、そこに行こう」
二人で現れた時から、彼女も一緒に出かける気なのだと予想はしていた。けれど、勝手にレストランをキャンセルしているとは思わなかった。
今日は、私の誕生日。私の大好きな、お肉の美味しいレストランで、一緒に食事をしようと言ってくれたのは彼だったのに。
少し不機嫌になった私に、デイビッド様はため息を漏らした。
「不満そうだね。キルスティンは楽しみにしていたのに、こんな状態では一緒に出かけても楽しくないだろう。今日は、キルスティンと二人でカフェに行くことにするよ。君は、邸でゆっくりすればいい」
そう言って、まだ返事もしていない私を置き去りにして帰って行った。
確かに、不機嫌な態度をとってしまった私も悪いけれど、こんな扱いは酷い。
『キルスティンは楽しみにしていた』とは? 私だって、今日をずっと楽しみにしていた。私の気持ちは、考えてくれないのだろうか。
結局、私は部屋に戻り、今日の為に買った服を脱ぎ捨てて、ベッドに横になった。
数時間が経ち冷静になると、大人げなかったかもしれないと反省した。
デイビッド様のお父様であるシードル侯爵は、三ヶ月前に再婚をした。キルスティン様は、再婚相手のローレル夫人と前夫との子だ。彼女は、ローレル夫人が離婚した相手の籍に入っている。その離婚した相手は、男爵でかなりの高齢だ。キルスティン様の他に子は居ないこともあり、キルスティン様が男爵家を継ぐようだ。
デイビッド様には二人の兄は居るけれど、妹は居ない。義妹とはいえ、妹が出来たのが嬉しかったのかもしれない。
あれから五時間、そろそろ邸に戻っているかもしれないと思い、謝りに行こうと支度を整えて馬車に乗り込み出発した。シードル侯爵邸までは、馬車で一時間程。せっかくの誕生日を、喧嘩したまま終わりたくなかった。
「エリアーナ様は、大人ですね。私なら、許せないと思います」
侍女のジョアンナは、唇を尖らせながら不貞腐れる。彼女は子爵令嬢で、私の親友でもある。子爵令嬢といっても、六女で、なかなか婚約者が見つからなかったこともあり、ブラットレイ侯爵家に使用人として来てくれた。
「大人じゃないから、デイビッド様を怒らせてしまったのだけれど?」
ジョアンナは苦笑いしながら、小さな包みを手渡して来た。
「これ……」
「お誕生日おめでとうございます」
「嬉しい! ジョアンナ、ありがとう!」
ジョアンナからの誕生日プレゼントは、私の大好きなバラの香りの香水だった。
「つけてもいい?」
「はい」
少しだけつけて、匂いを嗅ぐ。
「いい匂い……」
ジョアンナの気持ちと素敵な匂いで、心が和んだ。
シードル侯爵邸に到着すると、二人はまだ帰宅していなかった。執事が申し訳なさそうな顔をしながら、頭を下げてくる。
「そうですか、少しお待ちしてもよろしいでしょうか? 出来れば、今日中にお話ししたいので」
「かまわないよ」
執事の後ろから、声が聞こえた。声の主は、シードル侯爵家の次男、アレン様だった。
「アレン様、お久しぶりです」
シードル侯爵家の三兄弟、グレイ様とアレン様、そしてデイビッド様とは幼馴染みだった。ブラットレイ侯爵家とシードル侯爵家は、お父様達が親友で、幼い頃から家族ぐるみの付き合いをしていた。
婚約の話は、私が八歳の時に出た。私は一人っ子で、婿をもらわなければならない。その候補は、アレン様とデイビッド様の二人。話を聞いていたデイビッド様が、一番に手を挙げたことにより、彼と婚約することが決まった。といっても、その話を聞いていたのはデイビッド様だけで、婚約が決まったと言われて初めて、私とアレン様はそのことを知った。
「久しぶり、エリー。それと、誕生日おめでとう」
アレン様は、幼い頃から変わらない優しい笑顔を向けてくれた。
「覚えていてくれたのですか?」
「当たり前だ。誕生日プレゼントは、邸に送っておいたから、手ぶらでごめん」
覚えていてくれただけでも嬉しいのに、プレゼントまでくださるなんて感激だ。デイビッド様は、私の誕生日のことなんて、すっかり忘れているみたいなのに。
「アレン様は、相変わらず優しいですね」
「褒めても、プレゼントは増えないぞ」
すぐからかってくるところも変わらない。昔の、楽しかった日々を思い出す。デイビッド様と婚約してからは、アレン様とはあまり会わなくなっていた。久しぶりに話せて、何だか嬉しい。
リビングに移動して、ソファーに座りながら昔話をしていると、デイビッド様とキルスティン様がようやく帰宅した。外は、すっかり暗くなっている。
「何で居るんだ?」
私を見たデイビッド様が、不機嫌そうに眉をひそめた。
「エリアーナ様……私達との外出はあんなに嫌そうにしていたのに、アレンお義兄様とは楽しそうにお話しするのですね……」
キルスティン様は、デイビッド様の袖を掴みながら、泣きそうな顔でそう言った。
少し不機嫌になったことは認めるけれど、それは楽しみにしていた誕生日デートだったからだ。でも、二人は私と出かけることを楽しみにしていたのだから、素直に謝ることにした。
「今日のことを謝りに来たのですが、気分を害してしまったのならすみません」
謝りに来たのに、デイビッド様に不機嫌な顔をさせ、キルスティン様には嫌な思いをさせてしまった。
「なぜ、エリーが謝るんだ? 悪いのは、デイビッドとキルスティンだ。デイビッド、お前は今日がなんの日か忘れたのか!?」
今まで黙って聞いていたアレン様が、二人を叱りつけた。
「アレン兄上は、黙っていてください! 兄上は、いつもエリアーナに甘すぎます! 幼い頃から、エリアーナも兄上のあとばかりついて行っていた。ですが、今は俺の婚約者です! 兄上に、とやかく言われたくありません!」
急にデイビッド様は、声を荒げた。
昔は仲が良かったのに、いったい何があったのだろう。
「婚約者だというのなら、もっと大切にしろ」
重い空気が流れる。
「アレンお義兄様、デイビッドお義兄様はエリアーナ様を大切にしていますよ。それなのに、エリアーナ様はワガママです!」
ずっとデイビッド様の袖を掴んだまま、彼に寄り添っているキルスティン様が、私を睨みながらそう言った。ワガママ……デイビッド様も、そう思っているのだろうか。
「キルスティン、なぜ君がここに居るんだ? これは家族の話だ。父上が君の母と再婚したからといって、君の義兄にはなっていない。義兄と呼ぶのもやめてくれ」
アレン様が、かなりキツイ口調でキルスティン様にそう言った。
「酷い……です……」
キルスティン様は涙を浮かべながら、デイビッド様の後ろに隠れる。
彼女の印象が、どんどん変わってくる。最初は可愛らしいと思っていたけれど、デイビッド様に媚びているように見える。
「キルスティンが、怯えているではないですか! 兄上はなぜ、キルスティンに辛く当たるのですか!?」
デイビッド様は、さらに声を荒げる。
キルスティン様は、デイビッド様を煽るように大袈裟に怯える素振りをした。
「お前には、分からないのか? お前を利用しているだけだということが……」
今日会ったばかりの私の目にも、そう見える。純粋なデイビッド様が、弱い女の子を守ろうと考えるのは分かるけれど、彼女はそれほど弱くないだろう。
「兄上とは、意見が合わないようなので、これで失礼します。
エリアーナ、その匂いは香水か? そんな物をこれみよがしにつけるなんてな。キルスティンの家では、そのような高価な物は買えない。今日の当てつけで、つけてきたのか? お前には、失望した」
「お前……!?」
「この香水は……」
言いたいことだけ言うと、アレン様のことも私のことも無視して、キルスティン様の手を引いてリビングから出て行くデイビッド様。
あの優しかったデイビッド様が、まさかそのようなことを言うとは思っていなかった。ジョアンナからもらった香水を否定され、怒りが込み上げて来たが、話も聞かずに去って行った彼に、私の方が失望していた。
「せっかく来てくれたのに、嫌な思いをさせてすまない」
アレン様は申し訳なさそうに、眉を下げながら深いため息をついた。
