塗炭の苦しみ
梅雨が終わるまでに完結させたいです。
俺がことわざ君と仲良くなったのは、コシヒカリ高校に
入学した4月のこと。俺は男子トイレに弁当を持ち込んで、
毎日ぼっち飯をしていました。
高校生活が始まって1週間が経っていましたが、こうして独り、
便所飯をするのは、賑やかな教室ではどうしても手が震えて、
まともに食べることができないからでした。
そしてその日も、俺は母さんが作ってくれた弁当を持って、
トイレの個室で(いただきます)と手を合わせ、食べ始めました。
しかし、しばらくすると、誰かがトイレにやって来ました。
男子生徒「俺君!俺君か!?」
突然、ドアの向こう側から結構、いや、かなり大き目の声で
名前を呼ばれました。俺は驚いてしまい、卵焼きを頬張ったまま
固まって何も返事できませんでした。どう考えても居ないふりは
できない状況だというのに、なぜか俺は、気づかれないようにと
息を殺していました。それなのに、声は響きます。
男子生徒「俺君か!俺君!!!」
その声に聞き覚えがあったので、同じクラスメイトだと
分かったのですが、誰の声かまでは分かりませんでした。
男子生徒「なにを『雪隠でまんじゅう』しとるか!
吾輩と屋上でファミチキ食おうぞ!」
その言葉で、声の主がことわざ君だと分かりました。
このコシヒカリ高校は変なやつばかりですが、彼は特に変なやつでした。
彼の席は、俺の席の前。そしていつも、ことわざばかりを口にしていました。
しかし、高校が始まって1週間、彼とは挨拶したことすらないので、
なぜこうして俺のことを呼ぶのかは分かりませんでした。
その後も俺の居ないふりは通じる様子はなく、あまりに強引でうるさくて
言っていることも意味不明だったので、俺は下を向き、目を閉じました。
もし、俺の知られたくない過去を知っているのなら、それなら今度こそ
終わりにしようと考えながら、最後の勇気を隠し持ち、緊張しながら
扉を開けます。覚悟を決めた俺は口を真っ直ぐ結び、トイレから出ると、
小柄で、大きな丸い眼鏡を掛けた、ことわざ君と目が合いました。
嬉しそうなことわざ君「俺君、屋上でファミチキ食おうぞ!」
彼は大きな声でそう言って、くるりと背を向けて歩き出しました。
俺は彼を見据えたまま後を追って、屋上へ向かうと、彼は弁当を取り出し、
食べ始めました。俺も少し離れて座り、弁当を食べると、彼が袋に入った
ファミチキを2つ取り出し、1つを俺に渡しました。
外は春といってもまだ寒いし、ことわざ君がくれたファミチキも冷たかった。
それがむしろ心地よくて、俺は恐る恐る、ファミチキを口にしました。
やっぱり嬉しそうなことわざ君「はは、朝買ったから冷め切っておるわ!」
「…なんでファミチキ?」
迷いなく答えることわざ君「ファミチキが嫌いなやつなどおらんだろう」
「…そっか…」
それ時以来、俺達は高校生活を共に過ごすようになりました。
休み時間になると、前の席に座っていることわざ君が「俺君!」と
後ろの俺に振り返って、色々なことを話します。
悩むことわざ君「なあ俺君、『風が吹くと桶屋が儲かる』ってことわざが
あるんじゃが、吾輩、これは今の時代に合っておらんと思うんじゃ」
「桶屋が?」
頷くことわざ君「そこもじゃが、色々納得がいかん」
ことわざ君はそう言って、詳しく説明してくれました。
風が吹くと土ぼこりが舞う→その土ぼこりが目に入って、目の見えない人が
増える→目が見えない人の職業は三味線弾きが多いので、三味線がたくさん
売れる→三味線は猫の皮で作っていたから、猫がいなくなる→猫が少なくなって、
ネズミが増える→ネズミは桶をかじるから、桶が売れて桶屋が儲かる
ということらしい。
「そっか…このことわざって、結局何が言いたいんだろう?」
説明することわざ君「意味としては、全く関係ないと思えることが、
巡り巡って影響すること。もしくは、あてにならないのに無理やり
