第1話【千味猛瞭、労働を始めさせられる】
生きたくない、でも、逝きたくない。
その狭間で、苦悩の数珠はいつまでも繋がれている。
どうしたらいい?
1年間の浪人の末、ようやく或る大学のすべての施設への立ち入りを許可された千味猛瞭は、そのような考えを充満させながら、その大学から近すぎず、離れすぎずといった場所で、6畳一間とキッチンで構成された独房において、新たな生活を始めた。
しかし、猛瞭にとって浪人生活の果てに得たものは、「大学って別に行くほどのものでもなくない?」という理念だった。別に行きたいわけではなかったものの、この俗世ではなにかに属さないと、生きづらいような気がしてならなかったので、仕方なくそうしただけであった。
また、生きていても自分が必要とされているところなどどこにもなく、また自分から必要とされているところに飛び込む勇気は当然なかった。軽くあしらわれるか、返り討ちに遭うかしかない。
そうは言っても、自らの力で頸椎をひどく損傷させたり、屋上の縁からお辞儀をしたり、接近する列車と垂直になるように衝突したりなどの典型的な死亡選択として挙げられることはしたくなかったし、そんな勇気もなかった。
べつに大学のなかで、自身に利するイベントなんてものはない。チャラ坊とギャルにとっては、十分すぎるくらいに盛り上がって、楽しめることであろう。授業も、将来的に役に立つものはなんにもないような気がしていた。物事のモデルケースや哲学的思想を知ったところで、その後の実社会で役に立つものなどどこにもない気がしている。
そんな場所に年間百数十万貢ぐのも阿呆らしくなってきた。バックレる勇気もなかったが、いずれ去るまでにこういった教育機関と就職した企業以外のパイプを掴まないといけないと猛瞭はそこまで考えた。
きょうもまた、そんな想いを胸に抱いて、独房から外界へ踏み出す。金目のものなど特になかったが、一応鍵はかけておいた。
大学までは、徒歩で30分弱。道中は、無味乾燥な片側一車線に満たない道路と、それと交差する片側三車線の都道と、大学の前の片側二車線の市道以外は、特段四輪の往来はない。その代わり自転車や原付の往来はそれなりに多く、猛瞭と同じ大学に通う学生も少なからずいた。
だが、猛瞭は大学ではまだとりあえず姿を現しただけの入学式とそれに付随するオリエンテーションしか受けていないからそんなことは知る由もない。
独房から約10分経過したところで、最初の信号に差し掛かる。都道の信号待ちは異様に長い。渡るまでに1分半経過するのもザラである。猛瞭も仕方なく待機していたが、足元は小幅ながらに前に進もうとしていた。
やがて、信号が赤色から緑色に変わり、猛瞭は小走りにその交差点を渡る。そして、対向車側の方向を向ける。そこで猛瞭の記憶が途切れていく・・・
しばらくして、猛瞭が目を覚ますと、そこは独房でも大学でも実家でも地元でもなく、畳と障子のなかに密閉された空間であった。両手と両足の自由はなく、身動きは取れなくなっていた。鎖だけでなく、鉄球まであるのだから、動こうにも動けない。
ただ、それ以外は身体に支障もなく、精神状態もいつも通りであった。どういうことなのだろうと猛瞭は2秒ほど考えるも、程なくして、鎖の外し方をどうするべきか鉄球を分離できないかという方向に思考を移す。
もがき始めていたところで、何者かが、障子を静かに開けて猛瞭の元へと向かった。
「目を覚ましたか、どうだ、不自由な身となった感想は」と問い掛けると、
「なんですか、これは」と返す。
「暴れないと、約束するか?」
「破ったらどうなるのですか?」
「冥界入りの各種手続きに移るだけの話だ」
「ちょっと待て、俺は現世にはいないのか」
「いないことになってる、だが今のところは旅行扱いとなっているがな」
「ここは、どうなっているんだ?旅行してる気がしないのだが」
「現世と来世に向かうまでの間になにがあるかは知ってるか?」
「三途の川か、それなら知ってる」
「そうだ、三途の川を渡るか否かをおまえはいま、審査されているのだぞ」
「どうしてそんなことに?」
「生前の記憶は、どこまで残っているか?」
「国道の横断歩道を横断してたところくらいまでか・・・」