「私は平気です。デイビッド様は、義妹が出来たのが嬉しかったのですね。私は大丈夫ですので、あまり喧嘩しないでくださいね。それでは、私も失礼します」
「エリー、送って行くよ」
「お気遣い、感謝いたします。ですが、大丈夫です」
アレン様に笑顔を向けてから、邸をあとにした。
「こんなのおかしいです!」
邸にお邪魔している間ずっと黙っていたジョアンナは、馬車が出発すると怒りをあらわにした。ジョアンナは子爵令嬢だが、今は私の侍女。使用人が口を挟むことは許されないと、我慢していたようだ。
「ごめんね、ジョアンナ。せっかく用意してくれたプレゼントを、あんな風に言われてしまって……」
大好きなジョアンナが、私の為に選んでくれた香水なのに、あんな言い方をされ、怒りが込み上げてくる。
「謝らなければならないのは、私の方です。私が香水を贈ってしまったから、エリアーナ様が酷いことを言われてしまいました」
「謝罪に行くのに、昼にはつけていなかった香水をつけてしまった私の考えが足らなかっただけよ。あなたは悪くない。ジョアンナがくれたこの香水は、私の宝物よ」
私が浅はかだったせいで、ジョアンナにも嫌な思いをさせてしまった。
「エリアーナ様は、何時だって他の誰かのことを考えていらっしゃいます。デイビッド様はエリアーナ様のことを分かっているはずなのに、どうしてしまわれたのでしょう……」
ジョアンナが褒めるほどの性格ではないけれど、今日のデイビッド様の様子が変だったことは、私も感じている。いくら義妹が出来て嬉しいからといっても、キルスティン様しか見えていないみたいだった。私の誕生日を忘れるような人では、なかったのに……。
邸に戻ると、アレン様のプレゼントが届いていた。プレゼントは、絵本だった。幼い頃に、大好きだった絵本。
アレン様とお会いしたのは久しぶりだったけれど、毎年誕生日にはプレゼントが送られて来た。私の好きな曲のオルゴールや、可愛らしい宝石箱や、リラックス効果のあるお茶など、いつも楽しみにしていた。
デイビッド様のプレゼントは、宝石やドレスや靴で、高価なものばかり。高価なプレゼントしかしてこなかった彼に、あのようなことを言われるとは思わなかった。
その日から、デイビッド様はキルスティン様とばかり過ごすようになった。約束は次々とキャンセルされ、誕生日から一ヶ月が経ったが、あれから一度もお会いできていない。手紙を送っても、返事は返って来ない。彼からの連絡は、約束をキャンセルする時だけで、使用人からの伝言だけだった。
婚約者だというのに、最近の彼のことは噂でしか知らない。
先日、誕生日の日に予約していたレストランで、二人は仲良く食事をしていたそうだ。お肉は苦手だと言っていたのは、何だったのか……。
「ジョアンナ、私はどうしたらいい?」
手紙を出しても無視をされ、会う約束はキャンセルされ、邸に会いに行ってもいつも外出している。他の人から彼の近況を聞かなければ分からないなんて、本当に私は婚約者なのだろうか。
「夜会に出席されてはいかがですか?」
「夜会……ね」
十六歳で社交界デビューしてから、公式な場にはデイビッド様と共に出席したことしかなかった。私はそんなに社交的な性格ではないから、デイビッド様がそばに居てくれると安心した。
このままでは、彼と話すことも会うことも出来ないまま月日だけが過ぎていく。私ももう十八歳、いつかはブラットレイ侯爵家を継がなければならないのだから、夜会くらい一人で出席しようと決めた。
二週間後、ベルーナ伯爵邸で夜会が開かれる。ベルーナ伯爵家の長男である、レイモンド様とデイビッド様は親しい友人だから、彼も出席するだろう。
クローゼットを開けると、並んでいるドレスはシンプルな物と派手な物の差が激しい。私の好みは、シンプルな方だ。
夜会やお茶会の度に、デイビッド様が贈ってくださった物が派手な方。今回は、シンプルなドレスにしようと思う。
夜会までの二週間、相変わらずデイビッド様とは連絡が取れなかったが、噂だけは聞こえてくる。キルスティン様と一緒に居るところを、何度も目撃されているようだ。デイビッド様が婚約者を蔑ろにし、浮気をしているのではという噂も流れ始めていた。
お父様は今、隣国の友人の結婚式に出かけている。このことをお父様が知ったら、シードル侯爵家との関係が悪くなるかもしれない。お父様が帰って来るのは、あと一ヶ月くらい先だろう。それまでには、自分で何とかしなければならない。
「やはり、エリアーナ様にはシンプルなデザインのドレスの方がお似合いです!」
薄いピンク色のドレスに、小さな宝石のネックレス、青みがかった銀色の髪はアップにし、金の髪留めでとめている。
「ジョアンナのメイクが上手いからよ」
鏡越しにジョアンナの顔を見ると、キラキラした目で私のことを見ていた。
「エリアーナ様は、とてもお綺麗です。青く透き通った目は大きく、鼻筋が通っていて、白い肌に形のいい唇。派手なドレスでは、エリアーナ様の美しさが際立ちません」
自分が綺麗だという認識はなかった。正直、私よりもジョアンナの方が可愛いと思っている。なぜ婚約者が見つからないのか、不思議なくらいだった。
「ありがとう、ジョアンナ。ジョアンナのおかげで、勇気が出たわ。最後の仕上げは、ジョアンナからもらった香水ね」
「エリアーナ様、それは……」
「これは、私の宝物だと言ったはずよ。また文句を言われたら、頬をひっぱたいてやるわ!」
香水をつける私を、ジョアンナは困った顔をしながら見つめていたが、これだけは譲れなかった。
夜会が開かれるベルーナ伯爵邸までは、馬車で二時間半程。支度を終えた私達は、馬車に乗り込み出発した。
会場に入ると、今日の夜会はダンスパーティーということもあり、出席者達はパートナー同伴の方達が多かった。パートナー同伴でない方は、ほとんどが婚約者の居ない方達だ。
「エリアーナ様? いらしていただけたのですね!」
最初に声をかけてきたのは、ベルーナ伯爵。今日のこの夜会の主催者だ。
「お久しぶりです、ベルーナ伯爵。お招きいただき、感謝いたします」
膝を軽く折り、片足を後ろに引き、ドレスの裾を軽くつまんで挨拶をした。
「エリアーナ様は、所作もお美しい! 実は、デイビッドが来ているのですが、なぜエリアーナ様とご一緒ではないのですか? 同伴の女性は、もしや平民……」
ベルーナ伯爵は、いわゆる長いものに巻かれるタイプの方で、自分より爵位が上の者には媚びを売り、下の者には傲慢な態度をとる。
まだ侯爵令嬢ではあるけれど、いずれ侯爵となる私に媚びを売ってくるから苦手な相手だ。
「キルスティン様のことを仰っているのでしたら、彼女は男爵令嬢です」
「男爵令嬢……どうりで……」
明らかにバカにしたように頷く。
「身分で差別するような発言は、感心出来ません。デイビッド様は、どちらにおいでですか?」
キルスティン様のことは、好きではないけれど、身分で人を見下すベルーナ伯爵の態度は許せなかった。
「も、申し訳ありません! デイビッドは、息子のレイモンドとバルコニーで話をしているかと……」
「ありがとうございます、行ってみます」
バルコニーへと出てみると、デイビッド様の姿が見えた。キルスティン様と寄り添うように立ちながら、レイモンド様と話していた。その姿は、まるで恋人同士のようで、私の足はその場から動くことが出来なくなっていた。
こんなに近くに居るのに、デイビッド様は全く私に気付かない。今まで私に向けてくれていた優しい笑顔も、優しい眼差しも、全てキルスティン様に向けられていた。
「お前ら、本当にお似合いだな。いっそ、婚約したらどうだ?」
私に気付くことなく、三人は会話を続けていた。
「バカ言うなよ。キルスティンは、義妹なんだ。それに、俺には婚約者が居る」
デイビッド様は、ハッキリ否定してくれた。その言葉に安堵していると、キルスティン様の甲高い声が聞こえた。
「婚約者って、エリアーナ様ですよね? あの方は、デイビッドお義兄様に相応しくありません! こんなに素敵なお義兄様のことを、『親が決めた婚約者だから仕方ない』と言っていたそうです! 許せません!」
