第一章 『悪夢への旅立ち』①
第一章 『悪夢への旅立ち』
「んーーー。……っと、おっとっと」
大きく伸びをした直後の立ち眩み。大学入学から僅か四か月だというのに、運動不足は思いの外深刻なようだ。
だが、間もなくそれも終わりを迎える。
何故なら、前期試験を終えたばかりの本日より約ひと月間、民宿の手伝いで肉体労働に勤しむからだ。恐らく、今月(八月)の末ごろまでには、高校陸上部時代の体力を取り戻していることだろう。
そして、体力と共に自信も手に入れ、その暁には……。
「何をにやにやしてるんだ? 純平」
いきなり横から出てきた顔が僕に尋ねた。
「き、恭也!」
「大方、ひとつ屋根の下での由莉との生活でも想像してたんだろ? 気が早いな」
「う、煩いな。別にいいだろ」
穿ったことを言う恭也から僕は目をそらした。
やけに勘の鋭いこの男の名前は、那須恭也。
旧き言葉を借りれば端整な顔立ちの二枚目で、平成の今なら超イケメンだ。しかも、頭の回転が速く、運動も種目を問わずに何でも軽くこなす。つまりは、オールマイティー。トランプに例えるならスペードのエースだ。
因みに、僕たち仲間内では彼のことを、「神にモテ成分を過剰配合された男」と呼んでいる。
「それにしても、本当にこの道で合ってるのか? 雅の話は、当てにならないからなぁ」
目の前の道路を指差して呟く恭也に、少し前の記憶を頼りに僕は答えた。
「それは分からないけど、たしか、県道二一号線って書いてあったよな」
そう。ここは福岡県の県道二一号線。その道路沿いにあるコンビニの駐車場で、現在、僕たちは休憩中だ。
山口県の下関市から関門海峡を越え、北九州市の門司区に入ったのが正午ごろ。そこまでは順調だった。
しかし、国道三号線を福岡方面へと向かって走り、途中で南下する予定が、西に行きすぎてしまった。
この場合、一度きた道を戻り、それから南を目指すのが最良の選択なのだが、これに雅が反対した。自信たっぷりに、「近道がある」と言ったのである。
僕たちは彼女の言葉を信じた。
そして、指示されるままに二度の左折を経て、国道三号線から南に位置するここ、県道二一号線にやってきたというわけだ。
「ところで、他の三人は?」
そう問う僕に、恭也は目の前のコンビニを顎で杓って見せた。
「千春と由莉は、中で買い物。雅は、まだ車の中だ」
「ふーん。そうか」
相槌を打ちながら促されたコンビニのほうに目をやると、それを合図とするかのように、由莉と千春が自動ドアから出てきた。
「なぁん? 男ん人だけで、何の話ばしよると?」
僕たちを目に留めた二人のうちのひとりが、博多弁でこちらに声をかけてくる。
声の主は、千春。宗像千春だ。
方言で分かるとおり、出身は福岡県。福岡と言っても、これから向かう民宿のような山村ではなく市内の出で、何でも中央区の大名という所に実家があるらしい。
生まれて此の方現在に至るまで東京在住である僕には詳しい場所までは分からないが、ただ、大名という地名の響きに、何となく彼女の出自のよさを感じる。
まぁ、今回の目的である民宿の手伝いも、彼女の叔父さんが経営している場所であるくらいだから、この予想はあながち外れてはいないだろう。
二人が近くまでくると、千春の問いに恭也が答えた。
「大した話はしていないよ。ただ、雅が指示したこの道が本当に正しいのかって考えていただけだ」
「あぁ、そのことね。それやったら、心配なかよ。さっき、コンビニの店員さんに聞いたら、“この道で合っとるばい。ずっと道なりに行けばトンネルのあるけん、それば越えてからもう一度聞けばよか”って、教えてくれんしゃった」
「そうか。じゃあ……」
恭也と千春の会話が続く。それを黙って聞いていた僕の頬に、突然、何か冷たい物が触れた。
「ひぇ!」
我ながら間抜けな声が口から飛び出た。慌てて横に目をやると、そこには、無邪気な笑顔で缶コーヒーを持つ、由莉の姿があった。
「ゆ、由莉」