「そこまでは、憶えているって感じなんだな」
「あのあと、どうなってこうなったんだ?」
「あのな、死人に口なしって言うじゃない?そんなことは教えられない」
「冗談じゃない、六文銭もまだ持っていないのだぞ、渡ってたまるか」
「落ち着け、ほんとに彼岸に送還されるぞ、しかも高速船でな」
「なに、舟じゃないのか?」
「あんな小舟じゃ近年では利用者の増加とともに費用対効果が合わんのじゃ」
「やめろ、まだ準備などできていない」
「速く逝くのも遅く逝くのも変わらない、転覆を考えてるようではいかんぞ」
「最期の状況も教えずに、彼岸へ送還させに来たってわけか」
「そうだ、と言いたいがそうでもない」
「なぬ?」
「実はな・・・おまえの審査は普通に生涯を終えていった人々とはちがう審査だ」
と言って、猛瞭に忍び寄ってきた男はおもむろに口を開く。
「通常の審査は、現世の葬儀とリンクする。通夜の段階で彼岸へのゴーサインが出され、次に生前での行為に基づき、豪華客船か高速船か漁船かカーフェリーか、はたまたおまえが想像する小舟かが決まる。それが決まって出港するまでに大体49日かかる。高速船以外はいずれも所要年数1年で彼岸へ入港できる仕組みとなっている。高速船の場合は、半年前後で到着する」
「というより、そこまで話していいのか」
「安心しな、ふつうに手続きを進めているお客さんならそんなこと説明しない」
「ほかにも説明しなよ、隠蔽するのも無責任だぞ」
「まあ落ち着け、知ってるひとは知っている。ただそうやって説明する理由としてはだね・・・残念なことにおまえは選ばれてしまったのだ」
「何にだよ」
「実は、現世と来世にはそれぞれの情報を隠蔽する機関が存在する」
「ほう」
「要は、それぞれの俗世で起きた情報を三途の川の双方のフェリーターミナルの地下に集約させて、漏洩を防ぐ往来情報統制機構が存在してだな、わたしはそれをTICO(Traffic Information Control Organization)と呼んでいる、わたしもそこに勤めていて、おまえの上司にあたる。だが、言葉遣いはもうそのままでいい、タメ口で構わない」
「ええんか、それで」
「むろん構わない」
「ただ、そのTICOに内定しているのか」
「そのための最終審査だ」
「そこで働き始めるとしたら、現世と来世の処遇はどうなるんだ?」
「基本、来世には逝かず、これまで通りの生活を続けることになる。ただ、現世に彼岸の情報漏洩の恐れが出てきた場合には、しっかり厳重に食い止める必要性がある」
「もし、漏れた場合は?」
「基本ないがな、あったら粛清されて地獄にあるマーケットに食材として提供されるだけだ」
「お、おう・・・」
「突然、忽然として現世から姿を消した場合、審査で現世の経歴を照合させて、最終判断を下すこととなる」
「ということは、いま俺もその審査の途中というわけだな」
「しかし、おまえがどうなるか、わたしにもよくわからないのだ」
「じゃ、なんで伝えたんだよ」
「わたしがやっている仕事を伝えに来ただけだ。生前、どこで暮らしてたか、なにをしていたかは千差万別だからな。おまえの上司であることには変わりない予定で進めているのだが、突然として展開は変わることもある」
そこまで言って、男は時計を見る。
「あと数分でわたしとおまえは呼び出される」
「それじゃ動かないといけないのではないか」
「その心配はない、この畳が抜ける」
「そうか、着地をしっかりしないといけないのには変わりないわけだな」
「その心配はない、既製品の絨毯を何層にもわたって敷いているから」
「や、心配すぎるわ」
「まあ、しばらく待機しようか」
そして数十秒の沈黙のうちに、再び男は口を開ける。
「そうだ、まだ自己紹介をしていなかった。おまえの名は千味猛瞭だったな」
「そうだけど、あなたは?」
「東湯沢だ、東湯沢宏昌」
「東湯沢さんなんですか?」
「歳は31歳、一度来世に送還されそうになったがTICOに配属されることとなり、半分死んでいるが鬼籍にはなっていない、現世では、一般のサラリーマンに扮して生活している」
「いつから、この仕事に?」
「6年前に」
「動機は?」