そんなことを言ったことは、一度もない。キルスティン様は、私達の関係を壊したいのだろうか。デイビッド様の腕に胸を押し付け、瞳をうるうると麗せながら彼の目を見つめている。
「…………」
「おい、見つめ合うなら他所でやってくれよ。今にもキスしそうだぞ。まあ、婚約は破棄しないだろ? なんたって、ブラットレイ侯爵家だもんな。俺が代わりたいよ!」
レイモンド様は、父親そっくりのようだ。
私は、いったい何をやっているのだろうか。デイビッド様に会うために来たはずなのに、やっていることはただの立ち聞き。近付くことも、声をかけることも出来ない臆病者。自分が、情けない。
「エリアーナ嬢? こんなところで、何してるんだ?」
そして、背後に人が居たことにも気付いていなかった。
「あ、えっと……少し、風に当たりたかったので……」
声をかけてきたのは、デイビッド様の友人のシルバ・ユーリッド様。私が立ち聞きしていたことを、気付かれてしまっただろうか。
「ああ、デイビッドに会いに来たのか。デイビッド!」
最悪なタイミングで会いたくはなかったのに、シルバ様の声で、デイビッド様はこちらに気付いたようだ。
「何で居るんだ?」
あの日、シードル侯爵邸で待っていた時と同じ反応。彼は昔のように、私に微笑んではくれない。
「デイビッド様と、お話がしたくて参りました。私はまだ、あなたの婚約者なのですか?」
必死に涙を堪えながら、今一番聞きたかったことを聞いた。
私の目には、キルスティン様が婚約者のように見える。そもそも、二人は血が繋がっているわけでも、ローレル夫人の連れ子として籍が入っているわけでもない。常識的には控えるべきだが、国の法律で禁止されているわけではないのだから、二人がそういう仲になったとしても不思議ではない。
「くだらないことを聞くな! お前以外、誰が婚約者だと言うんだ?」
ハッキリと、婚約者だと言ってくれたことに安堵していた。私はどれだけ単純なのだろう。
「エリアーナ様は、私のことがお嫌いなのですか? デイビッドお義兄様が私とばかり一緒に居るのが許せなくて、そんなことを仰っているのですよね? お義兄様……私、お義兄様とお会いするのを控えた方がいいですか?」
キルスティン様は、私が必死に堪えた涙を簡単にぽろぽろと流しながら、デイビッド様の目を見つめてそう言った。やっと仲直り出来るかもしれないと思った私が、甘かったようだ。
「控える必要はない。お前は大切な義妹だ。お前と会うことを、誰にも文句は言わせない」
私にはもう向けなくなった優しい顔で、キルスティン様にそう言うデイビッド様。彼女のわざとらしい演技に、なぜ気付かないのだろうか。
「デイビッドお義兄様、大好き!!」
キルスティン様は、デイビッド様に抱き着いた。ここがバルコニーとはいえ、公の場所で抱き着く彼女に驚いた。もっと驚いたのは、彼が嬉しそうに笑っていることだった。しかも、義妹だと散々強調していた彼の鼻の下が伸びていた。夜会になんて、来なければよかったと後悔していると、シルバ様が口を開いた。
「イチャイチャするなら、邸でやれ」
シルバ様は、いつも何を考えているのか分からない。無表情で、感情をあまり表には出さない。そんなシルバ様が、明らかに嫌な顔をしている。
「お前、羨ましいんだろ? まだ婚約者も居ないからな」
シルバ様の表情を見ても、羨ましがっていると思えてしまうデイビッド様の頭は、どうなっているのだろうか……。
「ありえない」
シルバ様は、ムスッとしていた。
「今日のエリアーナ様のドレス、随分シンプルなのですね。何だか、貧乏臭くありません?」
貧乏臭い……とは?
このドレスはシンプルなデザインだけれど、職人が丁寧に作ってくれた物だ。そう見えるのなら、このドレスを着こなせていない私のせいだろう。
「お前、またあの香水をつけているな。キルスティンを傷付けたくて、わざとつけてきたのか!?」
私が侮辱されても何も言わなかったのに、香水をつけていることを責める彼の気持ちが分からない。『キルスティンの家は、そのような高価な物は買えない』と、そう言っていたのに、今日身に着けているドレスや靴や宝石は、かなり高価な物だ。しかも、バルコニー中に充満するほどの香水の匂いは、キルスティン様から漂っている。
デザインからして、全てデイビッド様からの贈り物だろう。傷付いているのは、私の方だ。
「この香水は、私の誕生日にジョアンナがくれた物です。大切な物ですので、使用を控えるつもりはありません」
誕生日という言葉に、気まずそうに目を伏せるデイビッド様。あの日は私の誕生日だったことを、やっと思い出したようだ。
「そ、そうか。では、大事にしなければな。エリアーナ……」
「お義兄様、私、喉が渇いてしまいました」
デイビッド様が何か言いかけたところで、キルスティン様が猫なで声を出しながら、彼の袖を引っ張った。
「ああ、気付かなくてすまない。エリアーナ、キルスティンに飲み物を取ってきてくれ」
先程の様子とは一転して、何の迷いもなくデイビッド様は私にそう言った。
私の聞き違いでは……一瞬、そう思ったけれど、間違いではなかった。
「急いでくれないか?」
早く行けよという顔で、私を見る。デイビッド様にとって私は、形だけの婚約者なのだと感じた。これは、確実におかしい。彼は、婚約者ではない女性とイチャイチャしているだけでなく、その女性の飲み物を私に取ってきて欲しいと言った。
「自分で取ってこい。エリアーナ嬢、行こう」
あまりのショックに、何も言うことが出来なかった私の手を引いて、シルバ様が会場の中へ連れていってくれた。去り際に彼が何か叫んでいたけれど、もう何も聞きたくなかった私の耳には届かなかった。
「……シルバ様、ありがとうございます」
あのままあそこに居たら、きっと涙が堪えきれなくなっていた。
「あんなの、気にするな。それと、そのドレス、似合ってる」
ぶっきらぼうな言い方だけど、シルバ様の優しさが伝わって来た。
シルバ様のせいで、最悪なタイミングでデイビッド様に会うことになったとか思って、ごめんなさい。
あまりお話ししたことはなかったけれど、シルバ様はデイビッド様から聞いていた印象とは違って、それほど無愛想な方ではないように思えた。
その日はそのまま、帰ることにした。
デイビッド様は、私よりもキルスティン様ばかりを優先している。というよりも、私は彼の目にも映っていないように思える。彼との婚約を、このまま続けることは出来そうにない。そう思った私は、もう一度だけデイビッド様に『お話があるので、お会いしたい』という手紙を書いた。婚約を解消するにしても、先ずは本人と話をしようと思ったからだ。だが一週間経っても、彼からの返事が来ることはなかった。
もう彼に歩み寄ることはない。
最後の機会も、彼からの返事はなかったのだから、次はシードル侯爵に話すしかない。
キルスティン様が現れるまでは、とても誠実で優しい方だった。どうしてあんな風に、変わってしまったのだろうか。
使用人に、デイビッド様への手紙をシードル侯爵邸に届けてもらった時、侯爵とお会いしたいと執事に伝言を頼んでもらった。明日が、侯爵から邸に来るように言われた日だった。
デイビッド様との婚約は、シードル侯爵とお父様が決めたことだ。それを解消したいと言ったら、素直に受け入れてくれるだろうか。
「ジョアンナ、行きたいところがあるのだけれど……」
結局、デイビッド様とは話すことが出来なかったのだから、最後に私の心にケジメをつけたかった。
昔、デイビッド様とアレン様とよく行った湖に、行ってみることにした。
湖に着くと、馬車が止まっていた。この馬車は、デイビッド様がよく使っている馬車だ。
「エリアーナ様、今日はお帰りになりますか?」
ジョアンナもそれに気付き、心配そうに私を見る。
「いいえ、直接お別れ出来る、ちょうどいい機会だと思う」
きっと、キルスティン様と一緒に居る。
