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ことわざ君  作者: 佐藤
5/8

袖振り合うも他生の縁

 次の日も、雨は止む気配すらありませんでした。

あの3人と再び会ってしまい、もう傘は持てず、カバンだけ持って

外に出ると、通学路には傘を差した人達が歩いていきます。

俺はその人達に紛れるようにして、学校へとひたすらに歩き、

力なく雨に打たれていました。


(…俺も傘が差せたら、こんなに貧しくて、悔しくて、寂しい思いは

しないで済むはずなのにな…)


 そう思ってしまうと、なんだか途端に歩くことが嫌になって、

俺は周りの人達の波から外れて、独り立ち止まりました。そして

雨に濡れながら、昨日のことわざ君の瞳を思い出しました。


 彼は俺の身勝手な態度を、どう思ったのだろうか。あの瞳は、

俺の何を見透かしていたのだろうか。ただただそれが知りたくて、

それを知るのが怖くて、俺はため息をつきました。


(…だめだ、これ以上考えるのは良くない。学校に行けなくなる)


 俺は全ての思考を断ち切るように、一層強くなった雨の音で全てを

掻き消して、勢いよく走り出しました。そして、息を切らしながら

昇降口に着くと、ハンカチでパラパラと雨粒を払い、教室に入ります。


 席に着くと、ことわざ君が気づいて、いつものように振り返りました。


元気なことわざ君「会うは別れの始め!」


「…おはよう」


 俺は目を合わせずに返事をしながら、いつもと変わらない彼の様子に、

心の中で「あぁ、よかった。これが正解だったんだ」と深く安堵しました。


 けれど、それは俺の勘違いでした。休み時間、ことわざ君の様子は

いつもと明らかに違って、ぼんやりとしていました。俺が当たり障りのない話を

振ると、返事はしてくれるけれど、とても素っ気ないものでした。

普段の彼であれば色々な話をしてくれますが、朝の挨拶以降は、

何も話しかけてきませんでした。


 それでも彼は、他の誰かの所へ行くこともせず、ただただ俺の隣で

物思いにふけって過ごしていました。何を考えているのか知りたいけれど、

俺は昨日、ことわざ君が見せた瞳を再び向けられることが怖くて、

規則正しく降りしきる雨の隙間から気づかれないようにそっと、

彼の様子を窺っていました。


(…もしかしたら、怒っているのかもしれない)


 お互い無言で昼食を食べ終えた頃からそう思い当たると、

俺は息が詰まり、嫌な汗をかきました。


(そうだとしたら、謝らないと…何か、早く、何かを言わないと…)


 焦り、言葉を探しますが、ことわざ君に何も伝えられませんでした。

俺のせいで気を悪くさせたのだから、自分から何かを言うべきだと頭の中では

分かっていました。それなのに、雨が強くて、向こう側にいることわざ君が

よく見えなくて、声が出ません。


(…怖い…不正解を選んで、否定されることが、俺は怖くて、耐えられない…)


 俺の間違いのせいで、人が離れていくのは仕方のないことだと理解できます。

それでも、あの3人のように、ことわざ君も、他のクラスメイト達も、

俺のことをあんな風な目で見るなら、笑うなら、自分はもう耐えられないのだと

気がつきました。それならいっそ、ことわざ君が俺に呆れて、何も言わずに

離れていってくれた方が、ずっと救われるような気さえしました。

だけど、こうやって逃げてばかりの俺のこういう弱さに、彼は怒っているのかも

しれないと考え始めると、なんだか目眩めまいがしてきて、段々、

気が遠くなってきました。


(もう嫌だ…何も考えたくない…)


