雨晴れて傘を忘れる
朝のテレビで「今日から梅雨入りです」と予報のあった、
6月のある日のことでした。いつものように授業が終わって、
校舎を出ると、今にも降り出しそうな曇り空が、一段と薄暗く
広がっていました。
そして、その日の帰りは偶然、ことわざ君は予定があって
一緒ではなく、俺は一人で校門を出ました。彼が居なくて、
本当によかったと今でも思います。
雨雲で灰色に染まった夕暮れに包まれながら、黙々と、
人通りの少ない帰り道を歩いていると、それは起こりました。
「久しぶり!」
声を掛けられて振り返ると、ドンと、勢いよく突き飛ばされました。
俺がよろけると、笑い声がして、俺は思い出しました。
目の前に現れた3人が、誰だかすぐに分かりました。中学生の間ずっと、
俺のことを虐めていたやつらでした。
その瞬間、まるで夢が覚めたかのように、ぽつりと肌に雨が触れました。
そして、ざああああと、全てを思い出すかのように、雨が降り始めました。
その雨に濡れた瞬間、ことわざ君と過ごしていた日々は溶けて、中学生の頃の、
思い出したくない「本当の自分」が、ここにはいました。
本当の俺は弱い人間で、生きる価値の無い人間でした。
体が強張ってしまい、俺はもう逃げることもできず、下を向きました。
俯くと、彼らの真新しい茶色のローファーが目に留まります。
3人は、俺が通うコシヒカリ高校の近くにある七光高校の制服を
着ていました。そこは地元の有名校で、お金持ちや秀才、スポーツに
秀でた学生が集まる進学校でした。
にやにや笑うA君「俺君久しぶりじゃん!高校生活楽しい?
俺らがいなくて寂しいだろうから、会いに来てやったぜ」
そう言ったのは、A君、彼はサッカーの才能があるイケメンで、
女子からとても人気がありました。そして頭と口が回るやつで、
「これは虐めなんかじゃないよ、コミュニケーション!」と
周囲に笑ってみせながら、見えない所で俺を殴りました。
そして、もし誰かが仲裁に入っても、パッと明るく謝って、
「…もし勘違いさせたならごめん。でも、そういうのって空気が
しらけるからやめた方がいいよ」と爽やかに言い返し、
相手にそれ以上何も言わせないようにしていました。
その時のA君は、俺に「人気がないお前が悪い」と笑いました。
あの頃、虐められるのが嫌で、彼らを遠ざけようと他の友達を
作った時も、彼らはなぜか執拗に追いかけてきました。そして俺と
同じようにその友達のことも虐めるようになって、苦しくなった俺が
離れて独りになれば、もうその友達のことは虐めようとはしないのでした。
俺のせいで、友達もこんな理不尽な雨に打たれてしまう。俺の近くに
いるせいで、辛い思いをさせてしまうのだと思うと、苦しくなって、
誰かと関わることが怖くなりました。
過去を思い出し、黙っていると、今度はB君が、俺の顔を覗き込みます。
冷たい表情のB君「俺君が七光高校に入れるわけがないだろう、
もし入られても、レベルが下がって困る」
そして俺を見下しながらB君は、「コシヒカリ高校の連中も、お前が一緒で
可哀想だ。俺達は違う高校に行けて本当によかった」と淡々と言いました。
B君は勉強ができて、先生達からの評判が良く、「クラスで浮いてしまって
いる俺君を仲間外れにしたくないんです」と先生達に言っては、校外学習などの
行事でわざと俺のことを引き受けていました。
そして、彼らのやりたくないことを押し付けたり、俺に無茶をさせようと
したりと、常に関わってきました。それが嫌になって途中で逃げると、B君が
「先生、俺君が迷惑をかけています」と告げ口をして、いつも俺が怒られました。
通っていた中学校では、学力が高い生徒は特に贔屓されていました。
俺が担任の先生に相談した時も、「向こうはお前を友達だと思っているのだから、
心を開きなさい」とか「君には協調性が必要」とのらりくらり誤魔化されました。
その時のB君は、俺に「頭が悪いお前が悪い」と笑いました。
中学校では、全員のテストの点数が公表されるため、最低点を取った人ですら、
誰なのかが分かるように掲示されていました。そこで、俺は必死になって勉強し、
テストでA君やC君よりも良い点数をとりましたが、B君にはどうしても、
敵いませんでした。