この場所は、私達にとって思い出の場所で、大切な場所だったのに、彼女を連れて来たのだと知り、デイビッド様への気持ちは完全になくなっていた。
馬車を降り、ジョアンナと使用人のトロイに、一人にして欲しいと頼んだ。私の気持ちを優先してくれて、渋々だったけれど一人にしてくれた。少し歩くと湖が見えて来た。
桟橋の上には、デイビッド様の姿があり、彼に寄り添うようにキルスティン様が立っていた。
二人の後ろ姿が相思相愛に見えても、心を痛めることもなくなっていた。
別れを決意したからか、二人に平気で近付いていける。しっかりとした足取りで、二人に近付いて声をかけた。
「このような場所でお会いするなんて、奇遇ですね」
私の声に、振り返る二人。
私の姿を見たキルスティン様は、明らかに嫌そうな顔をした。
「何で居るんだ?」
驚いたようにそう言う、デイビッド様。そのセリフも、三度目だ。三度も聞くと、間抜けな言葉に思えて来る。
「デイビッド様の方こそ、なぜいらっしゃるのですか? 何度もお手紙を差し上げましたのに、一度もお返事をいただけませんでしたね」
「それは……」
口ごもるデイビッド様の隣で、キルスティン様が私を睨んでいる。私のことが嫌いなのだと、隠そうともしなくなっていた。
「この湖で、沢山遊んだのを覚えています。デイビッド様は、お魚を釣るのが下手でしたね。触れませんでしたし。今もお魚が苦手で、お肉料理ばかり好んで食べていますよね。知っていましたか? デイビッド様がお魚苦手だから、私までお肉派になったんですよ」
思い出すのは、楽しかった思い出ばかり。
私は何か、間違えてしまったのだろうか。今更、どうでもいいか……
「いきなり、なんなんですか!? ここへは、お義兄様と二人で来たので、邪魔しないでください!」
散々、邪魔していたのはキルスティン様の方なのに、どの口が言っているのだろうか。
「もう邪魔をすることはないので、安心してください。私達の婚約は、過去のことです。デイビッド様、お別れしましょう」
彼に見せる最後の笑顔を浮かべながら、まっすぐ目を見つめてそう告げた。思い出の場所で、デイビッド様に別れを告げることになるなんて、思ってもみなかった。けれど、ハッキリとそう告げることが出来て、私の気持ちはスッキリしていた。
「な、何を言っているんだ!?」
驚いた表情を見せながら、デイビッド様は私の腕を掴んだ。正直、この反応は予想していなかった。だからといって、気持ちが揺らぐことはなかった。
その時……
「キルスティン!! お前、俺を騙しやがって!!」
怒声が、響き渡った。
見知らぬ男性が、剣を持ってこちらに走って来る。何が起きているのか分からないまま動けずにいると、男性はすぐ近くまで来ていた。
「お義兄様、私怖い!!」
キルスティン様は、デイビッド様を盾にするように後ろに隠れた。そして、デイビッド様は、掴んでいた私の腕を引き、私を盾にした……。
これが、彼の本性……
ゆっくり、ゆっくり、男性が私に向かって剣を振り下ろしてくる。ゆっくりだと感じるのは、私が死ぬからなのだろうか。
目をつぶり、デイビッド様に掴まれていない方の手で防御姿勢をとる。
「エリーーーーーッ!!!!」
なぜか、アレン様の声が聞こえて目を開けると、必死にこちらに走って来る彼の姿が見えた。アレン様の姿が見えたからか、デイビッド様の手が私の腕から外れる。盾にしていたところを、見られたくなかったのだろう。
剣が振り下ろされると、少しでも男性から離れようとしたキルスティン様が足を滑らせ、しがみついていたデイビッド様を道連れに湖に落ちて行った。男性の振り下ろした剣は、私の手のひらを斬りつけ、そのまま顔の前で止まっていた。キルスティン様が湖に落ちたからか、私が彼のターゲットではなかったからか、それ以上斬りつけるのを躊躇っているように見えた。
そしてアレン様に気付くと、慌てて男性は逃げて行った。
「エリー!! 無事か!?」
アレン様は私の怪我を見て、真っ青になりながら、ハンカチを手のひらに巻いてくれた。
「ア……レン様、私は大丈夫です! デイビッド様とキルスティン様が湖に!!」
キルスティン様は分からないけれど、デイビッド様は泳げない。
ジョアンナと、使用人のトロイが私の元に走って来ているのを確認したアレン様は、上着を脱ぎ捨てて湖に飛び込んだ。
「エリアーナ様!? お怪我をされたのですか!?」
ジョアンナは泣きそうになりながら、斬られた手をジッと見つめる。
「少し斬られただけだから、大丈夫。それより、アレン様は……」
湖を覗き込むと、ザバンと音を立てて水面からキルスティン様が顔を出した。急いで怪我をしていない方の手を差し出すと、しっかりと掴んできた。ジョアンナとトロイと三人で、キルスティン様を引き上げた。
「大丈夫ですか?」
そう声をかけると、キルスティン様は私を睨みつける。
「わざと私を落としたんでしょう!? 私を、殺す気だったんでしょう!?」
殺されかけたのは私なのに、彼女はどうしてそう自分中心にしか物事を考えられないのだろうか。
そもそも、あの男性の狙いはキルスティン様だった。
「あの男性を、ご存知ですよね?」
「し、知らないわ!」
明らかに動揺しながら、しらを切った。
「あの人が捕まれば、分かることです。今はそんなことよりも……」
まだアレン様とデイビッド様が、湖の中に居る。キルスティン様に構っている場合ではない。
急いで湖を覗き込むと、アレン様がデイビッド様を抱きかかえて浮かび上がって来た。
アレン様は急いでデイビッド様を湖から引き上げるけれど、デイビッド様は息をしていなかった。
「デイビッド! 戻って来い! 死ぬな!!」
懸命に、救命処置を施すアレン様。
「デイビッド様! 目を開けてください!!」
手を握り、彼の名前を呼び続ける。すると、
「……ゴホッ……ゴホッゴホッゴホッ……」
デイビッド様は水を吐き出し、息を吹き返した。
「良かった……本当に、良かった! デイビッド様、大丈夫ですか?」
目を開けたデイビッド様は、私達の顔を不思議そうに見ている。
「お義兄様!? デイビッドお義兄様!? ご無事ですか!?」
先程まで、自分のことしか考えていなかったキルスティン様は、デイビッド様が目を覚ました途端に、心配そうに駆け寄って来た。
あの男性が近付いて来た時、デイビッド様を盾にしたことを忘れているのだろうか。
「……デイビッド……?? それは、誰のことだ? 俺はいったい……誰なんだ??」
デイビッド様の発した言葉に、その場に居た全員が言葉を失った。
シードル侯爵邸へと、急いでデイビッド様を運び、医者に診てもらった。その間、ジョアンナが私の手を手当てしてくれた。
「湖から落ちた時に、桟橋で頭を打ったようです。記憶がないのは、頭を打ったことが原因だと考えられます。幸い、頭の傷は大したことがないようですが、記憶の方がいつ戻るかは……」
一度は呼吸が止まってしまったのだから、命が助かっただけでも感謝すべきなのかもしれない。
「どうして、デイビッドがこんなことに……」
顔を両手で覆いながら、悲しむフリをするローレル夫人。夫人を見ていたら、キルスティン様にそっくりだと思った。涙なんて、一滴も流していないところを見ると、キルスティン様の方が演技派かもしれない。
「本当に、何も覚えていないのか? 私は、お前の父だ。お前の兄であるグレイとアレン、お前の婚約者のエリアーナ。何か、覚えていることはないのか?」
シードル侯爵が、何か覚えていることはないのか尋ねても、デイビッド様は首を横に振る。父親のことも、兄弟のことも忘れてしまっただけでなく、自分の名前さえ覚えていないようだ。
「エリアーナ様のせいです!! エリアーナ様が、私とデイビッド様を湖に落として殺そうとしたのです!!」
キルスティンは、どうしても私のせいにしたいようだ。デイビッド様が記憶を失った今、あの男性が叫んでいた内容を知っているのは私だけだった。
