ハンケチ(4)
6
逢魔時。
「ただいま、戻りましたよ」
不意に声がした。
玄関に人影が突然映る。
「ただいまァ」
その人影は女のように思える。
「お土産を持ってきたよ。両手が塞がってねえ。開けてぇ」
小鳥遊はそろそろと居間から出て玄関前に向かった。
震える手に力を込め、番傘の――刀の柄を握る。
「ただいまァ」
影は小鳥遊の存在に気が付いたのかさらに声を大きくした。
「家をまちがえちょる」
一度、深呼吸をしてから小鳥遊は言った。
腹から声を出しているつもりだが、声が震えているかはわからない。
「そんな事ありませんよ」
「いや、違う。まちがえちょる。去ね」
「そんな事ありませんよ」
「おまんは誰じゃ」
「まささんの妻ですよ」
「おまんは誰じゃ。名乗れ」
「まささんの妻です」
「まささんとは誰じゃ」
「まささんはまささんです」
「名前を言えといっちょる」
「まささぁああん! わたしですよ!」
痺れを切らしたのか、突然ばんばんと戸が叩かれる。
悲痛な、けれど吠えるような声は静まり返った家中に響き渡る。
「まささんなんて者、ここにゃおらん」
小鳥遊の言葉を否定するかのように、戸が強く叩かれる。
人の手の影が、何度も何度も戸にぶつかる。
「どういた? 名を言えんかよ」
戸を叩く手は、次第に歪み形を変える。それは強い力ゆえか、はたまた手の形をした何かが元々柔らかいものでできているかはわからない。
五本の指がひしゃげて、ぼろりと落ちて手のひらはいつのまにか拳の影に形を変える。
ごんごん、とぶつかるのは手ではなく頭に変わった。
声は開けて開けてとばかり言い続け、小鳥遊の質問には答えない。
「おまさん、夫の名も言えぬかよ」
声は叫ぶ。
「迎えにきたんですよ」
「……切られたくなければ去ぬれよ」
「時間がないのよお。迎えに、ね。迎えにあがりましたよ」
あれほど注意したのに居間の奧から啜り泣きが聞こえた。すると、小鳥遊が触れてもいないのにかちりと鍵が開いた。
「も一度言う、去ね。逝くべき場所に逝け」
小鳥遊は抜刀の体制に切り替える。指先がすっかり冷たくなっている。
ガタガタと音を立てて戸が、ゆっくりと開く。
「迎えにあがりましたよ」
そして――……。
7
一家の前に小鳥遊は足を進めた。一家はみな顔を伏せ、己の手で口を抑え泣いている。
「えいぞ。終わった」
そう言うと、わっとみなが泣き出した。
「小鳥遊さん」
そう言った夫は、小鳥遊の姿を見てギョッとした。
小鳥遊の顔は涙と鼻水でぐちゃぐちゃになっている。彼の顔を見て小鳥遊は気が付いたのだろう、慌てて着物の袖で乱暴にそれらを乱暴に拭う。
「人を切ったんですか?」
「違うと言えば違う。そうと言えばそうだ」
小鳥遊がそう言った瞬間、彼の膝が笑いそしてどかりと彼は座った。そして彼は絞り出すかのような声で「怖かった」と呻いた。
「それで……、どうなったんですか」
「まだ終わっとらん」
小鳥遊はそう言って咳払いをした。
「明日の朝、塩を持ってきてわしと出掛けとおせ。みなじゃ。三十分もかからんき、すぐにおわる。そうすればこの件は全部しまいにゃ」
それを拒む者はいない。
一家は涙と鼻水でぐしゃぐしゃにした小鳥遊にそうとう同情したのだろう、家族は泊まっていけと言い、彼に夕飯だけではなく風呂と布団をも提供した。
皆が怖い思いをし、同じ部屋で寝る事を誰もが拒否せず同意した。
「小鳥遊さんは、坊さんなの?」
夕飯を食べ終わった正は和傘の調整をしている小鳥遊を見に訪ねた。
あれほど怖い顔をしていた小鳥遊が子供のようにボロボロと泣いていたことにショックだったのと同時に親近感が湧いたのだろう。いつの間にか正は彼に心を許している。
小鳥遊もは一度番傘から目を離し、きょとんとした顔で正を見た。
「いんや、わしは違う。わしゃ、書生よ」
「このことも書くの?」
「どうじゃろうな。書きたいといえば、書きたいが……」
そう言って小鳥遊は身を震わせた。
「怖くてかなわん」
「勝てたのに?」
「あんなぁ」
小鳥遊は呆れるような笑うような声で言う。
「怖いから勝つしかなかった。負けたら死んじょった。わしだけじゃない、おまさんらも。だから怖くても勝つしかない」
「僕も戦えばよかった?」
「いんや、無理に喧嘩をしかけたらいかん。いらん怪我して母を泣かせちゃいけんがよ。そういう時はな、慣れてる奴に頼むのが一番えい」
「小鳥遊さんみたいな?」
「勘弁しとおせ」
小鳥遊が困り果てた顔で笑ったので、正も釣られて笑った。
「さ。寝るとえいよ。今日はみなで寝るち言う話じゃった。なんも怖がらんでえい」
「怖い夢をみたらどうしよう」
「ほいたら……。ハサミはあるか?」
子供は頷いて立ち上がったが、すぐに小鳥遊を見た。怖いから部屋までついてくれとせがむ目に彼は負け、ゆっくりと起き上がった。
「ハサミでどうするの?」
「これはなぁ、縁を切ってくれるがよ。大事にされた分だけ悪い縁を切ってくれる。だからな、悪い夢を見させんで下さいち思いながら頭の側に置くとえい」
「ハサミが?」
「そう。ハサミがよ。ほいでも悪い夢を見るならそのハサミは大事に使われんで鈍ってるかもしれんき、大事に使ってやればえいにゃ」
正は半信半疑で己が持ってきたハサミを見ている。そうして、小鳥遊を見て頷いた。
「でも、寝るまでいてね」
「ほにほに」
「小鳥遊さんは明日帰るの?」
「わしにも家があるがよ。……明日で全部解決するき、なぁんも心配はいらん」
「明日から一人で寝なくちゃだめかな」
「おまさんは母たちと一緒に寝てもかまわん。それは恥じゃない。母たちもおまさんを一人で寝かせると気が気で寝れん」
「僕が子供だから?」
「そう。連れて行くにはちょうどいい大きさよ」
小鳥遊はあからさまに意地悪そうな顔をして笑った。その悪ふざけが理解できたのか、正はひきつった笑いを浮かべる。
8
次の日、早々に小鳥遊と一家は外に出た。
小鳥遊は誰とも口を聞かず、まっすぐ前を見迷いもなく歩いて行く。その先に人だかりがあった。
「見てもえいが、心にくるぞ。気を強く持てる者だけ見ろ。ないなら見るな。拝んでもえいが、同情は絶対にするなよ」
小鳥遊にそう言われて女二人は顔を背けた。
「何があった」
「土左衛門ですってよ」
「この前の大雨で流れたらしい」
「かわいそうに綺麗な女だ」
その言葉に一家は震え上がった。
そこに転がる女は、両手で一枚のハンケチを強く握っていた。
不思議なことにそのハンケチは濡れてこそいたが、誰かによって絞られた形跡があった。