第一章 『悪夢への旅立ち』⑥
「本当に長かったね。読んで、なんて軽く頼んでごめんね。ありがとう、純平」
僕の労をねぎらい、由莉が礼を言った。
だが、僕は、
「いや、別に……」
と、返事をするのがやっとだった。読みながら気がついた“あること”で、頭がいっぱいだったのだ。
「あのさ……」
四人にそれを伝えようと口を開いたその時、
「どうやら、気づいたようだな」
雅が割って入ってきた。長い付き合いだからか、彼女は僕の心が読めるようだ。
彼女へと振り向き、僕は正直に頷いた。
「うん」
「何? 何に気づいたと?」
そう千春が尋ねる。
僕は説明した。
「今の僕たちの状況が、犬鳴村への入村条件と一致するんだよ」
「え? どういうこと?」
今度は、由莉が聞いてくる。
僕は、少し詳しく解説することにした。
「ブログに書かれた入村条件の四つをまとめると、“雨の日に、白のセダンを空席のない状態にして、西側から旧トンネルへと向かう”ってことになるんだけど、そのうちの三つが、今の僕たちと同じなんだ」
「三つって?」
「白のセダン。空席がない。それと、西側から旧トンネルに向かう、だよ」
「へぇ。恭也君のこの車、セダンって名前だったんだ」
質問を続けていた由莉が、「初めて知った」との声を上げる。
「いや、違うよ。セダンは車の名前じゃなくて型式のこと。この車みたいに箱型をしていて、四ドア二列シートのものを、一般的にセダンって呼んでいるんだ」
「そうなんだ。詳しいのね、純平」
由莉の声が感心している時のものに変わった。確実に僕のポイントがアップした瞬間だ。
しかし、普段なら有頂天になるところでも今はそんな場合ではない。
「機は熟した」と判断し、僕は言った。
「だからさ、そんな犬鳴村への入村条件の四分の三が整っている状態で、旧犬鳴トンネルに行くのは危険だと思うんだよ」
「うーん、そうだね。七十五パーセントの確率で犬鳴村に行っちゃうことになるって考えると、確かにちょっと怖いかも」
僕の意見に由莉が賛成した。その確率の計算は明らかに間違っているが、味方が増えるのはありがたい。
ここを好機と見た僕は、一気に畳みかけた。
「そうだろう。だから、そんな危険な場所に行くより、千春の叔父さんの民宿でゆっくりしたほうがいいに決まっているよ。先方も、心配しているだろうからさ」
「どうしようか?」
自分で判断しかねたのか、由莉が隣の千春に相談する。真後ろにいるため顔は見えないが、その声は不安そうだった。
「これで旧トンネル行きはなくなったな」僕は確信した。
ところが、千春は、僕の期待に応えてはくれなかった。
「叔父さんのことなら心配いらんよ。だって、叔父さんも叔母さんも、もう民宿にはおらんとやけん」
「え? 民宿にいないって、どういうことだ?」
今になって聞かされた新たな情報に、僕は、自分でも驚くほどの大きな声を出していた。
一方、由莉は、
「あ、そうだ。忘れてたよ」
と呟く。どうやら彼女は知っていたらしい。
「千春、どういうことだ?」
再度僕が問うと、千春は、意外だとの様子で答えた。
「純平も知っとるはずよ。だってウチ、雅ちゃんに伝えてねってお願いしたんやから」
「雅に? ……雅」
二度目の「雅」で、僕はそちらを睨んだ。
すると、彼女は、
「伝言するのを忘れていた。許せ、純平」
と、別段悪びれるではなく、その頬に笑みを浮かべて見せた。
「やっぱり……」
溜め息とともにがくりと肩が落ちる。
そんな僕の姿を哀れと思ったか、千春が言った。
「そうなん? 雅ちゃんが忘れとったとなら仕方なかね。あのね、ウチの叔父さん、叔母さんと結婚して十五年になるとやけど、仕事が忙しくて、ずっと新婚旅行に行きそびれとんしゃったと。それでね、申し訳ないと思っとった叔父さんは、今年、ひと月かけて国内のあちこちを巡る旅行の計画ば立てたとやけど、叔母さんには内緒にしとらしたと。やけんが、八月から旅行に行くばい、って、叔父さんがいきなり言いんしゃっても、叔母さんは仕入れはしとんしゃるし、お客さんの予約も取っとんしゃった。到底、遊びに行けるような状態じゃなかったと。それで、どげんしようかって二人で悩みんしゃって、料理ができるウチに白羽の矢が立ったってわけなんよ」