アレン様は、私がシードル侯爵と会う約束をしていることを知り、邸に会いに来てくれたそうだ。使用人に、私があの湖に居ることを聞いて後を追って来てくれた。その時、私達が襲われているところを見て、助けようと駆け付けてくれた。ジョアンナとトロイは、アレン様の私の呼ぶ声を聞いて、何かあったのではと駆け付けてくれたそうだ。つまり、アレン様もジョアンナもトロイも、あの男性の言っていたことを聞いていないのだ。
「いい加減にしろ。あの状況で、なぜエリーが男の一番近くに居たのだ? 桟橋は、二メートル程の幅があった。それなのに、横に広がるならまだしも、縦に並んでいた。エリーが二人を庇ったのか、もしくはエリーを盾にしたかのどちらかだ」
静かに話してはいるけれど、アレン様の声は怒りに震えている。あんな一瞬で、そこまで理解してくれたことに感謝しかない。あの時、私は死ぬのだと諦めていた。アレン様の声が聞こえて、死にたくないと心の底から思えた。
「わ、私のことを、デイビッドお義兄様が庇ってくださって……」
援護して欲しいのか、ローレル夫人をちらちらと見ながら話す。ローレル夫人は、我関せずでただ傍観しているだけだった。
「もういい、皆出なさい。デイビッドを、休ませてやろう」
シードル侯爵は、デイビッド様を心配そうに見つめた後、部屋を出た。私達も、侯爵に続いて部屋を出ると、リビングに向かった。
こんなことになってしまったけれど、私はデイビッド様と婚約を解消したいとおじ様に話すつもりだ。タイミングがよくないのは分かっているけれど、覚えていなくてもデイビッド様にはハッキリ告げてあるのだから、早い方がいいと思った。
「おじ様、お話があります」
ソファーに座り、頭を抱えたまま、おじ様は「何だ?」と返事をした。向かいのソファーに腰を下ろし、深呼吸をして心を落ち着かせてから口を開いた。
「襲われる前、私はデイビッド様に、お別れしましょうと伝えました。明日、おじ様にお会いしてお話ししたかったのは、婚約を解消したいというお話です。私は、デイビッド様とは結婚出来ません」
おじ様はスっと立ち上がり、私の目の前まで来ると、私の手を握りしめて跪いた。
「おじ様!?」
驚いて立ち上がろうとしたけれど、怪我をしていない方の手をおじ様がをギュッと掴んで立ち上がることを許してくれない。
「エリアーナ……すまない! 頼むからもう少しだけ、もう少しだけ待ってくれないか!? デイビッドは、君を愛している! あいつが、記憶を取り戻す為には、君が必要なんだ!! 頼む!!」
おじ様が、こんなにも取り乱した姿を見たのは初めてだった。私の手を握りしめ、懇願するように頭を下げる。それほど、息子が大事なのだと伝わって来た。
「父上!? 無理を仰らないでください! エリーがどんな気持ちで決断をしたのか……。これ以上、エリーを苦しめるのはおやめ下さい!」
アレン様は、いつだって私のことを一番に考えてくださる。幼い頃から、ずっと……。
「少しだけでいいんだ! あいつの記憶が戻れば、すぐに婚約解消に応じる! もし……もしも、戻らなかったとしても、数ヶ月だけ、婚約者で居てやってくれないか?」
「おじ様……デイビッド様は、私を愛してなどおりません」
「君が、そう感じるのも分かる……。最近、キルスティンとばかり一緒に居たことは知っている。あいつにも、何か考えがあるのだろうと、放っておいた私の責任だ。だが、デイビッドは、エリアーナを愛している! それだけは、変わらない!」
おじ様が、どうしてそんなに自信を持って言い切れるのかは分からないけれど、私はもう、彼の本性を知っている。けれど、デイビッド様は自分が助かるために私を盾にしたことを、今のおじ様には話すことは出来そうにない。これ以上、追い討ちをかけたくないから。
デイビッド様が、記憶を取り戻せば終わる。記憶を取り戻さなくても、数ヶ月我慢すればいい。
関わりたくない気持ちもあるけれど、このまま終わらせてしまったら後味が悪いという気持ちもある。何より、おじ様には良くしてもらって来た。
「……わかりました。三ヶ月だけ、デイビッド様の婚約者を続けることにします。記憶が戻ったら、すぐに婚約解消していただきます」
私の出した答えを聞いて、アレン様は何も言わずに下を向いていた。私は、ずるい。アレン様はいつも、私の考えを尊重してくれるのを分かっている。だから、今も反対はしない。
私のことを思って、おじ様を止めようとしてくれたのに、ごめんなさい。
「ありがとう、エリアーナ! 本当に、ありがとう!!」
おじ様は、涙を流しながら何度も何度もお礼を言ってから、夫人と一緒にデイビッド様の部屋に戻って行った。
「……エリアーナ様って、意外と神経図太いのですね。私達の邪魔はしないと、数時間前に仰ったばかりなのに、デイビッドお義兄様が記憶を失ったのをいいことに、あっさり婚約者に戻ってしまうのですね」
戻りたくて戻ったのではない。
キルスティン様にそう言ったところで、無駄なのは分かっている。彼女にどう思われようと、どうでもいい。
「キルスティン、お前はまだ居たのか? 早く帰ったらどうだ?」
アレン様は、彼女の顔を見ることなくそう言い捨てた。
「え……? あの、私、どうやって帰れば? デイビッドお義兄様が、邸に迎えに来てくださったので、送ってくださらないと帰れません」
アレン様はキルスティン様を完全に無視して、私の前まで来ると手を差し出した。
「エリー、送る」
真剣な眼差しを向けて来るアレン様の申し出を、今回は断らなかった。
「お願いします」
私達が帰った後、キルスティン様はおじ様と夫人がデイビッド様の部屋から出てくるまでの五時間の間、リビングで一人、ずっとブツブツ文句を言いながら待っていたそうだ。
送ってもらった馬車の中で、襲って来た男性のことを聞かれた。アレン様は、十六歳で騎士の試験に合格し、今は王国騎士団に所属している。使用人に伝言を頼み、騎士の同僚に、あの男性の行方を探してもらっていると話してくれた。
「手は、大丈夫なのか?」
「痛みは少しありますが、血は止まっています。傷口も、消えると思います」
「俺がもう少し早く、駆け付けていたら……すまない……」
心配そうに、私の手を見つめる。
「アレン様が来てくださったから、私は死なずにすんだのです。絶望的なあの状況で、アレン様の私を呼ぶ声を聞いた時、どんなに心強かったか……。だから、ご自分を責めるようなことを仰らないでください」
アレン様には、全てを話すことにした。
男性が「キルスティン!! お前、俺を騙しやがって!!」と叫んでいたことも、デイビッド様が私を盾にしたことも。全てを話したら気が緩んだのか、涙が瞳から溢れ出してぽたぽたと落ちていた。
「エリー、もう大丈夫。怖くないよ」
優しい声で、何度も「大丈夫だよ」と言いながら、背中をぽんぽんと叩いてくれる。
懐かしい……。私が転んで泣いていると、いつもこうして慰めてくれた。私はこの手が、大好きだった。
デイビッド様の前では、泣いたことがない。けれど、なぜかアレン様の前でだけは素直に涙が出て来てしまう。
アレン様に、甘えてばかりいてはダメなのは分かっている。三ヶ月は、デイビッド様の婚約者で居なければならない。自分で決めたのだから、弱音を吐いてはいられない。
だけど、もう少しだけ……このままで……
「エリー! エリー、起きて」
「……アレン様?」
どうやら私は、あのまま眠ってしまったようだ。重たいまぶたを開けると、目の前にアレン様の顔があった。
「よだれ、垂らしてたぞ」
アレン様は、自分の口元を指差し、からかうように笑った。
「え!?」
慌てて口元を拭うと、アレン様は「嘘だよ」と言ってまた笑顔になった。
「からかわないでください!」
そうは言ったけれど、あんな目にあったというのに、アレン様のおかげで心が落ち着いていた。
翌日、朝からデイビッド様が邸を訪ねて来た。
「体調は、もう大丈夫なのですか?」
昨日の今日で、訪ねて来たことにも驚いたけれど、沢山のプレゼントを抱えていたことにも驚いた。
「君が、俺の婚約者だと聞いた。こんなに綺麗な人が、婚約者だなんて嬉しくて、君に似合いそうな物を贈りたくなったんだ」
この人は、いったい誰?
