7-ケイトと奴隷
屋敷にいる人物の中で、最も遠い人はだれか?
それは母親だった。
彼女は最初こそエルゲンの成長を歓迎し、優しく接していた。
しかし、そう時間がたたぬうちに、少なくとも2歳になるころにはエルゲンとは疎遠となっていた。
父とも疎遠といえば疎遠だったが、奴は母親に比べても忙しく屋敷に戻れば避ける事無く俺と接触している。
あの契約からしてもあえて避けているわけではないだろう。
一方で、母親はエルゲンを自身の意思で避けるようになった。
彼女は正しい。正常な反応だ。
この年齢にしてこの口調、能力。
誰がどうみてもエルゲンは正常な幼児ではなく、普通なら忌避されて当然なのだ。
どちらかといえば、他の屋敷の住人こそ変り種と言える。
そんなエルゲンの母親代わりとでも言うのが乳母だった。
乳母は20歳半ばぐらいの女性であり、長い金色の髪をしている。
彼女はリジェンダのように積極的に俺に関わりはしなかったが、食事の用意を始めとした身の回りの世話を一手に引き受けている。
その最中、エルゲンとの関わりを避けるような事はせず、むしろあちらから声をかけてくることも何度かあった。
それを最初は義務によるものだと思っていた。
乳母はアーガネルト家の屋敷においてはやや離れた立ち位置にいる。
彼女はあくまで使用人、家族ではないのだ。
あくまで、仕事として屋敷に存在する。
それをいうのならば護衛の男やリジェンダもそうではある。
しかし奴らは明らかに仕事だから、義務だからとこの屋敷にいる雰囲気ではない。
それはエルゲンの父と母も明確に区別していた。
護衛の男とは友として、乳母は使用人として。
護衛の男やリジェンダとは、むしろ家族ぐるみの付き合いといったほうが正確だろう。
ようするに乳母は屋敷においては仕事で来ているのだ。
例えエルゲンが気味が悪かったとしても我慢しなければならない。
だが、乳母は明らかに、不必要なほどに俺を気にかけている。
それがわかったのはリジェンダが騎士学校に入学し、そして母の妊娠が明らかになった後。
どうやら両親は忙しいながらも盛るだけの時間はあったようだ。
妊娠についてのエピソードは、特に語るものはない。
突然告げれ、護衛の男やリジェンダ、父親が適当に祝って、それで終わりだ。
それ以降、ますます母親は俺をみなくなり、そして乳母がより積極的にエルゲンに関わってきたのだ。
母親に不必要とでもいいたげな態度をとられるエルゲンに同情したのだろうか?
エルゲンの勘は否と告げていた。こいつはもっと粘ったらしく嫌な感情に基づいた行動だと、そう感じている。
とはいえ、エルゲンにとっては乳母が馴れ馴れしくもなければ不利益もない。
故に、放置していたことなのだが、ある日エルゲンはふと思いついて乳母に声をかけた。
「おい、今から言うものを買って来い。金は自分でなんとかしろ。いいか――」
俺が乳母に頼んだのは紙とインク、それから魔術の実験材料と器具だ。
紙とインクはともかく、実験器具はそこそこ値段が張る。
もちろん、公爵家にとってははした金だが、俺は金は自分でなんとかしろといった。
一応全て、これから必要になるかもしれないものだ。
だが本気でこの乳母からむしろうと思ったわけでもない。
ただ、この乳母の反応を計りたかったというだけだ。
それから数時間後のことだった。
「エルゲン様。これはいかがでしょうか?」
乳母が持って来たのは指定された品全て。
どれも実用的で品質が高い。
「金はどこのものを使った?」
「エルゲン様の指示通り、私の私財を」
「お前、魔術の知識があるのか?」
この質問をしたのは物品の品質、特に魔術の実験器具が良かったからだ。
「いいえ、品についてはいくつか店を回り、魔術師のアドバイスを選んで見繕いました」
この事実だけでも正直異様なのだが、彼女は会話中も一切の悪感情を見せなかった。
むしろ実験器具を手にする俺をみて嬉しそうにしたいた。
こいつはマゾヒストの類なのだろうか?