「そうだったんだ。……って、じゃあ、僕たちが民宿経営の全部をやるってこと?」
「そう。ばってん、純平も恭也も料理はできんけん、それはウチたち三人で。二人には、力仕事をお願いしようって思っとったったい。あ、これは話したやろ?」
「う、うん」
僕は、一応頷いた。確かに肉体労働だとは聞いていた。だが、まさか、オーナーがいない状態での手伝いだったとは……。
急に責任を感じ始めた僕は、千春に尋ねた。
「それじゃあ、今日もお客さんがくるんじゃないの?」
「いや、お客さんがくるとは五日後からやから大丈夫。それまでは研修期間にしとこうと思っとるけん、トンネル見物に行くくらいの融通は利くよ」
「でも、仕事として行くんだから、寄り道なんかしないで急がないと」
なおも食い下がろうとする僕に、忠告するように雅が口を挟んだ。
「止めておけ、純平。いつまでも見苦しいぞ」
「……」
僕は、黙って雅を睨んだ。
すると、彼女は、禁句だとも言えるひと言を、砲撃を加えるかの如く言い放った。
「怖いのか?」
「こ、怖いとか怖くないとか、べ、別にそんなんじゃないよ。それは違う」
コンマ一秒の間を置かず、僕は否定した。
それなのに雅は、にやにやと訳知り顔でこちらを見てくる。
苛立ち紛れに僕は言葉を足した。
「何だよ。何が言いたいんだ?」
「トンネルに行きたくないからと言い訳ばかりの臆病者に、取り立てて述べる事柄はない」
「はいはい、そうですか」
相手をするのも煩わしくなり、適当な返事を返す僕に、彼女は、
「……だが」
と繫いで続けた。
「臆病者を苛めるのは趣味ではないからな。ひとつ安心させてやろう」
「安心?」
「そうだ。怖い怖くないに拘らず、純平は、旧犬鳴トンネルに行くことを反対している。そうだろう?」
それはそのとおりだ。僕は頷いた。
「しかし、トンネルに行っても何も起こらない、そう私が証明できれば、話は変わってくるのではないか?」
「それは、……まぁ。できるものなら、な」
「そうか。それならば、答えは既に用意されている。純平、ブログの続きを読んでみろ」
「続き?」
僕は膝の上のノートパソコンに目を落とした。間に都市伝説関連の書籍広告が入っていたせいで気づかなかったが、その下に、追記、の文字が見えた。
「追記?」
「そう、それだ。読んでみろ」
促されるまま、僕はそれを声に出した。
【追記】
大変悲しいお知らせとなるが、現在、旧犬鳴トンネルは、ブロックにより封鎖されてしまっている。また、西側からの細道は途中にフェンスが建てられ、完全に通行止めである。
そのため、前述した入村条件を満たして旧犬鳴トンネルに向かったとしても、フェンスにより行く手を遮られてしまうことだろう。
もし、そうなった場合、その場合には、潔く諦めて欲しい。
万一、フェンスを乗り越えて先に進んだとしたら、都市伝説よりも恐ろしい法的な処罰、逮捕が、貴方を待っているのだから。
「どうだ。安心しただろう?」
そう問う雅の声を聞きながら、僕は全身の力が抜けていくのを感じた。
「あぁ」
ディスプレーを見つめたまま、僕は頷いた。
そもそも旧トンネルに行けないのだから問題はない。つまり、反対する理由はなくなったというわけだ。
「では、細道のフェンスまで行くことに、異論はないな?」
雅が、最終確認をする。
抵抗なく僕は答えた。
「あぁ、いいよ」
その時、これまでずっと黙っていた恭也がぽつりと呟いた。
「おや、……雨だ」
つられて僕はフロントガラスへと目線を上げた。
ガラスには、数滴の雨粒が張り付いていた。それは、数える間を与えぬほどに次々と増えている。
初めはポツポツ。だが、すぐにザンザンと大きな雨音が車内に響き始めた。
「あれ? これって……」忙しく仕事を始めるワイパーを見つめる僕の耳に、笑いを押し殺したような雅の声が聞こえた。
「これで、入村条件成立。“犬鳴村フラグ”が立ったな」