キルスティン様が義妹になる前のデイビッド様でも、何もない日に贈り物を持って現れたりはしなかった。照れたように笑いながら、頬を赤くしているデイビッド様を前にした私は、全身に鳥肌が立っていた。
「わざわざ、贈り物をする為にいらしたのですか? 頭を打ったのですから、お休みになっていないと」
「君は容姿が美しいだけでなく、心まで美しいのだな!」
記憶を失ったデイビッド様は、歯の浮くようなセリフを恥ずかしげもなく言うようになっていた。嬉しいなんて気持ちは、全くない。それどころか、まさかこれが三ヶ月続いたりはしないだろうかと不安になっていた。
「……庭で、お茶をいただきましょう」
とりあえず、私の目的は記憶を取り戻してもらうこと。話をするのが、一番だと考えた。
庭にあるテーブルに座ると、ジョアンナがお茶を運んで来た。彼女は事情を知っているからか、デイビッド様を見る目がものすごく冷たい。
「美しい婚約者と、美しい花々に囲まれながらお茶を飲んでいるとは、まるで天国にいるようだ。昨日の出来事は、父から全て聞いた。記憶を失ってしまったとはいえ、生きていて良かったと心から思う」
ジョアンナの冷たい視線には気付かず、お茶を一口飲んだ後、また歯の浮くようなセリフを言う。
「全て聞いたのでしたら、湖には私ではなくキルスティン様とお二人で行かれたこともお聞きになりましたよね? キルスティン様とは、お会いになったのですか?」
正直、私と居るよりも、キルスティン様と一緒に居る方が記憶は戻るのではと思う。
「キルスティン……ああ、義妹だったか。なぜ一緒に居たのだろう? 昨日騒いでいた女性だよな? 全くタイプではないし、彼女は裏表がありそうで苦手だな」
まるで関心がないように話す、デイビッド様。
散々キルスティン様の演技に騙されていた人から出た言葉とは、とても思えない。あれほど彼女を優先していたのに、記憶を失った途端、彼女から興味をなくしていた。
記憶がなくなると、こんなにも人が変わるのだろうか……
「そうですか……。デイビッド様は、どれくらい覚えていらっしゃるのですか?」
「実は、何も覚えていないんだ。自分が誰なのか、父上のことも兄達のことも、君のことも。ただ、君を見て居ると、ここが温かくなる」
優しく微笑みながら、胸に手を当てる。
少し、羨ましくなってきた。私も、あなたにされたこと全てを忘れられたらどんなにいいか。
デイビッド様が何も覚えていなくても、あなたの言葉の全てが薄っぺらく感じてしまう。
「もうすぐ、父が隣国から戻って来ます。お会いしたら、何か思い出すかもしれませんね」
私は今日、初めてデイビッド様に笑顔を見せた。
父が戻って来たら、全てを話すつもりだ。おじ様が、約束を破るような方ではないのは分かっているけれど、デイビッド様がどんな行動に出るか分からないからだ。
記憶を取り戻す手伝いはするけれど、我慢するつもりは毛頭ない。
「そう……か。婚約者の父親に会うというのは、緊張するな。もう少し、君のことを知ってから会うことにするよ」
彼は困ったように笑い、お茶を飲み干した後、急に真剣な顔でこちらを見た。
「先程の贈り物とは別に、君に渡したい物があるんだ。これを……」
「……これは?」
差し出された小さな箱を開けてみると、中には大きくて真っ赤な宝石が施された指輪が入っていた。
「俺の、今の気持ちだ。昨日、初めて君を見て、恋をした。婚約者だと知り、本当に嬉しかった。今までの記憶は失ってしまったけれど、これから沢山の思い出を作って行こう」
趣味の悪い派手な指輪を前に、彼の中身は変わっていないのだと確信した。言っていることや、やっていることは前とは別人だけれど、派手な物を好むところは変わっていない。
「お話し中、失礼致します。アレン様が、お見えになっています」
指輪を返そうとしたところで、ジョアンナが焦ったようにそう言った。後ろには、アレン様の姿がある。タイミングが悪かったと、ジョアンナは察しているようだ。
「彼女は俺の婚約者のはずですが、兄上は何をしに来たのですか?」
アレン様の姿を見たデイビッド様は、急に不機嫌になった。記憶を失っているはずなのに、不機嫌になった彼に違和感を感じる。
「エリーに、話があって来た。父上が心配していたぞ。早く帰って、安心させたらどうだ?」
私の前に置いてある指輪をチラリと見ると、アレン様までものすごく不機嫌な顔をした。
「デイビッド様は、お帰りください。おじ様を心配させるようなことは、控えてください。アレン様は、中にお入りください。お話を聞きます」
デイビッド様は納得がいかない様子で、事件の話だと伝えると「俺も一緒に聞く」と言ってきた。
記憶がない状態で聞いても、混乱するだけだと説得をし、ようやく帰ってもらうことが出来た。
デイビッド様を送り出した後、アレン様をリビングへとお通しし、話を聞くことにした。
「犯人が、捕まった」
アレン様は、ソファーに腰を下ろしてすぐにそう告げた。
「良かった……」
私の安堵した顔を見て、不機嫌だったアレン様の表情が穏やかになった。
「グレイ兄上が、今取り調べを行っている。すぐに自白するだろう」
「グレイ様が……ですか?」
グレイ様は、第二王子様に側近として仕えている。そのグレイ様が、直接取り調べをするとは……
「兄上も、エリーを心配しているんだ。エリーに傷を付けるなど許さん! って、自分から取り調べ室に乗り込んで行ったらしいよ」
「グレイ様は、変わっていませんね」
「そうだな。エリーに会いたがっていたよ」
グレイ様にもアレン様にも、デイビッド様との婚約が決まってからあまり会うことがなくなっていた。お父様が忙しくて寂しいだろうと、おじ様がいつも私のことを連れ出してくれた時が懐かしい。グレイ様はお兄様みたいで、デイビッド様は同じ歳なのに弟みたいだった。おじ様のことは、もう一人のお父様のように思っていた。そしてアレン様は……
「どうした?」
いつの間にか、アレン様の顔をジッと見つめていた。目が合った瞬間、顔が真っ赤になっていくのを感じる。
「む、昔のことを思い出して、ボーッとしていました!」
私ったら、焦りすぎ……
「昔のエリーは、可愛かったな」
わざとそんな言い方をするアレン様。すぐからかうところは、昔と全く変わっていない。
「今も可愛いです!」
「そうだな。エリーは、昔も今も可愛い。そうだ、これを……」
そんな優しい眼差しで素直に認められたら、何も言えなくなる。
「それは?」
「切り傷によく効く薬だ。痕が残らないように、毎日塗りなさい」
優しいところも、本当に変わらない。
「ありがとうございます。あの、アレン様にお願いがあるのですが……」
アレン様には、デイビッド様からのいただき物を全ておじ様に返して欲しいとお願いをした。私は、期間限定の婚約者。贈り物をもらう理由などない。
その翌日、お父様が隣国から戻って来た。
「その手は、どうしたのだ!?」
お父様は私の手の怪我を見て、卒倒しそうになっていた。落ち着いてから色々話そうと思っていたけれど、「すぐに話せ」と言われ、帰宅早々全てを話すことになってしまった。
私が話している間、黙って聞いてくれていたけれど、怒りで拳がふるふると震えている。
「……あいつ、どういうつもりなんだ!? ぶん殴ってやる!!」
「お、お父様!? ダメです!!」
お父様は温和な方だけれど、私のこととなると見境がなくなる。シードル侯爵家に乗り込もうとするのを、必死に止めた。
「それにしても、あのデイビッドが信じられん。あれほどお前を愛してると言っていたのに……」
「それは、どういうことですか?」
お父様にそんな話をしていたなんて、初耳だった。
十年前、お父様とおじ様が私の婚約者に選んだのは、アレン様だった。その話を聞いていたデイビッド様が、「エリアーナを愛しています!」そう何度も何度も言ったそうだ。それは、何日も何週間も何ヶ月も続いた。絶対に諦めようとはしないデイビッド様を見て、そんなに愛しているならと、彼を婚約者とした。
一番に手を挙げた……とは聞いていたけれど、必死に婚約者になりたいと説得していたなんて知らなかった。だからおじ様は、あれほど自信を持って言い切っていたのだ。
ただ、その話を聞いても、デイビッド様に気持ちが戻ることはない。それどころか、アレン様が婚約者だったら良かったのにと思っている。
「お前が我慢する必要はない。自分の身を守る為に、お前を盾にしたなど、俺がこの手で殺してやりたい! 婚約なんて破棄だ!」
「旦那様、それではエリアーナ様が我慢して来た意味がありません。お茶をお飲みになり、心を落ち着かせてください」
怒りのおさまらないお父様に、ジョアンナが落ち着くようにとリラックスするお茶を用意してくれた。ずっと近くで見ていたジョアンナが、一番私の気持ちを理解してくれている。
「お父様、この一件で私は強くなりました。私に、考えがあるのですが……」
お父様の話を聞いて、違和感の正体が分かった気がした。私の考えが正しければ、このままにしておくことは出来ない。何より、あれほど心配しているおじ様が気の毒だ。
