ハンケチ(2)
3
「ということなんです」
――……純喫茶。
大竹夫妻は目の前に座る男にこの数日間の悪夢のような出来事を説明した。
あの後、正雄はすぐさま知人に助けを乞うた。その中で紹介されたのが目の前にいる小鳥遊 辰巳という男だった。
純喫茶に慣れていないのであろう青年は。震える手でどうにかカップを持ち、せめて下品な音を出さぬよう細心の注意を払ってコーヒーを啜っている。
思った以上に飲んだ物が苦かったのか、彼は一瞬だけ顔を歪めるとまだ震える手でカップを置いた。
頼りになるとは思えない。
正雄が彼、小鳥遊辰巳に抱いた第一印象だ。
体躯は大きいくせに、よほどの小心者なのだろう。
先ほどからちらちらと動く視線が落ち着かない。純喫茶が初めてなのだろうか、世間知らずともいった具合が見て取れる。
場所も考えず持ってきた緋色の番傘を決して放そうとはしない。
「寺には行きましたか?」
「近くに寺はありませんで、こうしてお願いしているのです。あなたはこういった事に詳しいと聞きましたので」
「先生のご友人ですか?」
正雄は頷いた。
小鳥遊は書生だという。その先生の仲介でこうして彼は呼ばれている。
すると、小鳥遊は目を瞑って首を横に振った。そして何かぶつぶつと言っている。
「先生の話とあらぁ、仕方がないきのう……。けんど……、どうしたもんか」
それは聞かせるつもりも、ましてや言葉にするつもりはなかったのだろう。会った時から抱いた敬語のできなさに理解する。彼にはきつい訛りがみえる。
「えいけど……。いいですけれど、絶対解決は難しいです。努力はします」
小鳥遊はそう言って、上目遣いに夫妻を見た。
「謝礼は……先生に渡さず私にくださいませんか?」
「勿論です」
夫妻はそう言って頷いた。
「先生は仲介料を差し上げました」
すると、小鳥遊があからさまに不機嫌そうな顔で舌打ちをした。けれど、すぐにその表情を隠し、姿勢を正すと深々と頭を下げた。
「ほいたら、すぐにお宅に上がります」
「すぐに?」
「はい。つけられているなら、わかるかもしれませんで」
小鳥遊はそう言って、女給が持ってきたアイスクリームに目を輝かせた。
4
「おる」
帰り道、小鳥遊はふとそう言った。
夫婦はその言葉にさえ怯えて立ち止まった。
「驚かさないでください」
「驚かせるつもりはない。けんど、奥方が言うた事は正しい。つけられちょる」
「誰かわかりますか?」
小鳥遊は黙ったまま地面を睨んでいる。
そうして再度、歩き出した。その顔は緊張していて、すぐにここで立ち止まって話をしているのは危険だと理解する。
「ついてこられてる時、すぐに家に帰ったか?」
「いいえ」と、ハルが言う。
「怖くて一度お店に寄りました。それでまけるかと思ったんです」
「待っちょったじゃろ。今みたいに」
「今?」
「ずっと店におった」
小鳥遊の言葉に正雄は、店で彼が落ち着かない素振りをしていたのを思い出した。
「気付いていたんですか?」
「おん。あぁも視線がきつうてな。辿れば店のすぐ近くにおったがよ。けんど、中には入ってこん。ということは、入れと言わない限り入れん輩ぜよ」
小鳥遊はそう言いながら、持ってきた和傘を強く握った。
「入れん輩いうことは、良い奴ではない。けんど、複数じゃないのが不幸中の幸いか」
夫妻は青い顔をしたままお互いの手を掴んだ。
「仲がえいな。籍をいれてどれくらい経つ?」
「七年です」
「ほいで、祖父母とも良好かよ」
正雄は「ありがたいことに」と緊張した面持ちでそう呟いた。
視線を感じたまま三人は、正雄の家についた。
庭には一人で遊んでいる正とそれを見守る祖父がいる。正は両親を見ると嬉しそうにかけよってきた。
しかし、正は母に父にしがみつこうとした姿勢のまま固まった。
みるみるうちに顔を青くし、目には涙を浮かべてよろよろと後退する。
縁側で座っていた祖父もすぐに顔を青くした。
「どうした?」
不審に思った正雄が己の後方を見、そして言葉を失った。
女がいる。
ずぶ濡れで、髪は顔にはりつき、ぽたぽたと水を滴らせている。
「居た」
小鳥遊が「ほたえなや」と叫び、不意にその番傘を開いた。鮮やかな赤が女と一家の間を遮るように広がる。
傘が顔に当たったのか、女はぎゃと声をあげると煙のように消えた。
「塩! 塩と酒じゃ! はよう! はよう持ってこんか!」
玄関から飛び出た祖父母に小鳥遊は叫ぶ。
二人は慌てて玄関に走った。