第一章 『悪夢への旅立ち』③
「……平、……純平」
ふと気がつくと、雅がじっとこちらを見つめて僕の名前を呼んでいた。
僕は慌てて誤魔化した。
「え? ど、どうかしたか?」
「それはこちらの台詞だ。随分と深刻な顔をしているじゃないか?」
どうやら、彼女について思いを馳せていたのを、僕が自分のことで悩んでいるのだと勘違いしているようだ。不安を覚えたからか、話し方も鬼軍曹に戻ってしまっている。
僕は努めて自然に返した。
「何でもない。大丈夫だよ」
だが、雅は納得しない。
「そんな屠殺される前の豚のような目をしているのに、大丈夫なわけがないだろう。私にできることがあるのなら何でも協力するから話してみろ」
そう言うと、アップルジュースを傍らに置いて顔を近づけてきた。別人を演じているせいで表現に難はあるものの、彼女の内なる優しさは変わらないのだ。
「私にできることがあるのなら何でも協力する」そんな彼女の言葉で、僕は本来の目的を思い出した。そう。ノートパソコンを貸してもらうよう交渉にきたのだった。
とはいえ、今も雅の膝の上にあるノートパソコンは、彼女の命とでも言うべきものだ。三年以上の付き合いになる僕でも、それに触れたことは一度もない。
断られるのを覚悟で、恐るおそる僕は切り出した。
「あの、雅に、相談があるんだけど……」
「私に相談? よし、言ってみろ」
何故だか凄く嬉しそうな顔で、彼女は僕のほうへとにじり寄ってきた。
「ノートパソコンを貸して欲しいんだ」
「これを?」
自分の膝の上を指差す雅に、僕は、
「う、うん」
と遠慮がちに頷いた。
「そうか」
少し困った様子で小さく呟き、彼女はそのまま黙り込んだ。
「……」
それに合わせて、僕も口を閉じる。借りることができるのか、どうなのか。何だか、合格発表の掲示板を見る前のような心境だ。
暫くの沈黙のあと、おもむろに雅は言った。
「分かった。貸そう」
「本当か?」
僕は思わず身を乗り出した。
「あぁ。日ごろ世話になっている純平の頼みだからな」
「ありがとう」
「構わん。ただし……」
雅はそこで言葉を切ると、続けた。
「頼みがある」
「た、頼みって、……どんな?」
僕は、一度乗り出していた身を大きく引いた。同時に、体中から血の気も引いていく。代わりに、“嫌な予感”が満ち潮のように押し寄せてきた。
これまでにも、僕は、幾度となく雅の頼みを聞いてきた。だが、それは、「海パン一枚になって首からバスタオルを提げてみてくれ」だの「ブラを着けてみて欲しい」だの「腕立て伏せを百回やった直後の顔が見たい」だの碌でもないものばかりだった。いずれも、「同人誌の資料とするために必要だ」と至って真剣に主張する彼女だが、モデルにさせられるこちらにしてみれば、迷惑以外の何物でもない。
今回は、どんな黒歴史が僕に刻まれることだろう。
恐怖する僕の前で、雅は、ノートパソコンのディスプレーをこちらに向けて告げた。
「頼みというのはな、……これだ」