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ことわざ君  作者: 佐藤
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雪と墨

明るい声の母さん「お帰り、遅かったね」


 台所では、母さんが夕飯の支度をしていました。

雨に濡れて帰った俺を見て、母さんは少し驚いた顔をしました。


心配する母さん「あらやだ、びっしょりじゃない!高校生になったら

ちゃんと傘持って行くようになったのに、今日は忘れたの?

早くお風呂入ってきなさい」


「うん」


 俺はどうにかそれだけ言葉を発して、風呂に入りました。


 あの3人から虐めを受けるようになってから、傘を持って登校すると、

折られたり、どこかに隠されたりするので、いつも独り、濡れて

帰ってきました。そうして、俺を惨めに帰宅させることが、彼らの

雨の日の愉しみでした。


 それでも俺は雨が、嫌いではありませんでした。


 虐められてからずっと、晴れた日も、自分だけは雨が降り続いていたので、

その時だけは不自然ではなくなれたような気がして、他の人達にも

同じように雨が降っているということが、心を安らかにさせました。


 それでも、カラフルな傘が目に留まるたび、自分だけが何も持っていない、

持つことができないという事実を笑われているような気がして、

雨が一層、強く降るようでした。


 俺は何度も傘を無駄にしてしまうので、朝からどんなに雨が降っていても

学校には持って行くことはできなくなっていました。それを思い出すと、

いくら温かい湯船に浸かっていても、胸の奥のどこかがずっと冷たいままでした。


(俺の心にも傘があれば、こんなに冷たい思いはしなくて済むのかな…

俺の傘、あいつらに何度も折られて、もうどこにも無いもんな…)


 風呂から上がり、母さんと食卓につくと、いつものように2人で

夕飯を食べ始めました。母さんは料理が上手で、揚げたての天ぷらは

とても美味しいはずでしたが、なんだか頭がぼんやりとして、

雨は降り続いていて、味がしませんでした。


嬉しそうな母さん「さっきお父さんから電話があって、来週の日曜日に

帰ってくるから」


「…そっか」


 父さんは、俺が小さい頃から海外で単身赴任をしていて、

ずっと母さんと俺の2人だけで生活していました。母さんが作った

温かな料理を食べると、中学校の頃に言われた、C君の言葉を思い出します。


記憶の中のC君「君の父親、長いこと家にいないんだって?じゃあ、母親が

育て方を間違ったから、俺君は学校で辛い思いをしてるんだろうね。

早く『誰も味方がいないよ~ママ助けて~』って騒いで、母親に

恥をかかせてあげればいいよ。上手くいけばお前のせいで離婚だよ、きっと」


 いつだって、母さんに相談したかった。喉元まで出かかって、それを

何度も飲み込んできた。それは、もし俺が何かをすると、また間違えて

しまうのではないか。正しくない自分のせいで、両親まで辛い思いを

するのではないか。そう考えると、俺には、母さんに話す勇気が出ませんでした。


 それに、大ごとになれば、聞こえてくるのは彼らの声だけではありません。


「虐められる方も悪いのでは?そもそも、虐めの事実確認は?」

「今の時代は単なるコミュニケーションでも、捉え方によっては

虐めになってしまいますから」

「彼らは俺君がクラスに馴染めるように、アドバイスしてくれたんでしょう?

俺君を独りにしないよう、彼らなりに気遣っていただけなのでは?」

「3人には友達も多く、教師からの信頼も厚い、とても優秀な生徒達です。

日常的に彼らを見ていたクラスメイトにも、虐めという認識はなかったようです。

担任もそういった場面は確認していません」

「騒ぐだけ騒いで、過保護なモンスターペアレント?」

「親の教育が悪い」

「父親が側にいないから」

「『この親にしてこの子あり』って、このことね」


 こんな悲しい間違い探しに、両親を巻き込みたくありませんでした。

兄弟がいなくて、本当に良かった。こんなに辛くて悲しいこと、

誰にも知ってほしくありませんでした。このまま全てを打ち明けても、

俺のせいで、何も悪くない家族に迷惑が掛かってしまうことは明白でした。


 気づいてほしくないと言ったら、嘘になります。

けれど、「誰にも迷惑を掛けたくない」、「自分のせいで、辛い思いを

させたくない」という気持ちの方が勝っていました。


 それでも夕飯時にふと、このまま母さんに打ち明けてしまおうかと思うことが

ありました。久々に帰ってきた父さんと再会する度に、全てを正直に吐き出して

しまおうかと思いました。けれど、俺はこの先の未来を想像することすら怖くて、

勢いを増す雨がぼんやりと思考を妨げて、いつもずっと、何も言えませんでした。


心配そうに見つめる母さん「…ちょっと、話、聞いてるの?」


 そう言われて、俺はようやく我に返りました。

雨音に気を取られて、母さんの話はよく聞こえていませんでした。


「ああ、うん」


 適当な返事をしながら天ぷらを口にして、心の中では、早く自分の

部屋に行きたいと、雨に打たれながら考えていました。


 何も無かったフリをするのは、久しぶりで、とても疲れました。 

どうにかいつもと同じように、母さんが「俺の好物だから」とたくさん

揚げてくれた海老の天ぷらを口に運びますが、冷たい雨が、美味しいとか

哀しいとか、辛いとか、全ての感覚を麻痺させるようでした。


再度伝える母さん「来週の日曜日だからね、お父さん帰ってくるの」


「うん、ごちそうさま」


 それだけ答えて、俺は席を立ちました。

心配そうな母さんの眼差しを背中に感じましたが、それに気づかない

フリをして部屋に帰ると、心の中で、ぐるぐると嫌な感情が渦巻きます。


(…これから先、母さんが作ってくれたどんなに美味しい弁当や、

温かな料理を食べても、前のように心が晴れることはないだろう。

それに、半年に1回しか帰ってこない父さんに、今さら何を話せば

いいのかも分からない。母さんは泣き虫なのに人一倍責任感が強く、

世間体を気にする人だ。俺が虐められているなんて知ったら、

きっと自分のことのように傷つくだろう。…もし、母親がもっと強い

人間だったら、父親が一緒に暮らしている家庭だったら、もしかしたら、

俺はこんな目には…)


