第一章 『悪夢への旅立ち』②
千春から渡されたアップルジュースを右手に持ち、白いセダンの横に立つ。
後部座席のドアに左手をかけたその時、これまで燦燦と照りつけていた太陽に、暗雲がかかった。ひと雨きそうな雰囲気だ。
「早めにけりをつけて、出発したほうがいいな」そんな不可能に近い目標を胸に秘め、僕は、ドアを開けると後部座席に身を滑らせた。
当然のことながら、そこには雅がいた。腰まで届く長い黒髪を流れるままに垂らして、じっとノートパソコンに目を落としている。
その真剣さに気圧され、声をかけることを躊躇っていると、ディスプレーを見つめたままの彼女の口が先に動いた。
「早くドアを閉めろ。冷気が逃げる」
「え? あ、あぁ」
僕は慌ててドアを閉めた。
外音が聞こえなくなり、代わりにエンジンの小さな振動と空調音が車内に響きだした。何となく外界から遮断されたような、そんな不安な心持ちになった。
「……で、どうしたんだ?」
相変わらずこちらに視線をくれることなく、そう彼女が尋ねる。
待ってましたとばかりに、僕は、手に持つペットボトルを差し出した。
「喉乾いていないかな、と思って。これ、アップルジュース」
「アップルジュース」の言葉に、雅がちらりと僕のほうを見た。
予想どおりの反応だ。アップルジュースは、彼女の大好物。気を引く土産とするにはもってこいだったのである。
この機を逃してはならない。僕は、さらに続けて言った。
「果汁百パーセントだぞ」
すると、雅は、
「わざわざ補足しなくても結構だ。“ジュース”という名称は、果汁百パーセントのものにしか使用できない。そうJAS法で決まっているのだからな」
などと嫌味たっぷりのうんちくを述べながらも、実に素早く僕の手からペットボトルを掴み取った。
「飲んでみなよ」
「指示されるまでもない」
すぐさま蓋を開け、雅は、ひと口こくりとアップルジュースを喉に流し込んだ。
「どうだ?」
「うん、美味しいよ。ありがとう、純平君」
言葉遣いどころかその声色までも変え、彼女は僕に礼を言った。
「気に入ってもらえてよかったよ」
そう返答しながら僕は、彼女の様子を窺った。
ちょこんとシートに腰をかけ、両手でペットボトルを握って飲むその姿は、まるで幼い子供のようだ。
「漸く、本来の雅になったな」僕は安堵の息を吐いた。
そう、今までの強気で男っぽい彼女は、いわば“別人格”だったのである。
“別人格”と言っても、二重人格などという意味ではない。雅の場合は、“意識して別人を演じている”のである。
そして、心理的に絶対の安定を得た時のみ、淑やかな性格の本来の彼女に戻る。今は、僕と二人きりということと大好きなアップルジュースを飲んだ安らぎの相乗効果で、それが出てきたというわけだ。
では、何ゆえ、雅は日常生活で別人を演じているのか? これには、深い事情がある。
実は彼女、極度の上がり症で、素の状態では僕以外の人と話をすることはもちろん、目を合わせることすらできないのだ。
僕がこのことを知ったのは、高校一年の夏。きっかけは、彼女に相談されたからだった。
「純平君。私、色んな人とお喋りできるようになりたい」
そう願う雅に僕が提案したのは、“好きな人間を演じる”というものだった。
芸能人でもアニメの登場人物でも構わないから、とにかく、自分の好きな人の物真似をして会話をする。そうすることで、上がらずにすむのではないかと考えたのである。
もちろん、これは、普通に会話をするよりも遥かにハードルが高いコミュニケーションの取り方だ。
しかし、彼女には合っていたようで、高校二年を終えるころには、同じ図書委員の仲間とならば、話ができるようになっていた。
さらには、かねてより希望していた同人漫画誌のサークルにも参加できたらしく、活動は校外へと広がった。
大学へと学びの場を移した今では、恭也や由莉、千春といった僕と共通する友人もいる。
僕の見解は、見事に当たっていたのである。
こうして、別人を演じることで、相手が初対面でさえなければ上がらずにすむようになった雅だが、同時に弊害もある。
現在、彼女が演じているのは、第二次世界大戦をテーマとした深夜アニメ、『日出ずる国からの伝言』に登場する鬼軍曹、岩本虎男なのだが、軍曹の上に“鬼”がつくことからも分かるとおり、その口調は荒い。そのため、彼女が役を演じているのだと知らない僕以外の人たちには、何となく怖がられているようなのである。
また、演じる自分を雅自身が気に入っているのではないかと思われる節もあり、僕の前でも別人を演じる時間が増えているのも心配だ。
少し、いや、相当な漫画とアニメ好きで、オタク気質。そのせいで、言動も一般人には理解し難いことが間間ある雅だが、その実は、清楚で奥床しい。そんな彼女を、僕はもっと表に出して欲しいと思っている。
とはいえ、人と話をするために別人を演じるよう勧めたのは他ならぬ僕であり、その点については、少しの後悔と大きな反省をしているのだが……。