こじつけること、じゃ」
「ふぅん。じゃあ、ことわざ君はこれのどこに納得いかないの?」
俺の問いに、彼は少しだけ考えてから、言葉を繋ぎました。
話をすることわざ君「目の見えない人の仕事は三味線弾きというが、
昔は整体師のような、針やお灸、マッサージをする人の方が主流な気が
するんじゃ。…まあ、そこも含めて、これは面白いんじゃが」
「今なら、ピアニストとか点字の作家とか、教師にもなれそうだよね。
居眠り先生も寝ているけど、ちゃんと先生だし」
そう言って俺達は、居眠りをしている居眠り先生を眺めました。
次の授業が始まる時間まで、教卓ですやすやと眠っています。
「…ことわざ君が納得いかないって言うから、
俺はてっきり、猫が可哀想ってことかと思ったよ」
俺の言葉に、ことわざ君はまた少し考えてから、はっきりと答えました。
迷いがないことわざ君「吾輩、牛肉のステーキが大好物なんじゃ」
ことわざ君は真顔でそう呟き、それでも悪びれる様子は少しもなくて、
俺は思わず笑ってしまいました。俺は「そっか」とだけ返事をして、
チャイムが鳴って、居眠り先生が目を覚まし、話は終わりました。
今思えばどれもくだらない、ちぐはぐな会話ばかりでしたが、俺にとって
不思議なくらい心地よい、大切な時間でした。ことわざ君は変わった男で、
「恥ずかしい」という感情を持ち合わせていないかのように自由に振舞い、
まるでキラキラと輝く小学生のように俺の目には映りました。
朝、教室に入ることが怖くて仕方がありませんでした。喉が詰まり、
声が出なくて挨拶なんてできず、俺は俯いて、誰にも気づかれないよう
席へ急ぎます。すると決まって、ことわざ君が振り返りました。
右手を上げて挨拶することわざ君「会いは別れの始め!」
「…え…?」
嬉しそうなことわざ君「出会いの挨拶じゃ。これからは、これを広めていく」
「…ことわざ知らない人には、分からないと思うけど」
緊張して震える体で、俺はなんとか笑ってみせました。ことわざ君は、
それに気づいているのかいないのか、よく分からないままでした。
放課後になると、俺とことわざ君は帰宅部だったので、
校門まで一緒に帰りました。
右手を上げて挨拶することわざ君「別れなくして出会いなし!」
「え…なに?」
嬉しそうなことわざ君「朝に言った『会いは別れの始め』の逆じゃ!」
「…さようならって意味?」
笑っていることわざ君「遅かりし由良之助!」
「えっ?」
そんな感じで、彼の言っていることがよく分からないことも
ありましたが、そんなやりとりで俺は確かに笑っていて、本当に
彼と過ごす時間が楽しかったのを覚えています。
朝、ことわざ君は授業に間に合わないことが多々ありました。
なんとなく俺は、ことわざ君にその理由を尋ねることはせず、
いつもと変わらない様子で「俺君、遅かりし由良助!」と笑顔で
現れる彼を、ぼんやりと待っていました。
そうして月日が経ち、彼と出会ってまだ2ヵ月しか経っては
いませんでしたが、俺は、まるで自分が、全く違う次元の人間に
変わっていた気がしていました。独りで居る時は、あんなに周りの
音が気になって仕方がないのに、心を許せる友達が隣に居るだけで、
自分らしくいられる居場所ができることで、こんなにも心が安らぐ
ものなのかと驚きました。そんな当たり前のことをひどく幸せに感じて、
俺は彼との出会いに、救われていました。
ことわざ君は、正しいと思ったことはためらうことなく口にしても、
決して他人を傷つけることはありませんでした。真っ直ぐな彼を
すぐ近くで見ていると、眩しくて、自分の心まで晴れるようでした。
学校が終わり、ことわざ君と「また明日」と別れ、帰り道を歩きながら、
ふと、空を見上げます。青い空が遠くまで晴れ渡っていて、俺は一人
(この平穏がずっと続けばいい。他に何も要らない)と、空に手を伸ばしました。