第三章 『隠者の住む里』②
午後七時三十分。居間での夕食。
長方形の座敷テーブルの上座に成滝さん。彼から見て右斜め前には僕、それから恭也。僕の対面には雅。その隣に、由莉、千春の順で腰を下ろした。
「そうか、ぼたん鍋を知らないか。まぁ、普段の食生活では、あまりお目にかかるものではないからな」
愉快そうに成滝さんが笑うと、他の四人にも笑みが溢れた。つまり、僕以外は全員知っていたということだ。
「これが、ぼたん。つまり、……猪」僕は、ガスコンロに乗せられた土鍋に目を落とした。一見、普通のすき焼きのようにも見えるが、そこに入れられた肉は、牛とは明らかに形状の違うものだった。
三十分ほど前、ようやく普通に接してくれるようになったことに安堵しながら僕は、台所に立つ由莉に、「何を作ってるんだ?」と尋ねた。彼女は、「ぼたん鍋よ」と答えた。しかし、僕にはそれが何なのか分からなかった。そこで続けて、「ぼたん、って?」と聞いたのだが、「できてからのお楽しみ」そう言って教えてはくれなかった。シャツを留めるためのボタンでないことだけは予想していたが、まさか、それが猪だったとは……。
箸が進まぬ僕に対して、五人は次々にそれを食べ進めていく。
僕は、その様子を黙って見ていた。
それに気づき、成滝さんが言った。
「何だ。食わないのか?」
「えぇ、まぁ」
僕は言葉を濁した。
「そうか。猪だと聞いて躊躇っているのだろう。だが、お前さん、豚は食わないのか?」
「いえ、食べますけど……」
「では、同じだ。お前さんは、これまでに猪を食っているのだよ」
「どういう意味ですか?」
僕が問うと、成滝さんの代わりに雅が答えた。
「何も知らないのだな、純平は。猪を家畜化したのが豚だ。即ち、本を正せばどちらも同じ猪だということになる」
「なるほど」
何となく僕は納得した。
そこに、
「ほう、お前さんは詳しいな」
成滝さんが感心したような声を上げる。
「いや、それほどでも……」
雅は、謙遜して頭を掻いた。
どうやら、彼女も少しは場に慣れだしているようだ。僕は、妙に喜ばしい気持ちになった。
「そうだ。雅も頑張っているんだ。僕もちゃんと食べて力をつけないと」そう考え、僕は自分の皿に入れられた猪肉……、いや、ぼたん肉に箸を伸ばした。
試しにひと口食んでみる。少し獣臭さが広がる感は否めないが、歯応えはほどよく、割り下の味もしっかりと染み込んでいた。
「美味しい」
思ったままの感想を口にすると、それに千春が反応した。
「そうやろ? 今日の料理は由莉ちゃんが作ったとやけん、美味しいに決まっとるやん。ウチは、野菜切っただけやもん」
「へぇ、そうだったんだ。由莉、美味しいよ」
改めて告げると、彼女は、
「よかったぁ、褒められて」
と、照れた様子で微笑んだ。
「これが夢にまで見た、由莉の手料理」僕はもう一度皿へと目を落とした。脳裏に自然と彼女の笑みが浮かぶそのぼたん鍋は、神々しく光り輝いて見えた。
込み上げてくる嬉し涙を堪えながら、僕は汁一滴残すことなくそれを完食した。
夕食後。
先ほどの余韻に浸っている僕の隣で、恭也が口を開いた。
「あの、成滝さん。教えていただきたいことが……」
「何かね?」
「ここは、何という名前の場所なんですか?」
恭也の問いに、僕たち四人も同時に成滝さんへと視線を向けた。
犬鳴村。忘れかけていたその固有名詞が頭の中で蘇る。
だが、おもむろに成滝さんは答えた。
「この里に、名はない」
「名前がない? どういう意味です?」
再び恭也が聞いた。
「そのままの意味だ。元もと、この里に名前などつけられないのだよ。まぁ、あえて名づけるとすれば、隠れし者が住む里、『隠者の住む里』といったところかな」
「『隠者の住む里』、ですか」
恭也が成滝さんの言葉を繰り返す。
それを耳にしながら、僕は考えた。「ここを隠れし者が住む里などと称するには必ず理由があるはず。いったい、里の人たちは、“何から”隠れているのだろうか?」と。
すると、成滝さんが一同を見回し、タイミングよく告げた。
「そうだな、折角だ。この里の歴史について、少しばかり話しておこうか。かなり昔の話になってしまうが、聞くか?」
「お願いします」
僕は即座に願い出た。
それにひとつ頷くと、彼は語り始めた。