 これ以上ことわざ君の近くにいたくなくて、今すぐ独りになりたくて、

俺はもう次の授業が始まるというのに、席を立ちました。


 そして俺は、トイレに逃げ込みました。

個室の鍵をかけ、激しく振る雨に打たれながら、これから

どうしたらいいのか分からなくて、便器の側でうずくまりました。

時間どおりにチャイムが鳴って授業が始まると、俺以外は誰も居ない

トイレは静かで、冷たくて、ことわざ君と出会うまでは、ここで弁当を

食べていたことを思い出して、なんだかおかしくて、小さく笑いました。


(…あぁ、このままみんな、俺のことを忘れてくれたらいいのに。

この世からすっかり、俺の存在だけが無かったことになればいいのに。

…そうしたら、きっとみんなが幸せで、俺は誰にも迷惑を掛けず、

このまま苦しまずに、どこかに消えてしまえるのに)


 でも現実は、何も変わらず、どこにも行けず、逃げるようにトイレで

うずくまっている自分が存在する、ただそれだけでした。どんなに願っても、

自分があの少年と同じように虐められている事実は消えなくて、

重たくのしかかるような雨は、ずっとこれからも降り続きます。


 俺は逃げられない雨の隙間で、「死にたくは、ないんだ」と呟き、

自分の手を見つめました。体は16歳らしく成長したくせに、

恐怖で震えて何も掴めない、弱い手でした。俺はそんな自分が憎くて、

祈るように両手を握りしめると、右手の爪が、左手に食い込む痛みを

感じながら、「怖い、もう嫌だ」と呟いていました。


(…あの3人に怯えながら、このまま過ごすなんて、もう耐えられない。

でも、あいつらはきっと俺に飽きるまで暇つぶしに使う気だろう。

どうせ私立に行くなら、家を出て、もっと遠くの、俺のことを

知っている人が誰もいない高校に行くべきだった…)


