旅に出るには
長いです。1万文字オーバーです。暇つぶしにでもどうぞ。
(後半、R15表現が入ります。苦手な方、15歳未満の方は回避してください)
社会人になって三年目。今年も残り1ヶ月をきった12月の初め。私は直属の上司に呼び出されて、会議室へ向かった。
席がたったの6つしかないこの会議室は、社内で重要な打ち合わせをする時役に立つ。お客様を通す広めの会議室とは別のこの部屋に入ってみれば、私を呼び出した直属の上司こと、勅使河原薫主任が笑顔を向けた。そしてこの場にはもう二人――この会社の副社長である各務さんと、同じ課で仕事上一番関わっている、神薗瑠偉。美人でキャリアウーマンな薫さんとナイスミドルな副社長は温厚で優しいからまだ安心できるけど、不機嫌そうな俺様男を見た瞬間、私は一瞬固まった。一体何であんたまでいるの。っていうか、この集まりは一体何! どんなヘマやらかしたんだ、自分。
「ももちゃん、中に入って」
「あ、すいません」
ももちゃんと呼ばれた私こと、桃瀬咲綾は、ささっと扉を閉めてから、空いている席に着く。目の前には薫さんと副社長。そして私の隣に座るのが、営業成績一位の我が社のエリートだ。
普段はぼさぼさな髪に黒縁メガネをかけている男だが、実は整った容姿をしている。が、そんな奴の素顔を知るのは同じ課のメンバーと、瑠偉担当の取引先のみ。超絶不機嫌な男の隣に座るのは、ちょっと腰が引ける。
全く何でここに呼ばれたのか検討がつかない中、50代前半の副社長が口火を切った。
「ちょっと気になる話を小耳に挟んでね……もも、うちの会社辞めちゃうのかい?」
「え?」
意外な質問に言葉が詰まった。
じっと固唾を飲んで見つめてくる二人に視線を合わせる。
え、ちょっと待って。私まだ辞めるなんて言ってないよ? しかも辞めるかもなんて話は、このメンバーに聞かれる場所では言っていない。限られた職場の友人二人にポロッと相談ついでに言っただけで。それに具体的に何も決めていないんだけど?
「本当なの? ももちゃん」
嘘よね? なんて懇願する目で薫さんに見つめられた。知的なメガネの奥は、私の真意を見透かそうとしているくらい力強い光を放っていて、えーと、若干緊張するんだけど!
「今すぐ辞めるつもりはありません。最低でも3年は勤める気でいますから」
あと3ヶ月ちょっとまでは、かならずこの会社へ出社する。どんな所でも、3年はがんばると自分で決めたから。けれど、3年後は?
「3年って、あと3ヶ月じゃないか。その後はどうするつもりなんだい?」
直接関わる事が多い副社長が、身を乗り出して尋ねてきた。ここで言うのは心の準備が出来てなかったけど、仕方がない。ある意味チャンスだ!