「今から四十年も前のことだ。当時の私は、三十路に足を踏み入れたばかり。地元福岡で教壇に立っていたのだが、何と言えばいいか、俗世というものがつくづく嫌になってな、逃げ出した。そして、何もかもを捨て去り、ここに辿り着いた。木々を切り拓き、家を建て、独りで生きて行こうと決めたのだ。とはいえ、私も仙人ではないため、霞を食って生活するなどということはできない。時折は町に下りられるように、隧道だけは掘っておいた。それが、お前さんたちが入ってきた、あのトンネルだ」
「それでは、あれは成滝さんがおひとりで?」
驚き、恭也が尋ねる。
「あぁ、そうだ。しかし、俗世を捨てると決めておきながら隧道を掘るという矛盾した行いをしてしまったせいで、迷い込む者たちが出てきた。しかも、彼らは、一様に、自分も俗世を離れてここに一緒に住みたいと、同じようなことを言う。誰の土地とも分からぬ場所で勝手に生きている私に、それを拒む権利はなかった。結果、四十年の間に、二十七人が生活する里になってしまったというわけだ」
「なるほど」
僕は理解した。この里に住む人たちは、皆、俗世からその身を隠していたということだ。
それにしても、成滝さんの話は、その真意のほどは分からないが、同じ里の人たちを拒絶しているようにも思える。
何となく感じた気まずさを避けようと、僕は、優しかったあの人をフォローした。
「それにしても、成滝さんが紹介してくださった元医師の方がいてくれて助かりました。雅の額を治療してもらえて……」
「あぁ、佐々木か。あいつとの付き合いは長い。かれこれ三十五年ほどになるかな。あいつは、私の考えを理解してくれる大切な存在だ。今は、今年やってきた南田に自分の技術を教えようと張り切っているよ」
「そうだったんですか」
流れがよいほうに向いたことに安堵しながら、僕は、「南田さんとは、あの看護服を着ていた人だな」と、赤い縁の眼鏡の女性を思い浮かべた。
話が一段落したのを見計らい、誰にともなく千春が言った。
「じゃあ、やっぱりここは、犬鳴村やなかったってことやね」
「ん? お前さん、犬鳴村を知っているのか?」
これまでずっと答える側だった成滝さんが質問をする。
「はい、知っています。とは言っても、噂話としてですけど……」
千春は、ウェブログに書かれていた内容を説明した。
「ほう、そんな話があるのか。それにしても、それは酷い作り話だな」
成滝さんが大笑いする。
僕は聞いた。
「どの辺が、作り話なんですか?」
「どの辺が、というより、ひとつを除いて全部だ」
「ひとつを除いて?」
「あぁ。旧犬鳴トンネルが通行止めになっていること。それ以外は、全部でたらめだ」
「犬鳴村の存在も?」
「いや、それはあった。だが、村人が入村を拒むようなことはなかったという意味だ。犬鳴村は、踏鞴製鉄で有名な地区でな、原材料となる砂鉄を今の福津市辺りから馬に乗せて村に運んでいたんだ。つまり、人も馬も入り放題だったというわけだ」
「では、“この先、大日本帝国憲法は通用しません”の看板は?」
「それが一番のお笑いだ。何しろ犬鳴村には、大日本帝国憲法が通用するもしないもないのだからな」
「え?」
意味が分からないでいる僕に、成滝さんはヒントをくれた。
「犬鳴村は、明治二十二年の四月一日に近隣の村と合併してその地名が消えている。そして、大日本帝国憲法の施行は、翌年、明治二十三年の十一月二十九日だ」
「……あ、分かりました。憲法施行前に名前が消えた村に、それが通用しないのは当然だということですね」
答えを導き出した僕に、成滝さんは、「そのとおりだ」と頷き、
「そもそも、憲法が通用しないというのを警察組織が介入できないと解釈するのが誤りだ。どうせなら、“この先、刑法及びそれに準ずる法的規範は通用しません”にすべきだったな」
とまとめた。
すると、ここで、今までずっと黙って話を聞いていた由莉が口を開いた。
「では、現在の犬鳴村は、どうなっているんですか?」
「現在か? 村の大半は、ダムの底に沈んだよ」
「ダム、ですか」
「そうだ。犬鳴ダムといってな、ダムのさらに下を、山陽新幹線が通っている」
「へぇ、そうなんですか。じゃあ、小倉-博多間の新幹線に乗れば、ある意味、犬鳴村に入村したことになるんですね」
由莉がそう言うと成滝さんは、
「ほう、それは面白いことを考える」
と、楽しそうに笑った。