その放課後、B君は俺の答案用紙を破きながら「俺君には学習能力がない。
サッカー部のA君や、生徒会役員をやっているC君と、暇なお前は立場が違う。
どうやったって僕より頭が良くはなれないんだから、底辺らしく下にいろ」
と言って、それ以降も、俺がA君とC君よりも良い点数をとると
ノートを捨てられたり、理不尽な暴力を受けたりしました。
それでも、A君とB君は、いわゆる取り巻きでした。
彼らの後ろにいるもう一人が、ずっと、にこにこと笑っています。
そこには、俺の様子を愉しそうに見ている、C君がいました。
穏やかな声のC君「やめてあげなよ、俺君、困ってるよ」
一見優しそうなその声を耳にした瞬間、濁った水が沸くような、
気持ちの悪さが広がります。
C君は、サッカー部のエースであるA君ほど、運動はできませんでした。
C君は、主席のB君よりは、頭が良くはありませんでした。
しかし、スポーツは得意で常に目立ち、成績も上位で、どこにも欠点が
ありませんでした。そして、彼はリーダーシップをとることが上手く、
見透かすような目をしていて、どこか威圧的な、独特のオーラがありました。
薄っすらと微笑みながら近づいてきて、彼は少しの汚れもないその靴で、
俺の足を踏みつけました。
ニッコリと笑うC君「変わっていなくて安心したよ。
独りで帰るなんて、やっぱりみんなから嫌われているんだね」
ぐらりと、目眩がしました。踏まれた足の痛みよりも先に、
意識が遠く、ぼんやりとしていきます。痛みと共に、一層、雨の強さが
増しました。気づけば俺は汗をかいていて、C君の顔が歪む土砂降りの
雨の中、ただただ冷たくなっていく指先を感じました。
残念そうな声色のC君「僕達は優しいからさ、中学校で3年もかけて
何度もアドバイスしてあげてたのに、俺君、何も変わってくれなかったよね。
もうさ、高校も行く意味なんて無いんじゃない?俺君の親も、お前みたいな
やつに金払わなくちゃいけないなんて、可哀想だよ。むしろ、俺君って
生きてる意味あるの?このまま俺君みたいなのがいても、みんなにとって
マイナスにしかならないって、まだ分からない?」
彼はそう言って足をどけると、潰れて汚れた俺の靴をじっくりと眺めて、
満足そうにニッコリと笑ってから、小さな声で呟きました。
耳打ちするC君「もうずっと前から言っているから、俺君にも分かるよね?
僕達3人の『正しさ』を認めるか、それができないなら、みんなのために
早くいなくなった方がいいよ」
まるで濁った水が、ぐらぐらと煮立つように、彼の声は響きます。
そして、心の底から愉しそうに、C君は言葉を続けました。
C君「もし俺君に友達ができても、そいつは僕達みたいに優しいから、
独りぼっちのお前の面倒を見ているだけで、心の中では早くいなくなれって
思ってるはずだ。僕達は、みんなが言いたくても言えないことを、こうして
俺君に伝えてあげているんだよ。
…だって、そうだろ?もし僕達が『間違っている』なら、もっと早くに、
誰かが僕達を止めたはずだ。でも、周りのやつらはみんな、何もして
こなかった。つまり、僕達ではなく俺君の方が『間違っていた』、
そういうことだろう?」
C君の言葉に、もう俺は何も言い返すことはできなくなっていて、
額にかいた汗をぬぐうことすらできませんでした。目をつけられた最初の頃は、
彼らの言葉も、強い気持ちで否定できていたのに。
諭すような口調のC君「…俺君、人生は運と選択の連続だ。そして俺君は
せっかく大きな運を持ち合わせていたのに、大きな『間違い』を選択した。
…あの時、折角僕達が仲間に入れてあげようとしたのに、そのチャンスを、
お前は台無しにしたんだよ。あの時、俺君が選択を『間違った』から駄目なんだ。
そして今も、俺君は変わることをせず、僕達の『正しさ』を理解できないから、
こうして悲しい目に合う。それは、お前が間違っているからだ。それだけのこと
なのに、俺君はどうして分かってくれないのかな?」
呪いのような彼の言葉に俺は何も答えられず、雨音で薄く滲んでいくのを
感じていました。振り返りたくないのに、ざあざあ振りの雨が引き裂くように、
昔の記憶がズルリと、嫌な音を立てて蘇ります。
中学校に入学してこの3人と同じクラスになり、
出会ってしまったあの日の記憶が、雨の隙間からのぞきます。