最終章 『悪夢からの脱出』⑧
どこに敵がいるのか分からないため大きく迂回し、僕は、二十分ほどをかけて由莉の許へと帰還した。
僕がその場を離れた時と同じ姿勢で、彼女は、大木に背を預け、足を伸ばして座っていた。
「里の奴らは撒いたから暫くは安全だ。さぁ、行こう」
眠っているように動かない由莉の肩を揺する。
すると、彼女の体は抵抗なく横に倒れた。
「……えっ」
一瞬、何が起きたのか分からなかった。
「う、嘘だろ……」
次の瞬間には、頭をよぎるその可能性を否定しようとしていた。
しかし、携帯の明かりで照らした彼女の首筋が切り裂かれ、そこから夥しい量の血液が流れ出しているのを目にした時、僕の脳は、否応なしに現実を理解してしまっていた。
「い、嫌だ。嫌だああああ」
由莉を抱き締め、僕は叫んだ。
彼女を守ろうと囮になったはずなのに、どうして。
僕より彼女が先に死ぬことはないと誓ったはずなのに、どうして。
どうして、由莉が死に、僕が生きているんだ。
「……どうして」
僕は、その場にふらふらと立ち上がった。
雅、千春、恭也。そして、由莉。皆、いなくなってしまった。
もう僕には何も残っていない。
何もかも終わったのだ。
「死にたい」
これまでの人生で一度も思ったことのない言葉が、自然に口をついて出る。
だが、それと同時に、「本当か? 本当に死んでいいのか?」僕の中の僕がそう語りかけてきた。
僕は、携帯電話を握り締めた。
「そうだった。雅に託されたこれを、警察に……」
それは、雅が命懸けで繋いでくれたバトンだ。携帯電話だけでなくパンツにはメモリーカードもある。 それら二つを、いや、どちらか片方だけでも警察に届けなければ、僕は死ぬことができない。あの世でまでも、「やはり、純平は純平だ」、「やっぱり、純平は純平ね」と、雅と由莉に笑われてしまうことになるだろう。
「やるよ。見ていてくれ」
皆にそう伝えると、背後から返事が聞こえてきた。
「ほう、殺るのか。俺たち四人を」
「……」
声も出せずに慌てて振り返る。
そこには、宣言どおり四人の男たちがいた。
「……殺せ」
先ほど返事をした男が、無感情にそう言い放つ。
それを合図として向かってくる三人に背を向けると、僕は脱兎の如く逃げ出した。
ひと先ず坂道を上がり切らなくては里の北側にある道路へは辿り着けない。
僕は、上り坂となっているほうへとその足を進めた。
後ろから、
「待て!」
「逃げるな!」
などと無茶な注文をつけて男たちが追ってくる。
当然、僕がそれに従うことはなかった。
できるだけ大きな木を選んで擦り抜けながら、その陰となるよう追手の視界を遮り、走り続ける。それでも、絶対に奴らに捕まることはない、そんな自信が僕にはあった。
それは、走力の差というわけではなく、“ゴールを知っているかどうか”の差だった。
ここまでやれば終わり。その終わりが見えているのといないのとでは、雲泥の差があるのだ。
僕は、このレースの終わりを知っている。山を越えて道路まで行けば、そこがゴールだ。自分たちの存在を知られたくない奴らが、その先まで追ってくることはないからである。
ところが、相手は僕がどこまで逃げるのかを知らない。ゴールが見えない中で、延々と僕を追い続けなければならないのだ。
予想どおり、僕と追手との距離は開き始めた。
だが、ここからが真骨頂。元陸上部の本領発揮だ。僕は、さらにスピードを上げた。
上り坂であることなど気にもならないほど体が軽い。既に四人が追いつけなくなっているのは分かっていたが、それでもペースを落とさず走り続けた。
そして、とうとう僕は、里と外界とを隔てる山を登り終えたのだった。
山の上から麓を見下ろす。山村のため数は少ないが、それでも住宅の明かりが幾つか見えた。
「これなら、道路まで行けば民家があるな。あと少しだ」
そう自分に言い聞かせ、道なき下り坂を進む。
暫くそのまま歩き続けると、眼下にアスファルトの道路が見えてきた。
「着いた」
大きく息をつくのと一緒にそう呟く。僕の足は、自然に斜面を駆け出していた。
今にして思えば、この時の僕は完全に気を抜いていた。そのため、自分の体がとっくに限界を越えていたことに気づくことができなかった。
何でもない雑草に足を取られ、僕は転んだ。
下り坂でついた勢いそのままに、二転、三転しながら斜面を転がり落ちて行く。
僕は、アスファルトの道路へとそのまま体を投げ出された。
頭は何とか庇ったものの、そのせいで背中を強か打ちつけた。
呼吸がとまり、視界が霞んでいく。
「このままだと拙い。警察に……」そう思い、僕はずっと握り締めていた携帯電話に目をやった。
だが、それは、逃げている最中に既にそうなっていたのか、アスファルトの地面にぶつけたためか、完全に壊れてしまっていた。
「まったく、最後の最後まで、僕って奴は……」
そう呟いたところで、僕の意識は途絶えた。




