ダイダイ(4)
3
日が登り、離れにいた二人はダイダイがいるであろう部屋に向かった。
庄司を開けるとそこには、部屋の隅で震えているダイダイがいる。
「ダイダイ……」
アキ子が近寄ろうとしたのを小鳥遊は止めた。
顎で指し示すのは、ざっくばらんに切られた髪と霜焼けでぱんぱんに腫れ、土で汚れた足であった。アキ子は驚いて小鳥遊を見た。
ダイダイは大きな体を小刻みに揺らし、悲痛な声をあげている。
「おひいさんを苦しめたんはお前か?」
小鳥遊の問いかけにダイダイは声を上げるだけで応えない。
「苦しむおひいさんが見たかったがか?」
けれど、小鳥遊の言葉を止めたのはアキ子であった。
「いいんです。小鳥遊さん。……ねぇ、ダイダイ。私は、この事を黙っています。全ては私の勘違いとします」
今にも泣きそうな顔を無理やり笑んで見せながらアキ子は言った。
「だから、気にしないで」
そう続けた瞬間、ダイダイがアキ子に飛びかかった。
小鳥遊が番傘を開かなければ、きっとアキ子は刺されていただろう。
紅い和紙の向こうで、番傘に直撃したダイダイが鬼の形相で泣いている。
細い目から大粒の涙を流し、不揃いな歯をギリギリと鳴らし、霜焼けに腫れた素足で床を叩く。反動で包丁が床に落下したのか、それでも彼女は傘を掴み、壊そうとしている。
「そうやって、いつだってアンタは私を哀れに思うのよ!」
嗄れた声は大きく、静まり返った朝に響いた。
「私を見てバカにしていたんだ。ずっと、ずっとずっと!」
アキ子はダイダイの声の大きさにも驚いてはいたが、彼女の憎悪たる声に涙を溢れさせた。
「なにが、辛いだ。悲しいだ! たかがそんなことで!」
ダイダイはそう叫びながら小鳥遊の番傘を壊そうとする。
「私を笑っていたんだ!」
「そんなこと……っ!」
と、アキ子は言うが、ダイダイの怒号にかき消されて反論さえも許されない。
「何が人間の中身を見ただ! 私はお前なんかよりも倍見ているのに!」
嗚呼、と小鳥遊は思う。
傘の先から見えるそれはなんと醜いことだろう。そして後ろにいる女のなんと美しいことか。
同じ”泣く”という行為でも、皮によって抱く感情がこうも異なる。
ダイダイは常日頃からアキ子に嫉妬していたのだろう。
綺麗で無垢なアキ子によって、グツグツと煮えたぎる重湯を幾度となく飲まされたのだろう。それで内から癒えない傷を溜め込んだ。
「けんど、心まで醜うなったらいかんちや」
小鳥遊はそう言って、傘を素早く閉じるとダイダイの鳩尾を突いた。いくら肉を纏っていても、そこは人間の急所には変わりない。
怒りに我を忘れたダイダイは、そんな攻撃がくるとは予想していなかったのだろう。
彼女は後ろに吹っ飛び、胃の内容物を出しながらその場に崩れ落ちた。
倒れる瞬間、ダイダイは能面のような顔のままニンマリと口を開けた。
その視線の先にはハラハラと涙を流すアキ子がいる。
「お嬢さんは……困ってる姿も愛らしいんですね……」
それは小鳥遊が持つ刀よりも鋭い言葉であった。
きっと、守る対象が泣いている対象がダイダイであったなら話は別だろう。
彼女が泣いても困っていても手を差し伸べる人はいるのだろうか。もし、いたとしても、それは美しいこのアキ子がいるせいでは無いのだろうか。
小鳥遊はダイダイが気絶したことを確認してからアキ子を見た。
「生き霊を知っちゅーか? 人の念が形になって飛ぶがよ。……けんど、コイツの念は常に内に籠っちょった。溢れる念は形を歪ませて、本物を乗っ取った」
そこまで言って小鳥遊は「いんや」と首を横に振った。
「乗っ取る、ち言うのはおかしいのう。それも本人に変わりはないき。ただ、隠いちょった気持ちが表に出てしもうた。それだけの話ぜよ」
「ダイダイは……私を殺したい程、憎んでいたんですね」
アキ子は泣きながらダイダイを見ていた。
悲しい訳では無い。近くにいたダイダイの心を気が付かなかった自分に嫌気がさして涙が溢れているのだ。
「私は、人が醜いと言いました。何も分かっていない表面ばかりだと。それは、私自身もそうなんですね。私は……知らない間にこの子を追い詰めていた」
「人はどこで傷つくかわからん。分かったらそりゃ人じゃのうなっちょる」
騒ぎを聞き付けた家の者達もただただ黙って気絶しているダイダイを見ていた。
吐瀉物にまみれ、足は汚れ、髪は乱れ。その有様を見て誰がどう思うか、それこそ誰も分からないことであった。
目覚めたダイダイは、最初のうちは混乱していた。だが、周囲の人間を、そしてアキ子を見、自身が何をしたのか瞬時に理解したのだろう。
後日、遺書を残して川に身を投げた。遺体はあがっていないが、おそらく死んだのであろうと結論づけられた。