1-悪党
(・・・?、なんだ!?)
目覚めた時には四つん這いになっていた。
意識は揺れて、強烈な違和感が体を襲う。
周辺を見回してみると自分の記憶には存在しない、豪勢な一室に居るようだった。
違和感を拭ぐえぬままに、とにかく立ちあがる。
ふらり
一瞬よろけるものの正常に立つことができた。
同時に、違和感の正体に気づく。
縮んでいた。身長がだ。それも10cmや20cm等ではない。
部屋に存在するテーブルやソファー、そして自身の手足をみて推測する。
現状の俺の身長はおそらく7、80cm。体形をみても幼児といっていいだろう。
記憶が確かならば、俺の身長は180cmを超えていたのだから二分の一以下になっている。
(どういうことだ)
意識もどこかぼんやりする。俺の頭がどこか回らない。
俺はひとまず記憶の整理をすることにする。
平賀 司央それが俺の名だ。
日本人で、それなりに有名な大学を卒業し学者となった。
そして悪党。
他人を道具としか思わず、己の欲求のためにはどんな手段も厭わない。
その性質は傲慢。自身でもそれを理解しているがやめる気は毛頭ない。
そう、そんな男が司央だ。
だが欠けている、記憶は完全ではない。
30代の記憶まではあるのだが、そこからぷっつり途切れている。
自分が本当は何歳なのかすらわからない。
そもそもどうして司央はここにいるのか、何故縮んでいるだろうか?
最近の記憶を思い出そうとする。
そして浮かんできたものは司央の記憶とは全く別の記憶だった。
それは1年と少しの記憶。
母親の中に居て、そして生まれ、母乳を飲みながら育だつ。
その1年には母親の他にも男や少女、女性がいて――
それはまだ自分の名前もわからない幼児の、男の子の記憶だ。
ようするに今の司央の状態は、
(俺(司央)の記憶を持っている幼児ということか)
幼児の司央は人格すら持っていなかった。
だが思い出そうとすれば1年に起きた事柄が浮かんでくる。
そういえば、幼児の司央にはいつも引っ付いてくる二人の女性がいた。
「――――――――、―――――」
噂をすれば影とやらか。
引っ付いてくる方の内一人、女にしては短い、銀の髪をもつ少女が部屋に入ってくる。
年齢は10歳ほどだろうか、それでも司央よりは背はずっと高い。
服装は西洋の軍服に近い。下はスカートだが。
帯剣もしている。細身の剣だ。
少女は膝を曲げて顔の位置を下げ、司央に何かを言っている。
しかし何を喋っているかわからない。
司央は日本語、英語、中国語、アラビア語の4ヶ国語を習得しているが、そのどれにも当てはまらない。
さして驚きはしなかった。
幼児の記憶から言葉の事は分かっていたからだ。
同時にいくつもの単語と、この言語の知識が浮かんでくる。
幼児の司央の知識だ。ただし文法はわからない。
この世界の言葉に対する言語能力は、一部要求を辛うじて単語で言えるぐらいだ。
言葉が分からないのはよろしくない。
現状の目的を言葉の習得としよう。
幼児の記憶から今居る屋敷について探って移動をする。
目的は書斎。
「―――――――――」
少女が何かを言いつつ、ついてくる。
何を言っているかわからないので、当然無視して歩く。
ドアを開けようとすると代わりに開けてくれるのは助かった。
そのおかげもあって書斎にはスムーズに着く。
屋敷の豪勢さに違わず、書斎の蔵書も非常に多かった。
タイトルの文字をみても言語の正体は分からない。
しばし、思考する。どうすれば効率的に言語を習得できるのか。
読み書き、話し、聞く。なるべくならば一度に習得できるのが理想だ。
司央は一冊の薄めの本を手にとる。
言語がなくても辛うじて内容を推測できる、絵本だ。
それをついてきた少女に向けて一言、
「よん、で」
幼児が言葉を覚えるのならば、これだろう。
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言語の習得を始めてから4ヶ月。
俺はは既に日常会話程度ならばできるようになっていた。
それに伴って、自分の置かれている立場と周囲の人間についても少しずつわかってくる。
まずエルゲンは生後1歳ほどの幼児だったらしい。
そこから4ヶ月ほど経っているために現在は1歳と4ヶ月。
俺の現在の名前はエルゲン=アーガネルト。
爵位はわからないが貴族の長男らしい。
俺の周囲には主に5人の人物がいる。