「特になにもない、ただその時の記憶として残っていることは、一度当時の会社でパワハラを受けて挙句解雇された記憶しかない。わたしもだいぶ要領が悪いから当然ではあるのだが、上司は特に教育などもせず“なぜにおまえは~”ということを言われて全身に傷を負ったこともある。解雇されたあと、復讐を企てようとしたが、その矢先にこちらに送還されて、現職に就いている」
「送還された原因は?」
「まだ言いたくはない、少なくともおまえさんよりは壮絶な記録と記憶が残っているとだけいまは伝えておくが、お、もうそろそろ時間だ」
と言ったのち、東湯沢は猛瞭の鎖と鉄球を外す。その時、猛瞭は東湯沢の左腕になんらかの違和感を感じたが、それを言う暇もなく、畳は抜け、純粋に落下し、階下へと向かう。予想通り、絨毯がクッションとなっており、大事には至らなかった。東湯沢のほうは、安全姿勢を会得しているようで、華麗に着地した。
無事を自覚し、猛瞭は顔を見上げる。そこにいたのは、ガウンに包まれながらこちらを見つめるひとりの成人男性。東湯沢よりも年齢は上だなと瞬時に感じ取った。このひとが裁定するんだな・・・と猛瞭は固唾を飲んで、執行の時を待つ。
ガウンの男性は、巻物を手に取り、そこに書かれているであろう文書を読み上げ始めた、何拍か置いて。
「千味猛瞭、そなたは4月8日9時43分、T都N区、都道X号線の路上において、信号無視をしてきた軽トラックと衝突し、全身を強く打ったが、TICO(往来情報統制機構)の臨時総会で、128対72の票数で、現世への送還が可決された。その原因は、そなたに死ぬ意思があるにも関わらず固辞したこと、軽トラックの信号無視によるもので、そなたは信号無視をせず、正当な方法で横断歩道を渡っていたこと、それと・・・」
と言って、男性は一息置いて次の発言をする。
「そなたは、ここまでの人生においては、目立った活躍はしていないが、生死が関わるとき、及び現世と彼岸の危急存亡の際に、特殊な脳波を感知し、1万年に7人の逸材とも呼ばれる活躍をすると判断した。これは、そなたが全身打撲から蘇生させた際にそうした脳波を感知したからである。よって、蘇生の時間は思ったよりも早かった。反対意見は当然出たが、私を始め、上層部においての賛成意見がとても多く、その結果、そこにいる東湯沢宏昌と同じく、我が機構で働いていただくこととなった。具体的な業務は配属ののちに発表する。では、労務形態を言い渡す」
男性は、次の巻物に目を通した後、猛瞭と東湯沢に次のように伝える。
「勤務形態は、そなたの通う大学との事情を勘案し、週3日(火・木・土)の18時から22時までとするが、内容によっては、長時間に及ぶ可能性がある。その際の報酬はしっかりと出す。月収は現世のレートに換算すると20万円となる。なお、これは国税や地方税、はたまた社会保障費による減額は行われない。そのような負担はこちらで行っているのでご心配なく。また、生死の関わる現場に赴くこともあると思うが、そなたの身体はあと300年生きる身体となっている。その点もご心配なく。殉職などはできなくなるが、一定以上のダメージと経験数に応じて、一般の方々と同じ寿命で生涯を終えられるように、仕事量と危険度を調整していく。また、大学卒業後は、現世で就職せずとも現世で生活できるようにサポートする。それでは千味猛瞭君、これからもどうぞよろしく頼む」
そう言い残して、ガウンの男性は退場する。それを確認したら東湯沢が猛瞭に
「言っておくが辞退は不可だ。禁錮134年にあたる」
「呑まないといけないのか、呑むつもりだけど」
「大変な仕事だ、だがやりがいは十分にある」
「それでこのあとはどうなるの」
「心配するな、現世の、それもおまえの部屋に直結する空間がそこにある」
そこには、縦横1m四方の黄色い間があった。
「その空間に5秒いるだけで、元に戻れる」
そう聞くと、猛瞭は早速その間に移り5秒待つ。5秒経って、ふっと絨毯の間から生活感のある空間に戻ることができた。
しかし、東湯沢は猛瞭が戻った後に言い忘れたことがあるような感情を抱いた。
あの手を使うか・・・。
かくして、一度冥界に逝きかけた猛瞭のセカンドライフは幕を開けてしまうこととなる・・・。