ダイダイ(1)
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「これはダメだネ」
その一言と同時にここ数日徹夜して作り上げた原稿は水疱に帰す。
「そ、そんな。先生が仰る通りに修正したんですよ?」
「それがダメなのだよ。小鳥遊クン」
先生と呼ばれた男はそう言い、自分の顎を撫でる。
彼の目の前にいるのは遠方から遥々やってきた目の前にいる書生。見事なまで己に従順であった。
男がへこへこしている様を見るのは時折無性に腹が立つが、それでもコイツを使いこなせているという優越感も抱かせてくれる。
「文芸というのはね、奇妙キテレツでなければいけないのだ。小鳥遊クン。躍る、打たれるべきソレを言われた通りにやってみたとあっては、何も動かない。それにキミの話である推理物ならば、益々問題だネ」
そう言ってれば書生の小鳥遊はがっくりと肩を落とした。ぶ厚いレンズごしに見える大きな鳶色の目が失望と諦めを滲ませている。
彼の作品は、まだ一作品も世に出ていない。というのも、お国の方言が強く、なおかつ読者に共感され難い独特な文体が問題だ。
彼は頭が良いのだろう。と、読み手は思う。
現にこの先生と呼ばれる男でもそう思うのだ。数学が出来るなどといったことではなく、閃きというのがある。
「この登場人物はどういった経緯でこう発言したんだい?」という問いかけに対し、彼は本当に分からない様子で「どうしてこんな分かりやすい文章を理解できないのですか? ここに書いてあるではありませんか」と言ってみせた。
あまりにも無礼なそれに火鉢をひっくり返そうかと思う程であった。
言われてみなければ分からない。改めてじっくり読み返してみると、見落としても仕方がない文字の羅列がそこにはあった。思考を巡らせなければ、その発言に辿り着けない。それを小鳥遊は読者に読み解けと言う。
「そう気を落とさないでくれよ、小鳥遊クン。いつか開花するものがあるさ」
「それはいつでしょう?」
「小鳥遊クン。キミ、次第だよ。……でだ」
そう言って書生の師は机の上に置いた手紙を掴む。
「何事も体験というのが大事ではないかね。味を知らぬのに食を書くのは不可能だ」
「と、言いますと?」
「キミ宛に宮野のお嬢さんから手紙が来ている。相談に乗って欲しいことがあるそうだ」
相談に乗るという言葉を聞いて小鳥遊は硬直する。
この先生を介して送られる頼み事にろくなものはない。
副業として引き受けて入るものの、問題なのはその内容だ。
「数日、キミを貸して欲しいと言われてね」
「けんど」と、言って小鳥遊はとっさに口を閉じた。
お国の言葉使いというやつが出てしまったからだ。それのせいで周囲からからかわれることが多い。
「けど、先生。僕は執筆作業がありまして……」
「小鳥遊クン。弘法筆を選ばずという言葉があるじゃないか。たかが土地が変わっただけでキミは筆を止めてしまうのかネ? いやいや、そんなことはないだろう。……そう、あってはいけないものだ。宿で執筆というのも趣があっていい事じゃないかネ? え?」
その言葉の裏から断れる状態ではない、と小鳥遊でなくてもわかるだろう。
小鳥遊は今にも溢れそうな不平不満、そういった類の言葉たちを飲み込み、手紙を受け取った。
「明日の朝、向かいなさい。相手はなんたって――……」