「はい、どうぞ」
戸惑う僕の手に、缶コーヒーが渡される。
「ありがとう」
僕が礼を言うと、彼女は、
「どう致しまして」
と、笑みをそのままに返し、それから、
「いい天気ね」
そんな当たり障りのない言葉を足して空を見上げた。
「うん、そうだね」
まったく気の入っていない空返事をしつつ、僕は、空ではなく由莉の横顔を見つめた。
少し面映ゆい思いをしているかのような、そんな横顔だった。
僕は、由莉の照れの理由が、先ほどの“缶コーヒーの悪戯”にあるのだとすぐに覚った。普段の彼女は、あんな子供染みた真似をする女性ではないからである。
「由莉も、僕との距離を縮めようとしてくれているのだろうか?」そんなことを考えながら、僕は、プルトップを開けて缶コーヒーを口に運んだ。
――ごくり――
他所に気を取られていたせいもあり、嚥下する時に僕の喉が大きく鳴った。
「もう、純平ったら……」
こちらを向いた由莉が呆れた様子で頬を膨らませる。折角気持ちよく空を見ていたのに、それを邪魔されたからだろう。
「ごめん。凄く美味いコーヒーだったから、つい口に含みすぎたんだ」
「凄く? 普通の缶コーヒーよ?」
不思議そうな顔の彼女。
そこから視線を逃がすと、僕は答えた。
「たとえ普通の缶コーヒーでも、由莉から貰えたってだけで、僕にとっては凄く美味しいんだよ」
その途端、弾けたように由莉が笑いだした。
「そんな台詞、純平には似合わないよ」
「何だよ。いいじゃないか、たまには恰好つけてみたって……」
拗ねた風を装い、僕は改めて由莉に目をやった。首元まで伸びた少し明るめの髪が、風に吹かれてさらりと揺れていた。
「……可愛い」僕は素直にそう思った。
そんな胸中を、知ってか知らでか彼女は言う。
「ごめんなさい。そうだよね、たまには恰好つけるのもいいよね。私も嬉しかったし」
「嬉しい?」
「うん。由莉から貰うコーヒーだから凄く美味しいって言ってもらえて、嬉しかったよ」
由莉は、毛先のカールを弄びながらはにかんだ。
「この上なく、可愛いじゃないか!」僕は心の底からそう思った。
「ゆ、由莉」
もっと彼女に近づこうと、勢い込んで一歩を踏み出す。
ところが、
「なあ、純平」
「絶対にわざとだろ!」と叫びたくなるタイミングで、恭也が再び目の前に顔を出してきた。
「何だよ!」
突っ慳貪な返事をする僕に、真剣な眼差しで彼は言った。
「雅に、頼んでみてくれないか?」
「雅に? 何を?」
「ノートパソコンを貸してくれ、って」
「あ、あいつのノートパソコンを借りる? な、な、何で?」
動揺を隠すことなくそう僕が問うと、恭也の代わりに千春が答えた。
「ウチね、叔父さんの民宿に行ったことはあるとばってん、四歳の時に一回だけったい。やけんが、詳しい場所までは分からんとよ」
「なるほど。地図情報で正確な位置を調べたい、ってことか」
「そうだ。カーナビはないし、携帯だと、細かな所が分かりづらくてな」
そう恭也が補足した。
「分かった。頼んでみるよ。でも、他の物ならまだしも、あいつからノートパソコンを取り上げるのは、ライオンから肉を奪うよりも難しいと思うぞ」
「あぁ、それは重々承知している。承知しているからこそ、彼女と高校のころから付き合いのあるお前に頼んでいるんだ」
「うーん」
唸りながら僕は、「まぁ、確かに僕が適任だろうな」と思った。
だが、それは、“彼女との付き合いが長いから”では決してなく、“彼女の扱いを心得ているから”だった。
「約束はできないけど、一応、交渉してみるよ」
そう返事をする僕に、恭也は、
「頼む」
と、目の前で手を合わせた。
「ウチからも、お願い」
千春がそれに倣う。
そこに、よく事情を把握していない由莉までもが、
「お願い、純平」
と、乗りで二人の真似をした。
こうして、まるでお釈迦様のように三人から拝まれることになった僕は、ノートパソコンを借りるために、車の中で待つ雅の許へと、単身乗り込んだのだった。