「考えだと?」
「はい。婚約の件は、私に任せてください」
お父様は不満そうだったけれど、このまま婚約を破棄して、何も解決しないまま終わってしまうのは嫌だった。
私達の婚約は、三ヶ月、またはデイビッド様の記憶が戻るまで。それなら、三ヶ月もかからないかもしれない。
そして一週間後、行きたいところがあると、デイビッド様を呼び出した。
デイビッド様を呼び出した場所は、誕生日の日に行くはずだったあのレストランだ。
「デイビッド様、こちらです!」
他の席には誰も座ってはいないのだけれど、デイビッド様が姿を現した瞬間、笑顔で手を振りながら居場所をアピールした。
この席は、デイビッド様とキルスティン様が食事をしていた席だ。
「エリアーナから誘ってくれるなんて、嬉しいよ! それにしても、この店は客がいないね」
嬉しそうに椅子に座ると、辺りを見渡しながらそう言う。
「そうですね。静かで、いいじゃないですか」
このお店は、貸し切りにしてある。それを、デイビッド様に伝えるつもりはないし、二人きりで過ごすつもりもない。
「そうだな、乾杯しよう」
飲み物を頼んで乾杯をすると、幸せそうな顔でこちらを見ていた。
その時、店の入口のドアが開き、シルバ様とレイモンド様が入って来た。
「デイビッド? 奇遇だな」
シルバ様がそう声をかけると、デイビッド様が不思議そうに首を傾げる。そんなデイビッド様の様子を無視して、シルバ様は私達が座る席の隣の席に座った。
「俺達は、この席でいい」
二人を席へ案内しようとした店員さんは、「かしこまりました」と丁寧に頭を下げて、メニューを置いていった。
「二人の邪魔になるだろ。他の席に移ろう」
レイモンド様が慌てた様子で、シルバ様の腕を掴んで他の席に移動しようとしたところで、
「私達は、構いません。ねえ、デイビッド様?」
「あ、ああ、そうだな」
私達が了承したことで、レイモンド様は渋々隣の席に腰を下ろす。
シルバ様には、今日このレストランに来て欲しいと手紙を出していた。レイモンド様は、そのことを知らない。レイモンド様の様子から、デイビッド様が記憶喪失だと知っているようだ。おじ様は、誰にも知られないようにして来たと言っていた。それなのに、レイモンド様が知っているということは、デイビッド様が話したか手紙をもらったかだろう。それを、シルバ様には話していない。この時点で、答えはもう出ている。
デイビッド様は、記憶喪失などではない。
気まずい空気が流れる中、料理が運ばれて来た。
「わあ! 美味しそうですね! 誕生日に食べ損なったので、今日はたくさん食べてしまいそうです!」
あの誕生日の一件以来、大好きだったこのレストランに来ることが出来なかった。たくさん食べてしまいそうなのは、本心だ。
「今日は、二人だけなのか? 最近、デイビッドといつも一緒にいたうるさい女はどうした?」
レストランの入口のドアが開いたのを確認してから、シルバ様がデイビッド様に話しかけた。
「うるさい女……? ああ、キルスティンのことか。二度と会うつもりはないよ」
おじ様から、絶対に他の人には記憶を失ったことを話すなと言われている。つまり今、デイビッド様は、記憶があるフリをしていることになる。なんだか不思議な状況で、思わず吹き出してしまいそうになるのを必死に堪える。
「あんなに仲が良さそうだったのに、何があったんだ?」
シルバ様は、キルスティン様の悪口を引き出そうとしてくれている。
「あいつは、そもそも義母の娘というだけで、なんの関係もないからな。あの性格悪そうな顔を見ただけで、吐き気がする」
少し聞いただけで、かなりの悪口を言えてしまう彼。私のことも、そんなに風に悪口を言っていたのだろうと想像がつく。
「なんですって!? 私の美しい顔を見て、吐き気がするなんて頭がおかしいんじゃない!?」
先程お店に入って来たのは、キルスティン様だった。彼女がお店に入って来たのを確認してから、シルバ様はわざとデイビッド様に話をさせていた。キルスティン様にも、このレストランに来るように手紙を出していたのだ。
店員さんは、「困ります……」と、控えめに言いながら全く止めるつもりはない。店員さんにも、協力してもらっている。
「お前……なんで、ここに居るんだ!?」
やっぱり、彼の本心を引き出すためには彼女は必要だ。
「デイビッドお義兄様こそ、なぜエリアーナ様と一緒に居るのですか? 私のことを、あれほど可愛い可愛いと仰っていたではありませんか! 『エリアーナは可愛げがない』からと、私にベッタリだったくせに!」
私の悪口を、キルスティン様に言っていたようだ。
二人のやり取りを見ながら、美味しいお肉をパクリ。自分の悪口を目の前で言われているのに、次々にお肉を平らげていく。随分と、神経が図太くなっていたようだ。でも、美味しいのだから、仕方がない。
「お前は、お世辞も分からないのか!? その顔で可愛いと言われて、本気にするとは正気ではないな!」
キルスティン様に言われっぱなしは我慢出来なかったのか、記憶喪失設定を忘れて言い返すデイビッド様。
「お、おい、デイビッド……」
不味いと思ったのか、レイモンド様が止めに入るけれど、二人の言い合いは止まらない。
「な!? そんなショボイ顔のデイビッドになんか、言われたくないわ!」
とうとう呼び捨てになった。
「お前よりは、マシだ!! 貧乏男爵家の分際で、俺に逆らうつもりか!? お前なんかを可愛がっていたのは、昔のエリアーナを思い出したからだ! もちろん、美しいエリアーナとお前では容姿は比べ物にはならないけどな!!」
記憶があることを、自白してしまった。
レイモンド様は頭を抱え、キルスティン様は口をパクパクさせている。キルスティン様も、記憶喪失のフリをしていたことは知らなかったようだ。
「お前……!! 騙していたのだな!?」
怒りのこもった声で、お店の別室から姿を現したのはおじ様だった。その後ろから、お父様とグレイ様、そしてアレン様が姿を現す。
デイビッド様がこのレストランに姿を現す前から、皆さんには別室に隠れて話を聞いてもらっていた。
「ち、父上!? これは、違うんです! これは……」
真っ青な顔になりながら、 言い訳を必死で考えようとするデイビッド様。そんなデイビッド様に、ゆっくり近付いていくおじ様。
「いい加減にしろっ!!」
おじ様はデイビッド様を、思い切り殴りつけた。大きな音を立てて彼は吹き飛ばされ、床に転がる。
「お前はどれほど、嘘を重ねるつもりなのだ!? エリアーナを傷付け、盾にまでしたそうだな? お前がエリアーナを愛しているのだと、ずっと信じて来たのに……」
どうやら別室に隠れていた時に、湖でのことを聞いたようだ。
おじ様は、本気でデイビッド様を信じていた。裏切られ、怒りの表情を浮かべながらも、こぼれそうなほど目に涙が浮かんでいる。
「エリアーナ……エリアーナ、本当にすまない!! すまない……」
おじ様は、何度も何度も謝りながら、床に頭をこすり付けた。
「おじ様、頭をあげてください!」
おじ様を、苦しめたいわけではない。
「デイビッド様、そろそろ全てをお話しいただけますか?」
お父様がおじ様を椅子に座らせ、皆が席に着く。デイビッド様はゆっくり立ち上がり、切れた唇の端を拭いながら、観念して全てを話し始める。
「……俺は、ずっとエリアーナが好きだった」
デイビッド様は、いつも私を見ていた。グレイ様を兄のように慕い、アレン様のあとをずっと追いかけて行く私を。
確かに幼い頃、私はアレン様の側から離れなかった。優しくて何でも知っていて、お父様のお仕事が忙しくて寂しい時もアレン様は『俺が居るから』といつも頭を撫でてくれた。デイビッド様も好きではあったけれど、彼との思い出はそれほどない。
そして八歳の時、お父様とおじ様の間で婚約の話がまとまろうとしていた。その話を聞いたデイビッド様は、『絶対にエリアーナを自分の婚約者にする』と心に決めたそうだ。それから毎日、おじ様を説得しようと、『エリアーナを愛している』と言い続けた。
そこまでは、お父様が話してくれたことで何となく理解はしていた。問題は、その後だ。
「私の誕生日のあの日までは、デイビッド様は誠実でお優しい方だと思っていました。どうして、別人のようになってしまわれたのですか?」
デイビッド様は、キルスティン様に会われてから変わったように思えた。
「キルスティンを、幼い頃のエリアーナに重ねていたんだ。アレン兄上に向けるエリアーナの眼差し、俺には一度も向けてくれたことがなかった。もちろん、キルスティンの眼差しはそれとは違っていたけれど、『お義兄様、お義兄様』と、懐いてくるのが嬉しかった。本当はあの日、謝ろうと思っていたんだ……だが、邸に帰ったら、お前はアレン兄上と楽しそうにしていた。お前と居るより、エリアーナの姿を重ねたキルスティンと居る方が楽しくなっていた。それに、エリアーナがヤキモチを妬いてくれたら……そんな風にも思っていた」
