朝まずめの先客
気分転換に
メタル石川というのはギターを掻き鳴らし頭を振る四十がらみの男のことではなく、そもそも人間でも無い。八つ頭埠頭、七番目の頭の辺りに広大な敷地を持つ非鉄金属スクラップ業者だ。
私は仕事が終わるとそのメタル石川(株)の近く、埠頭の付け根の部分に自転車をとめ、真っ暗な海を眺めながらダラダラと過ごす。それも週に何回もだ。もはや儀式と言ってもよい。
迂闊にもこの件について同僚の山田女史に話したところ、「えっ、なんでそんなことしてるんですか?」「何となく、あの場所に惹かれるんだ」「キモい」と感想を頂きました。それ以降、この儀式は秘匿され、ひっそりと行われることになった。
さて、八つ頭埠頭で日付が変わる瞬間を迎えた時のことだ。ある思い付きが私を支配した。それは変態的な妄執という訳でもなく、ただ夜明けをここで迎えようという平凡で平和で早起きが必要なものだ。
そうと決まれば早く帰って寝るがよいに決まっている。夜半過ぎ、自転車を立ち漕ぎする男の姿が観測されたという。
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寝坊したのがいけなかった。
真っ暗なうちから八つ頭埠頭に居て、徐々に空が白んでいくのを眺めているつもりだった。実際にはもう朝が半目を開けていて、メタル石川の脇には私とは別の自転車がとめてある。そしてこじんまりとしたレジャーシートとその上に女の姿があった。
ははん。これは寝坊ではなくまだ夢の中だな。そうに決まっている。このような偶然があるわけ無い。昨晩の思い付きを横取りしたように座る女はきっと脳内で作り出した妖の類いで──。
「ごちゃごちゃ煩い」
「はい、ごめんなさい」
おう。脳に直接届くような声だ。思わず謝意が溢れ出た。
「側に立たれていると落ち着かないわ。ここに座りなさい」
「失礼します」
慎ましいサイズのレジャーシートに2人が座ると袖が触れ合うとまではいかないが、まぁ、近い。チラリ女の様子を伺うと、私と同じく20代後半に見える。
「おはよう」
「おはようございます」
女の手元には随分と年季の入った文庫本があった。水にでも浸かったのか、表紙は随分と滲んでいる。そして不思議なことに女は頁をめくらない。本を読むフリをして、ただ阿呆のように海を眺めている。まるで儀式中の私のようだ。
「何?」
「何も」
「貴方、メタルの社員じゃないわよね?」
「はい、違います」
「石川とは関係ないのよね?」
「全くの無関係です」
「本当? ちなみに好きな金属は?」
「鉄です」
「……いいわ。信じてあげる」
「メタル石川の社員と何かあったのですか?」
「一度、小便をかけられたことがあるの」
「えっ」
「……冗談よ」
「びっくりしました。ところで、いつもここに?」
「そうね。いると言えば、いるわ」
「私は夜、よくここにいます」
「今は朝よ。朝よね?」
「ええ。間違いなく朝です」
「何故来たの?」
「思い付きです」
「ふーん」
女はまた視線を海に戻した。私も女に倣って海を見る。波はなくひどく平坦で真面目だ。幾つもの船を呑み込んだ姿は見当たらない。今なら海面を歩いて渡れそうだ。
どれくらい居ただろう。不意に女が立ち上がり、つられて私も立ち上がった。レジャーシートは手早く畳まれ、生成色の手提げ袋に仕舞われる。
「そろそろメタル石川の社員が出勤してくるわ」
「随分嫌っているんですね」
「碌なもんじゃないもの」
そう言って自転車のスタンドを跳ね上げ、こちらをじっと見てくる。一人で勝手に残ることは許されないようだ。はい、ただいまと手前の自転車のスタンドも上げて女の横に並ぶ。
「行きましょう」
「へい」
いつの間にか手下にでもなった気分で自然と返事も遜る。
すっかり夜は明けているが、肌に当たる空気はぴりと冷たくて心地よい。ただその感触を楽しみながら進んでいるとしっかり目が覚めてきた。
「こっちよ」
交差点でアスファルトにふわり足をつけた女は私の行く先とは違う方に自転車を向けた。
「では、お疲れ様でした」
「あれ? 来ないの?」
「残念ながら、そちらではないので」
ムッとした女はスーッと行ってしまった。ペダルも漕がずに。
女が行くと、急に音が耳を突くようになった。今まで聞こえなかった社会の始動音が喧しい。慌てて腕時計を見るが、ホッと安心。まだ7時だ。
このまま職場に行くのは流石に早い。何処で時間を潰そうか考えていると、不意に不安に襲われた。何か忘れ物をした気がする。先程までどうにもぼんやりしていたのだ。何を置いてきたのかは判然としないが、妙にひっかかる。慌てて自転車を漕いで八つ頭埠頭、七番目の頭の辺りに戻る。
ふむ。特に忘れ物はない。しかし綺麗に丸い石が目に入った。あれは女の座っていた辺りだ。
ははん。さては冗談ではなかったな。
ちょうどやってきた野良犬が石に向かって小便をひっかけた。悲鳴のようなものが脳に届く。仕方がない。私はペットボトルを取り出して石に水をかけ、両手を合わせた。