 中学受験の時、あの3人の志望校が七光高校だと分かっていたので、

俺は絶対にそこには行かないと決めていました。残りの中学校生活を

あと少し耐えれば、彼らから離れることができる、それだけが希望で、

心の拠り所でした。しかし、何も事情を知らない母さんは、七光高校を

強く勧めてきました。


心から嬉しそうな母さん「あなたが勉強もスポーツも頑張ったから、

ちゃんと七光高校に行けそうで、お母さん安心した。…これまであなたの

将来には口出ししてこなかったけれど、お母さん、あなたには七光高校に

行ってほしいって、ずっと思っていたの。大丈夫、お金の心配はしなくて

いいから。お母さん達はずっと、あなたのために頑張ってきたんだから」


 その時の母さんは、一人息子の俺に、立派な人間になってほしい、

その一心だったと思います。普通の家庭だったら、教育にお金を

かけてもらえることは、恵まれた家庭環境だと言えるでしょう。けれど、

ようやく虐めから解放されると思っていた俺にとって、その期待は

あまりにも重く、言葉の一つ一つに身を引き裂かれる思いでした。


 しかし俺は、これだけは譲れなかった。誰の理想であろうと、

俺は絶対にあの3人と同じ高校には行かない。それだけが最後の

希望だったからこそ、俺は声を振り絞り、母さんの勧めを断りました。


「いや、俺は七光高校には行かない」


 その言葉は、母さんにとって意外だったのか、

俺を説得しようとして、いくつも言葉を重ねてきました。


「あなたなら、あの進学校でもやっていける」

「もっと優秀になって、いい大学に行ってほしい」

「口出しはしなかったが、七光高校には母さんも憧れがあった」

「七光高校は全国的に見ても素晴らしい私立高校、お金があったら、

母さんも行きたかった」

「この家を買った時も、七光高校に近いので通えると考えていた」

「あなたが七光高校に行くために、父さんも単身赴任を頑張っているし、

母さんもずっと働いてきた」

「チャンスがあるのだから、チャレンジしないのはもったいない」

「他に行きたい高校でもあるのか?」


 母さんの言葉は、親として、当然の正論でした。そしてなぜかそれらは、

どこかC君の「正しさ」と重なった気がして、俺はふと、誰もが自分の

「正しさ」を守りたい、貫きたい、相手に認めてもらいたいのかもしれないと

思い当たります。すると、急に母さんを敵のように感じ、嫌な汗が流れます。

俺は手が震えないようにぐっと口を結ぶと、言葉は交わしませんでした。

次第に、母さんとの会話は暗くなり、まるで雨がしとしとと、泣くように

降り出します。


「あなたがちゃんと育ってくれるように、お母さんは仕事も家事も

頑張ってきた。父さんがいなくても大丈夫なように、あなたの学校の

行事にも全部、お母さんが出席してきたし、必死でやってきた」

「それなのに、本人のあなたが、やる前から頑張れないと簡単に

諦めてしまうのは、これまでのお母さんの頑張りが無駄だったような

気がして悲しい」

「だから、言いたいことがあるなら、ちゃんと話してほしい」


 少しでも話せば、今までの自分の堪えてきた苦しさをせき止めていた

何かが崩壊し、母さんにそのままぶつけてしまうような予感がありました。

そうして感情に任せ、全てを打ち明けてしまえば、きっと母さんはまた

たくさんの正論を並べて、俺に頑張れと言うと思いました。

 あるいは、どうしてそうなってしまったのか、それは自分のせいかと、

泣くと思いました。どちらの姿も、俺は見たくなかった。だから俺は、

母さんのことを守るというよりは、自分のことを守りたくて、虐めのことは

隠したまま、嘘をつきました。


「行きたい高校があるんだ」


意外そうな表情を浮かべる母さん「どこ?」


「コシヒカリ高校」


 俺はそれだけ言い残し、席を立って、自室へと向かいます。


呼び止める母さんの声「待ちなさい!コシヒカリ高校なんて、

あなたは行くべきじゃない!あんな変わり者しか集まらない高校に

進学して、大学はどうするの?何がしたいの?」


 俺が階段を上り終えると、消え入りそうな母さんの本心が

ぽつりと聞こえました。 


「…これまでの私の頑張りは、どうなるの?」


 父さんにも相談できず泣く母さんの声と、霧雨のように降りしきる

雨の音が、耳にずっと残ったまま、俺は布団に潜りました。


 母さんの期待を裏切って傷つけて、自分はもう愛されないかもしれない。

そして、ずっと父さんが不在で、無理をしすぎる母さんの危ういバランスを、

今度こそ崩してしまうかもしれない。それでも、俺はこれしか選ぶことが

できませんでした。母さんの期待を裏切ってしまい、申し訳ない気持ちは

ありましたが、今の自分は、傘を持っていないこと、そして、七光高校で

再びあの3人と一緒になれば、今度こそ自分は雨に負けてしまうという

確信の方が、何より恐ろしかったのです。


 母さんの「正しさ」を傷つけたことと引き換えに、俺は虐めから

解放されて、高校では、誰にも俺の存在を否定されない、そして、

常に「正しさ」を問われない日々を手に入れることができた。

そう思っていたのに。


 俺はトイレの床にうずくまりまながら、あの3人と再会した時のことを

震えながら思い出します。


(…もう彼らと会うことはないから、終わりだと思っていた。

もし、あいつらに、俺とことわざ君が一緒にいる所を見られたら、

あいつらがどんなことをしてくるか、怖くて仕方がない。きっと中学校の

頃のように、また俺を独りにさせようと、ことわざ君に目をつけるだろう。

…それだけは、嫌だ。俺のせいでことわざ君が傷つくなんて、嫌なんだ)


 悪夢でみた、教室で俺がC君達に叱られている風景が、廊下で見ている

みんなの笑い声が、鮮明に頭の中に蘇ります。


 すると突然、コツコツと、誰かがトイレの近くを通り過ぎる音が

聞こえました。俺は見つかるのが怖くて、ぐっと体に力を入れました。

ただひたすらに、浅い呼吸を繰り返すことしかできません。


(…早く、早く答えを出さなきゃいけない…!)