自分なりに嫌な命令をだしたはずなのだが。
「では次だ。次は多少時間がかかってもかまわん。1ヶ月は待とう。なるべく死にかけの人間を手に入れてこい。奴隷でもなんでもいいが、非合法な手段はとるなよ?金については今回は俺の名前をだしてもいい」
相当な無茶なのは自覚している。
こちらも全く意味のない使いではない。死にかけの人間を手に入れてやりたいことがあった。
しかし、自分でも今のところただの願望、手に入ればいいかなといった程度のもの。
この世界の社会について熟知してないが、通常であれば死にかけの奴隷など合法で入手できるとは思えなかった。
乳母がエルゲンに、それを引き渡したのは一週間後の事だった。
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「ふん、やるではないか。お前。見直したぞ」
「・・・・・凄い。エルゲン様が普通に褒めてる」
リジェンダは目の前の子供に戦慄しつつ、エルゲンの言葉に驚く。
ちなみにリジェンダはこの子供の搬入を手伝い、そのまま居座っている。
「ありがとうございます」
乳母――この件で名前を覚えたが、ケイトは極めて自然に応じる。
そこにはエルゲンが褒めるのも納得の重病の子供がいた。
全身の皮膚がただれ、異様にやせこけ。生気というものがまるで感じられない。
身体からは腐臭がしており、性別不明どころか人間に見えない。
今死んでないのが奇跡に思えるモノがそこにあった。
この人物も凄いが、それを手に入れたケイトもすさまじい。
なるべく死にかけとはいったがこれほどのものを手に入れるとは。
立場的には奴隷であり、ケイト曰くこれまた複数の奴隷商に立ち入って情報を集め、入手したらしい。
またどうやらこの国では奴隷の売買は犯罪ではなく、また売りはともかく買いは貴族が行っても全く問題ないとの事。
だからといってこんな状態の人間を買うのはさすがに無茶なはずだが・・・・・・
「こうなれば時間が一刻でもおしいな」
同時に、エルゲンは杖と魔法触媒を取り出し、魔法を行使する。
杖はギュンターから渡されたもの、魔法触媒はケイトが購入したものだ。
既に二人には目もくれていない。
当の二人は僅かに逡巡し、隅にまで離れたものの部屋に居座った。
何かをしているエルゲンを見つめ続けている。
エルゲンがしようとしているのは、この子供の治療であった。
魔法のことを知った時、その大きなメリットとして上げられたのが治癒魔法の存在だ。
しかしこの治癒魔法、実は難易度が非常に高い。等級で言えば最下級の治癒魔法でも練段の技術を要する。
考えれば当たり前のことだ、壊すより直すほうが難しいに決まっている。
魔法というのは、計算であり、数式であり、理論だ。
火が燃え盛る理論と身体を再生される理論、どちらが難解かは現代の人間ならばなんとなくわかるだろう。
また治癒魔法というのは、本質的には人体に干渉する魔法だ。
一歩間違えれば怪我どころか死の危険性がある。
エルゲンが死にかけの人間を要求したのは、自分が編み出した最高の治癒魔法を試すためである。
屋敷の人間にためすには危険すぎるし、そもそも治療の必要がない。
そして今、運よくいい実験体にめぐり合えたわけだ。
だが予想以上に死にかけの体はエルゲンの治癒魔法の行使すら危うくする。
まず前提として、現代の記憶をもっているといっても司央は医者ではない。
つまりエルゲンは専門的な医療知識は持っておらず、あくまで一般教養の範囲内の知識のみ得ている。
そのエルゲンの治癒魔法はスマートとは言いがたい。
大雑把に言えば、身体の魔力の流れの乱れから悪い器官を推測しそれを根こそぎ正常なものに置き換えるというものだ。
例えば病気の詳細はわからないが胃が悪いとわかっている、ならばとにもかくにも胃を移植してしまえば直るだろう、という極めて強引で頭の悪い方法。
エルゲンの好みではないが、実のところエルゲンはこうした魔術に適正がある。
そこでこの魔法の実戦に踏み切ったわけだが、ここで問題がある。
この子供、明らかにほぼ全身が異常であり、そしてみるからに体力がなさそうなのだ。
魔法であっても無から有を生み出すのは莫大な魔力が必要である。
基本的に治癒魔法は、再生力を増やしたり身体のどこかを代替させることで効果を発揮する。
再生力を高めるためにエネルギーを、傷を塞ぐのに血肉を使う。
そのエネルギーや血肉というのがこの子供には不足している。
現代的に言えば、この子供は手術に耐えられる体力を持っていない。
かといって体力回復などしている時間はない、死は一歩一歩近づいており、時がたつごとに体力は目減りしていく。
相当に厳しい状態だ。
だが、それでこそこの魔法を試すのに相応しい。
それに、こちらの立場としては結局死んでくれたほうが都合がいい。
あとの処理が楽になる。
「ケイト、お前の手も貸してもらうぞ」
「はい、エルゲン様」
ケイトはあいかわらず従順だ。
エルゲンは治療を開始した。