 虐められていることを誰かのせいにした投げやりな思考でした。

それを消し去ろうと、降り続く雨で溶かすと、一番の原因は俺自身なのだと、

分かり切った事実が目の前に現れて、弱い自分が情けなくて泣きました。


 その夜、俺は夢をみました。


 放課後、コシヒカリ高校の校門を出ると、A君、B君、C君が

俺を待っていて、俺の周りには誰も居なくて、気づけば中学校の教室に

連れていかれていました。


 先生は忙しくてどこかに出掛けていて、あいつらがその代わりになって、

3人並んで教壇に立ちました。そして俺は独りだけで椅子に座っていて、

延々と「間違っているお前が悪い」「正しくなれないお前が悪い」

と罵倒され続けます。廊下からは、まるで補習を受ける生徒を馬鹿にするように、

クスクスと俺のことを笑う声が聞こえてきます。俺は下を向くことしかできず、

これ以上こんな自分を見たくなくて、早く雨が降ってくれと、それだけを

考えていました。


 ガラリと、教室の扉が、前と後ろで開いた音が聞こえました。


 そこで夢は、終わりました。


 汗をかき、喉が渇いたので、部屋を出てキッチンで水を飲みました。

まだ外は暗く、雨の音が響いています。その雨は、自分だけに降るものか、

誰にでも平等に降るものか、もう分かりませんでした。


(…朝なんて来なければいい、俺に光なんて、無ければいい…)


 布団に戻った俺は声を殺して泣いて、疲れて眠り、それを何度か

繰り返して朝を迎えました。


 カーテンを開けると、確かに外でも雨が降っていました。

ざあざあと降り続ける雨の音は心地よく、俺は傘を持たずに家を出ます。

前に進んでいく傘の隙間を走り抜けるようにして学校に着くと、

俺はハンカチで、肩についた雨粒を払いながら、教室に入りました。


 席に着くと、ことわざ君が気づき、振り返りました。


笑顔のことわざ君「会うは別れの始め!」


「…おはよう」


 俺は返事をしましたが、雨で声が、ことわざ君が遠くて、いつものように

話をする気が起きませんでした。


首を傾げることわざ君「なんじゃ?俺君、夏も近いというのに顔が青白い」


 雨の向こうで心配してくれることわざ君に、俺は「ちょっと寝不足」と

笑ってみせました。音がざああああああと重なり、あんなに鮮やかだった

高校生活は黒く滲んで、どろりとぼやけていました。


 なんだか色々なことがどうでもよくなって、授業中も休み時間もずっと、

暗い雨に包まれて、その静かな音にだけ耳を傾けていました。そして放課後、

俺は帰る支度を済ませて席を立つと、ことわざ君に声を掛けました。


「じゃあ、また明日」


「おぉ、吾輩も帰る所じゃ」


 いつもなら一緒に帰っていましたが、俺はそっと目を逸らして、

言葉を探しました。校門で、あの3人が俺を待っている可能性がありました。

それを考えると、やっぱり、こんなに雨に、ことわざ君まで濡れる必要は

無いのだと考えて、一歩、彼から離れました。


「…ごめん。これからはもう、話しかけないでほしいんだ。

こんな勝手な俺が嫌だったら、なんていうか、もう大丈夫だから。じゃあ」


 俺は無理にでも笑って、明るくそれを言葉にしました。それは

優しさなんかじゃなくて、ことわざ君の反応が怖くて仕方がなかった

からでした。そうやって一方的に伝えることで答えはことわざ君に委ねました。


(急にこんなことを言われて怒っただろう)


俺は心の隅でそう思い、諦めながら彼の顔を見ると、

ことわざ君は真っ直ぐ、俺を見つめていました。


 それはただひたすらに、真っ直ぐな眼差しでした。

非難もせず、純粋に理由を求めるその瞳は強く、透明で、

そこには俺の瞳がそのまま映し出されているかのようでした。


 映し出された俺の瞳は、暗く沈み、歪んでいました。

その瞳には、見覚えがありました。3年前の廃工場で出会った、

床にうずくまった少年の瞳でした。そしてその瞬間、自分はいつの間にか、

その少年と同じになっていたのだと、虐めを耐えることしか選べずに、

結局は彼らの正義に加担していた、あの少年と同じ存在になっている

のだと不意に気づかされました。


 その考えに思い当たると、俺の方がひどく動揺してしまって、慌てて

ことわざ君から目を逸らしました。そして逃げるように、俺は教室を

飛び出しました。


 そして廃工場での出来事から逃げたあの時と同じように、

俺は降りしきる雨の中、誰にも追い付かれないように

必死で家へと帰りました。その間ずっと、透明な、どこまでも見

透かすようなことわざ君の真っ直ぐな瞳が思い出されます。


 不思議と、俺の、少年の暗い瞳を思い出しても、ことわざ君の瞳が、

それを塗り替えるように、何度も見つめてきました。するとなぜか、

今までには無い、激しい感情が沸き上がります。雨の中でも、ことわざ君が

俺に向けてくれたその瞳は、確かな光を放っていました。


 それにすがることはできないと、頭では分かっていました。けれど、

雨粒がどんなにそれを隠そうとしも、その光は煌々と輝き続けていました。

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