そのうち二人は父母。名前はわからん、興味もない。
次に父母の護衛らしき30代の男。当然名前は知らない。
そして使用人兼乳母、20半ばほどの女性だ。こちらも名前はわからん。
ちなみにいつも引っ付いてくる二人の女性の内の一人でもある。
最後の一人が最初に絵本を読ませた銀の髪の少女だ。
名前はリジェンダ=サイブール。
何故リジェンダの名前だけ記憶しているかというと、言語の習得において便利だったからだ。
あの後は父母や乳母にも絵本を読んでもらったが、リジェンダが一番理解できる読みをしていた。
読む最中やや大げさにジェスチャーで内容を伝えてくれるのだ。
加えて読心の能力でも持っているんじゃないかと疑うほどに、こちらのジェスチャーを拾ってくれる。
彼女が居ないときには他の人間、大抵は乳母に名前を言えば多少時間はかけるがやって来る。
このように使える道具であるリジェンダの名前のみは記憶しているのだ。
だが最近はリジェンダよりは乳母と一緒に居ることが多い。
リジェンダは見習い護衛らしく、まだ訓練が必要なためだ。
今までは俺が彼女を指名していたために、訓練を一時休止して一緒にいたらしい。
だが言語の習得に伴い、彼女の指名もなくなってきたため、最近は訓練に集中している。
こちらとしても既に彼女は用済みなので文句はない。
俺が幼児になり、見知らぬ地にきてからの生活はごく単純だった。
寝る、食べる、本を読ませる。毎日がこのパターンだ。
リジェンダが離れることが多くなってからは自分で本を読んでいる。
そんな俺に思うことがあるかは定かではないが、この生活に口を挟む奴はいなかった。
父母とは一緒にいることは少ない。ついでに護衛らしき男ともだ。
今は俺を含めて4人、正確には3人での夕食中だ。ちなみに俺は既に離乳食を食べ始めている。
理由は当然、女の乳にしゃぶりつくなど寒気がするからだ。
護衛の男とリジェンダはいない。
既に帰ったのだろうか。護衛としてはどうかと思ったが、王国内なら滅多なこともないだろうか。
この夕食などは父母と接触する数少ない機会の一つだ。俺が寝ていなければ。
俺としては父母と話したところで利益などないので気にしない。
乳母は子供用の椅子に座る俺の後ろにいる。
使用人なので主人達と食事を別にするのはいいのだが、何故俺の後ろにいるのか。
この乳母、直接話しかけてくることは少ない。
だが俺が一人の時は、使用人の仕事の最中でも5分おきに様子を見に来るぐらい過保護な人物だ。
このような夕食中では、彼女は一緒に食事をすることはなく、大抵俺の様子を父母に報告する。
「エルゲン様は大変勉強熱心で、今日も大陸地理の本を読んでおられました」
普通はそんな本を読んだところで理解などできているはずもないのだが、さも嬉しそうに報告する。
「そうですか。いつも貴方から話を聞くたびにエルゲンの将来が楽しみになります」
「まだエルゲンは2歳にもなっておらん。今は勉学より、ただ健康に生きることのほうが重要だ。そちらのほうはどうだ?」
母は笑い、父は冷静に返す。
そんな日々の中。
この地で、この身体で、何をするのか。
エルゲンは考えていた。
平賀司央は悪党だった。
同時に熱のない人間だった。
司央は世界が空虚に感じられた。
平賀司央は合理の人間だ。悪だとしても目的は必要だった。
悪党であっても獣ではなかったからだ。
彼は並みの人間より頭が回るし、理性によって動いている。
精神も成熟しているために、俗な欲にも溺れることはない。
能力もずば抜けていた。
結果として、彼は悪などしなくても欲しいものが手に入っていた。
最上級の衣食住と金と権力、名声。全ては我が手に。
まともな人間なら無欠のサクセスストーリーだ。
だが平賀司央は悪党。そしてその悪性を遺憾なく発揮することを望んでいる。
その心は満たされることはない。
つまりは、悪をなしたいがそんなことをする理由が一切ないというジレンマ。
もしこのまま死を意識する年齢になったら、司央は間違いなく鬱屈していた悪性を爆発させていた。
合理もなにもない、ただ己の悪を発散させて、積み上げた能力を発揮すべく理由のない悪行をしていただろう。
だが今、現実は思わぬ展開を見せている。
この世界ならば、悪である目的が見つかるかもしれない。
かすかに希望を抱き、司央は新しい身体で2度目の生を始める。