デイビッド様の話を黙って聞いていたキルスティン様の顔が、悪魔のような形相になっていた。どうやら彼女は、デイビッド様の気持ちに気付いていなかったようだ。
ただ、その説明だと、私を盾にしたことと矛盾している。愛していたのなら、なぜ自分の身を守る為に私を犠牲にしようとしたのか……。
「デイビッド、そこまでは分かったが、襲われた時、なぜ娘を盾にした?」
私が聞きたかったことを、お父様が代わりに聞いてくれた。怒りを抑えながら、冷静でいようとしてくれている。
「……あの時、エリアーナに別れを告げられました。しかも、今まで見たことのない笑顔を向けられた。それほどまでに、俺と別れたいと思っていたのかと怒りが込み上げて来て……その時、あの男が剣を持って現れ、このままエリアーナをアレン兄上にとられるくらいならと……」
「それで私を、盾にしたのですか?」
あまりにも身勝手な理由。
「それは、すまないと思っている。だから、もう一度最初からやり直せば、俺達は昔のアレン兄上とエリアーナみたいになれるんじゃないかと思ったんだ」
彼が悪いと思っているのは、私を盾にしたことだけだった。散々私を傷付けてきたことを、これっぽっちも悪いとは思っていない。それどころか、自分は被害者だと思っているようにさえ見える。
確かに私は、幼い頃からアレン様が好きだった。アレン様に対して、特別な感情を抱いていたことも事実だ。そのせいで、デイビッド様は傷付いていたのは分かった。分かったけれど、そもそも私達の婚約を邪魔したのはデイビッド様だった。
それを知らずに、婚約者だからと、デイビッド様を愛そうとして来た。自分の思いは封印し、デイビッド様の婚約者として頑張って来たつもりだ。それでも彼は、満足していなかった。
デイビッド様は、私を愛していたわけではない。アレン様を好きな私が、好きだっただけだ。
「記憶喪失のフリをすれば、最初からやり直せる? デイビッド様は、どこまで自分勝手なのですか? 例え本当に、あなたの記憶が全て消え去ったとしても、デイビッド様を愛することはありません。あなたが愛していたのは、私の幻影です。絶対に手の入ることのない、アレン様を想う私の幻影」
もう、自分の気持ちを隠すのはやめた。
デイビッド様の婚約者になった日から、自分の気持ちを封印して来た。確かに、他の人が心の中に居たのは事実だけれど、忘れようと努力したし、デイビッド様の良い婚約者になろうと努力もした。彼は、そんな私を愛しては居なかった。
「エリ……エリアーナ、俺を見捨てないでくれ! 俺は、君なしでは生きていけない……」
何を言われようと、同情さえすることもない。
「いい加減にしろ。お前には、エリアーナの側に居る資格はない。エリアーナ、本当にすまないことをした。婚約は解消とし、慰謝料を払わせて欲しい。デイビッド、お前をシードル侯爵家から追放する」
おじ様も、デイビッド様を見限ったようだ。
記憶を失ったと思っていた時は、あれほど心配していたのだから、おじ様はものすごく辛いはず。それでも、容赦なく切り捨てると覚悟を決めたようだ。
「ち、父上!?」
おじ様の表情を見たデイビッド様は、本気なのだと悟ったようで、呆然とその場に立ち尽くしていた。
「ふふっ! いい気味ね。私のことを侮辱した報いよ!!」
キルスティン様は、デイビッド様の破滅した姿を嬉しそうに眺めていた。そんなキルスティン様にも、反省してもらわなければならない。
「キルスティン、お前には複数の容疑がかかっている」
グレイ様は私の心配をしてくれて、わざわざこの場に来たわけではない。もちろん、心配はしてくれているけれど、本命はキルスティン様を捕らえることだった。
「はあ!? 私が、何をしたというの!? このクズ男に、いいように使われただけじゃない! ふざけないでよ!!」
令嬢とは程遠い、乱暴な話し方。これが、本来のキルスティン様の姿。
デイビッド様とお別れする為に、一週間の期間を置いたのには理由があった。私達を襲った男性から、全てを聞き出す為。男性はグレイ様の厳しい取り調べに、すぐに供述を始めたが、彼の証言からキルスティン様の悪事が全て明らかになった。裏付けも既に、取ってある。
キルスティン様は、たくさんの男性……主に、貴族令息から、お金を騙し取って来た。しかも、婚約者のいる者ばかりを狙っていた。婚約者よりも自分を選んでくれることが、何よりも快感だったようだ。被害者は、数十人にも及んだ。
襲撃して来た男性は、被害者の一人だった。キルスティン様に誘惑され、全財産を貢ぎ、婚約者とは婚約破棄をし、多額の慰謝料を請求され、何もかも失った挙句にキルスティン様に捨てられた。恨みたくなる気持ちは分かるけれど、婚約者が居ながら他の女性に手を出した男性の自業自得だった。
「私は何もしていないわ!」
そう叫び、レストランから出て行こうとしたキルスティン様は、外で待ち構えていた兵士達によって捕らえられた。
ローレル夫人も、キルスティン様と同じようなことをしていたことも判明していた。すでに夫人は、兵に捕らえられ、取り調べを受けている。
気の毒なのは、おじ様だ。デイビッド様だけでなく、妻まで失うことになってしまったのだから。
「おじ様、お願いがあります。慰謝料はいりません。ですから、アレン様と婚約したいのです」
「エリー!? それは……」
慌てるアレン様。
アレン様の性格は、私が一番よく知っている。デイビッド様のことで責任を感じて、彼からは決して私との婚約を言い出したりしないと思った。
「私はもう、我慢したくないのです。デイビッド様との婚約が決まった時、自分の気持ちを正直に話しておけば良かった。私は、アレン様が好きなのだと、はっきりとお父様とおじ様に言っていれば、こんなことにはならなかったかもしれない」
子供の恋心なんて、すぐに消えるものだと言い聞かせて、決まったことだからと諦めてしまった。
もう遠回りはしたくない。
「それは、俺から言おうと思っていたんだがな。俺の方こそ、我慢したくない。エリーが危険な時に、側に居てやれない……そんなのは、耐えられない。一番近くで、エリーを守り続けて行きたい」
アレン様の性格を、よく知っている。
知っているからこそ、私を選ばないと思っていた。彼は思った以上に、私のことを想って居てくれたのだと知った。
「お前達の気持ちは、分かった。いいよな? ベニー」
お父様は、おじ様の背中を力いっぱい叩いた。
「ゴホッ! ゴホッゴホッ! 力強過ぎだろう……。息子を選んでくれてありがとう、エリアーナ」
おじ様は、やっと少しだけ笑顔を見せてくれた。
「え、残念。デイビッドの婚約者じゃなくなったら、俺との婚約を考えてもらうつもりだったのに」
無表情な顔で、そう言うシルバ様。本気なのか冗談なのか、私には判断出来なかった。
「悪いが、エリーは誰にも渡さない」
シルバ様から私を隠すアレン様。
こうして私達は、婚約することになった。
デイビッド様は平民となり、邸から出て行った。自分を見つめ直す為に、旅に出ると言っていたそうだ。
「エリアーナ様、デイビッド様からの手紙を預かっております」
シードル侯爵家の使用人から、デイビッド様からの最後の手紙を渡された。手紙には、心から反省していることが書かれていた。そして、『さようなら』と。何もかも失ったことで、彼は自由になれたのかもしれない。
キルスティン様は、今まで騙して来た被害者達に、多額の慰謝料を支払うことになった。男爵は養子を取り、その子に爵位を継がせると決めた。そしてキルスティン様は、慰謝料を払う為に年の離れた商人の愛人になった。本妻からは虐められ、もう二度と誰かを誘惑しないように、邸から一歩も外に出してもらえないそうだ。ローレル夫人は懲りもせずに、次の嫁ぎ先を探して、貴族や商人に近付いているらしい。誰にも相手にされず、キルスティン様が愛人になった商人まで誘惑しているという噂だ。
「ここに来ることは、もうないと思っていた」
アレン様にお願いして、あの湖に連れて来てもらった。湖を眺めながら、不安そうに私の顔を見る。
「ここは、大切な思い出の場所です。怖い思いはしましたが、大切な場所であることは変わりません」
もうダメだと思った時、アレン様の声が聞こえたのを思い出す。
アレン様の手が、そっと私の手を握る。手を繋いだまま時が経つのも忘れて、私達は湖を眺めていた。
「肌寒くなって来たね。そろそろ帰ろうか」
冷たい風が頬をかすめる。
「そうですね……」
そう返事をしてアレン様の顔を見ると、優しい眼差しで私を見つめていた。
「もしかして、ずっと私を見ていました?」
湖を見ているのだと思っていたのに、彼は私を見ていたようだ。
「一分でも一秒でも長く、君を見ていたい。エリーが側に居ることが、まだ信じられないんだ」
私もまだ、信じられない。
「それなら……」
背伸びをして、彼の唇にそっと自分の唇を重ねる。チュッと音を立てて離れると、アレン様の顔が真っ赤になっていた。
「実感、湧きました?」
「まだだ……」
いたずらっぽい笑みを浮かべた私に、アレン様は甘い甘いキスをした。
END