 あいつらから逃げるための答え、ことわざ君との接し方の答え、

誰かに虐められていると伝えるべきかの答え、これから自分は

どうすべきかの答え。目の前には問題が山積みなのに、いつだって、

今すぐ答えを求められているのに、雨の音で埋め尽くされた世界は

周りが滲んで何も見えなくて、独りきりで、考えがまとまりません。


(…もうだめだ…何も分からない…俺にはもう、

何が正しいのか、何も分からない…)


 答えが出せない自分が惨めで、弱さが悔しくて、でもどうしようもなくて、

涙ばかりが出てきました。理由は分からないけれど、俺と仲良くしてくれる

ことわざ君や、毎日見守ってくれる母さん、遠くで仕事を頑張ってくれている

父さんに申し訳なくて、涙が止められませんでした。


 とても長い時間、声を殺して泣きながら、トイレでうずくまっていました。

冷たく降りしきる雨だけが、「お前はどこにも行けないんだ」と呪うように、

守るように、弱い俺を閉じ込めていました。


 ふと俺は、雨の隙間に残された思考で、一つの答えを見つけてしまいました。


(…俺がずっと挫けないのが悪いのだろうか…?…中学生の頃も心配を

かけたくなくて、学校を休むことはしなかったし、誰かに助けを

求めることもしなかった。けれど、本来であれば得られたはずの、

当たり前の学校生活は、あいつらのせいで滅茶苦茶になった。


…それなのに、今でもあの3人は、彼らの「正しさ」を認めようとしない

俺が気に食わないと言う。それはこの先俺が、どれだけ傷ついても、

失っても続くだろう。…それなら、彼らが飽きるのを待つ?でも、飽きたとして、

また目をつけられたらどうする?…それなら、あいつらが死ぬか、俺が死ぬか、

そこまで行かないと、もう、許してはもらえないんじゃないか…)


 そこまで辿り着くと、疲れてしまって、もう、その答えでいい、

その答えしかなかったんだと考えるようになりました。

そして、なんだかずっと前から答えは決まっていて、その一つしか

選べなかったのかもしれないと、自分自身を言い聞かせながら、諦めと、

すがるような気持ちで、気づけば屋上に向かっていました。


 屋上の重たい扉を開けると、外は、とても静かでした。


 どんよりと曇った空から、さめざめと雨が落ちてきます。


(やっぱり今日は、雨が降っていたんだな)


 水を纏った6月の空気は、重さを帯びていて、触れると

心地よい冷たさがありました。しばらく雨に濡れていると、

やっと体が、心と同じになれた気がしました。


(…でも、ずっとこのまま居ても、この気持ちが晴れることはないんだな…)


 そう考えながら、俺は錆びついた手摺に触れて、遠くの景色を

見つめていました。雨雲で薄暗い世界は、ちっぽけな俺のことなんて、

気にも留めていないようでした。身を乗り出して、手摺の向こう側に

顔を出すと、地面までは結構な高さがありました。


(…死にたくは、ないんだ)


 雨の中、自分の気持ちと、向き合いました。


(…でも、もし今ここで飛び降りる勇気があれば、変わるかもしれない。

死なずに怪我すれば、あの3人も、俺にはいつでも死ぬ勇気があるのだと

恐れるかもしれない。周りも、俺には死ぬ勇気があるのだと諦めて、

これ以上期待せずにそっとしてくれるかもしれない。そうすれば

もっと生きやすい明日になるだろう。


本当は、怪我なんかせず、健康に生きたい。死にたくなんかない。

だけど、それでは何も変わらなかった。C君達にどうしても勝てず、

大切な友達も虐められ、先生に相談しても取り合ってもらえず、

母さんは俺に期待するばかりで、父さんは帰ってこない。


 この心は、誰にも見せられない。それなら、体の傷にして、俺の強さを

見せつける必要がある。このままでは、中学校の頃と、何も変わらない。

死ぬ勇気があるのだと皆に伝えないと、この世界は何も変わってくれない。

…このまま生きるなんて嫌だ…勇気が欲しい…)


 これが無責任な考えということは、分かっていました。それでも、

追い詰められていた俺は、こうしてC君達にに怯えて生きていく

くらいなら屋上から飛び降りて、世界を変えたかった。


 もし、自殺になってしまったら、それはそれで、寂しい世界でずっと

独りきりでもいいと思いました。そのせいで誰かに泣かれても、

恨まれても、嘲笑われても、雨になって消えてしまえるのなら、

それでもいいと、心の隅ではっきりと思えました。


 そして俺は、勇気を出して、手摺を乗り越える一歩を踏み出そうとします。


 その瞬間、後ろでバタンと、扉が開く音がしました。


 驚いた俺は、後ろを振り返りました。

けれど、そこに現れたのは先生ではありませんでした。


「…ことわざ君」


 彼は俺の顔をちらっと見て、こっちにやって来ました。

俺は、雨に濡れてしまう彼を、ただ見つめました。


哀しそうなことわざ君「…俺君は、こんな時にも笑うんじゃな」


 俺は自分が笑っているとは気づかず、驚きました。

ことわざ君は、戸惑っている俺の側まで来ると、手摺に寄りかかって

遠くの景色を眺めました。俺は雨に濡れることわざ君を見つめながら、

彼の気持ちを掴み切れないまま、空を見上げました。


 空は暗く、俺達の間には、まるで深海のように黒い雨が

満ちていました。視界の端には、眩しいことわざ君の光がちらついて、

俺は目を閉じました。彼は景色を見つめたまま、何も言ってこないので、

俺も何も言いませんでした。


 そうしてやっと、俺には全てを諦める覚悟ができました。

虐めにあって辛く、悲しいという感情も、こうして自殺未遂をしようと

した所を見つかって、恥ずかしいという感情も全部、もうどうでも

いいやという気持ちに変わっていきました。


 雨の中、ことわざ君の横顔を真っ直ぐ、見つめました。

それは決して怒っているようには見えませんでした。

先ほどの休み時間と同じように、退屈そうにどこかを見つめながら、

ただぼんやりとしているだけでした。


 黙ったまま雨に濡れているその姿を見て、俺はハッとしました。

ことわざ君は、俺と同じになろうとしている、そう思いました。

すぐ隣に居るのに、何も言わず、独りで雨に打たれているその姿は、

今の俺に違いありませんでした。


 そして、頭で考えるより先に、俺は、ことわざ君に尋ねていました。


「どうして、そんなに俺のことを気にかけてくれるの?」


 すると、ことわざ君は横顔のまま、ぽつりと答えました。


微笑むことわざ君「ことわざの実験じゃ。

『馬には乗ってみよ人には添うてみよ』

というから、試しているんじゃ」


 俺は何も言えず、どうしたらいいのか、なんて言ったらいいのか、

答えが分かりませんでした。ことわざ君は遠くを見つめながら、

雨の向こう側に居る俺にも、その言葉が届くように伝えます。


「俺君、吾輩は実験しているんじゃ。もし俺君が、本当は話したいけれど

話せないことがあれば、ずっと話さないという結果になっても、

吾輩はそれで良い。じゃがな、それでもいつか、俺君が話してくれる時が

来たのならば、吾輩はいつだって『遅かりし由良助』と言って、

きっと、間に合ってみせる。どんなに遅くても絶対に、その手を掴んで

みせる。…でも、死んだら全部終わりじゃ。『死んで花実が咲くものか』。

死ぬのだけは、吾輩が許さん。今、俺君に伝えておきたいのは、

ただ、それだけじゃ」


 俺は再び「なんで…」と尋ねながら、ぐっと、口を結びました。

泣いてしまいそうな俺を、ことわざ君はちらっと見て、独り言のように

再び話を始めました。


「…吾輩、友達が居たことがないんじゃ。いつも変なやつだと笑われて、

邪魔者扱いされておったからな。でも、このコシヒカリ高校は

変なやつばっかりで、吾輩のことを変だと笑うやつはおらん。

…それでも、吾輩の話を楽しそうに聞いてくれるのは、俺君だけじゃ。

それがどんなに嬉しいことか、誰かに分ってもらえなくてもいい。

吾輩が、俺君のお陰でどんなに毎日が楽しいかなんて、俺君にも

分かってもらえなくていいんじゃ。…昨日から、俺君はひどく

悩んでるようだが、吾輩には友達が居たことがないから、

どうしたらいいのか分からん。だから、吾輩はこうやって、

『馬には乗ってみよ人には添うてみよ』と、ことわざを信じて、

勝手な自己満足で実験をするんじゃ」


 そう言って、彼はこちらを向いて、少しだけ哀しそうに微笑みました。

その瞳は、昨日、ことわざ君が見せた瞳と同じように輝きました。

それは、雨で暗く沈んだ世界に一閃、全てを照らし出すような強く優しい

「正しさ」に溢れた光でした。


(…ことわざ君は、太陽みたいだ)


 俺はあの3人に虐められるようになってから、「答える」という行為を

恐れるようになりました。間違えれば罰せられ、正しさを訴えても、

力任せに間違いにされてきました。何かをするだけ無駄で、どんなに正しい

はずの答えでも、陰湿な虐めに繋がっていきました。そんな毎日を繰り返すと、

俺は不思議なくらい何も考えられなくなっていって、ただ、雨に打たれて、

その音だけに包まれて、心を守るようになっていました。


 それでもこの瞬間、ことわざ君がくれた真っ直ぐな「問い」に、

俺は答えたかった。太陽のようなその光に手を伸ばして、今すぐ彼に、

この感情も含めた全てを伝えたいのに、この体は、まるで呪いのように

動けず、声は震えて、言葉になりませんでした。


 それなのに、ことわざ君はそんな俺を見て「分かった」と言って、頷きました。


真っ直ぐに俺を見つめることわざ君「俺君、もう大丈夫じゃ。

吾輩には分かったから、俺君はもう、泣かなくていいんじゃ」


 気づけば、自分の瞳から涙が零れていて、その理由を理解する前に、

堪えきれないほどの涙がぽろぽろと溢れてきました。


強く笑ってみせることわざ君「俺君の気持ち、吾輩に、十二分に伝わった。

大丈夫じゃ、俺君」


 そう言ってことわざ君は、俺の肩にぽんと、ぎこちなく触れました。

俺は必死に涙を止めようとしながら、気づけば、あんなにぐちゃぐちゃ

だった頭の中に、雨の隙間、陽の当たる場所が生まれていました。


(…どうして何も答えていないのに、大丈夫だと言ってくれるんだろう。

どうして答えることもできない俺を、こんなに信じてくれるんだろう)


 きっとこの問いを言葉にすれば、彼は「友達だから」という、

たった一言で回答するでしょう。そして、その答えはあまりに

色々な光を放っていて、眩しくて、それがあれば俺も、今度こそ、

本当に変われる気がしました。


 雨は止むことなく降り注ぎます。それでも、ことわざ君が隣に

居てくれるだけで光は射して、独りではない強さと温かさを感じました。

涙が止まらない俺の隣で、ことわざ君は独り言のように呟きます。


遠くの景色を真っ直ぐ見据えることわざ君「こんな惨めな終わり方、

俺君自身が許しても、吾輩が絶対に許さんのじゃ」


 ことわざ君はそう言って、俺と目が合うと、快活に笑いました。

それは雨の向こう側からでも、それは全てを透過するように

輝いて、まるで「希望」そのものに映りました。


ぽつりと呟くことわざ君「『悲しい時は身一つ』なんて、

悲しすぎるんじゃ。それなら何のために、人間はこうして

集まって生きているのか、さっぱり分からんからな」


 放課後になったら、また話そうとだけ約束すると、俺はどこか

さっぱりとした気持ちになって、俺達は教室に戻りました。


 授業をしていた居眠り先生に、2人揃ってずぶ濡れの姿で謝ると、

「早く着替えないと風邪引くぞ~」と言われ、体操服に着替えてから、

終わりかけの授業を受けました。


 前に座ることわざ君の背中を見つめながら、どうして彼がこんなに親身に

なってくれるのか、俺の何が気に入って、友達でいてくれるのかを考えました。

ぼんやりと浮かんできた答えも、形がまとまらないまま、サラサラと静かに

流れる雨の音に溶けて消えてしまいました。

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