私はここ1ヶ月ほど考えていた自分の将来を話し始めた。
「わかりませんけど、辞める可能性はあります。私、旅人になりたいんで」
「「……は?」」
目の前に座る二人共、鳩が豆鉄砲を食ったよう顔で同じ言葉を発した。唯一沈黙を黙っている男が隣にいるけれど、とりあえず無視しておく。無表情が怖いから。
「えっと、ももちゃん。その、旅人っていうのは、具体的にはどういう意味で?」
いつも行動も発言もテキパキしている薫さんが、珍しく動揺している。私は至極真面目な顔で……は、無理だけど、ふつうに笑顔ではっきりと答えた。
「はい。旅に出るという、そのまんまの意味です! まだ行ったことがない国に赴いて、いろいろと見聞を広めたり、世界観を広めたりしたいなあ、と。ですが、当然ですけどまとまった時間は仕事をしていたら取れませんよね。ですので、いっその事仕事を辞めて、時間と予算を決めて、旅をしてみようかと」
まだ具体的には何も決めていない。だから詳しく説明するのも難しいんだけど……。全部思いつきの計画で、総務の姉御である律子さんと、一歳下の経理の同僚に相談したのだ。私の人生、このままでいいのかな? って。
私が勤める会社は、そこそこ大手で有名な精密機器会社。本社は東京で、ここはシアトル支社である。従業員は約30人程。アメリカ国内でもこのシアトル支社の他に、ニューヨーク、コロラド、アトランタ、サンディエゴなどにもオフィスがあるが、このシアトル支社は国内での本社にあたるので、従業員の数も他に比べて多めだ。
幼少時をドイツで過ごし、小学校低学年で日本に帰国。中学1年の時に父親の海外赴任で家族でシアトルに来てから、早10年ちょっと。他所に行くのは面倒だったので地元の大学に進んだ所で、両親が再びドイツに行ってしまった。
芸術家肌の双子の姉と兄と3人で生活していたけれど、今じゃ姉は音楽の道を突っ走り、ヨーロッパを駆け巡りながらバイオリニストとして活動している。兄は陶芸の道に進んで、山に行ったり、引きこもって出てこなかったり。私にはまったくよくわからないけれど、兄が作る作品は何故か高額な値段で買われるようで、生活は特に不自由していない。
末っ子の私は、もともと映画関係の仕事を希望していた。が、就職先は全くの畑違いだった。
大学を卒業してから半年。まともに就活をしなかった私に父が焦り始め、勝手に人材派遣会社に登録させられた直後に受けた面接が、この会社だったのだ。一体何が良かったのかわからないが、面接を担当した社長、副社長の各務さんと薫さんに何故か気に入られてしまい、あっという間に就職先が決まったのが、約3年前の3月。人生とは何が起こるかわからない。
最初はやっていけるのか? と不安を覚えたけど、職場の人間関係が良好ですぐに慣れた。仕事内用も3年経てば一通り覚えるわけで、事務仕事だからほとんど毎週同じことの繰り返し。営業のアシスタント業務をこなして、書類を作り続けて、気付けば今年の7月で24歳。20代半ばに迫り、能天気な私もそろそろ本格的に将来を考えるべきかと思い始めたのだ。
「何か不満でもあったとか? あ、薫に虐められたりでもしたのか?」
「え!? いや、まさか! とんでもない」
思案にふけっていた私に心配顔で、副社長が顔色を窺ってきた。父親世代の副社長にしてみれば、私なんて娘のようなものなのだろう。確か私と同い年の息子さんがいるって言ってたっけ。
私より8つ上の薫さんは、笑顔のまま「何て事仰るんですか」と副社長にぼやいていた。ちなみに薫さんの上司が副社長にあたる。
「虐めとかそんなんじゃなくて。逆に居心地が良すぎるから困るというか……」
さて、どうやって説明したらいいものか。
この職場はかなり居心地がいい。人間関係のストレスもほとんどないし、毎日定時で上がれて残業もなし。仕事は事務仕事だから入力作業とか、同じことの繰り返し。良く言えば楽、悪く言えば単調。営業マンと違い出張もないから、フットワークの重い私には都合がいい。お給料はまあ、ぼちぼち? 長く勤めていればそれなりに上がっていくだろうけど、そこまで不自由しているわけでもない。たまに家に帰って来る双子が毎月生活費を入れてくれるし、貯金もたまりつつある。
じゃ、何が問題かって?
それは刺激がない毎日だろう。
3年も経てばある程度慣れてくるし、新しく学ぶ事もほとんどない。他の課への移動もなければ、昇格も転勤もなし。キャリアアップはこの会社にいる限り望めないのだ。
”若いうちの苦労は買ってでもしろ”って俗に良く言われるのに、このままいけば私全く苦労しないんじゃないの? と、唐突に気付いてしまったのだ。
それも律子さんのママ友とお会いする機会があったからだろう。まだ小さい子たちがいる、私より年上のお姉さま方はこう言った。
『若い今しかできない事は沢山あるよ? 結婚したら、子供が生まれたら、やりたい事も行きたい所も、ほとんどできないからね。今のうちにやりたい事しておいた方がいいよ、絶対!』
頷き合う彼女達を見て、その言葉がズーンと圧し掛かった。確かにそうかもしれない……
畑違いの仕事でもそれなりに楽しくやってきた。毎月お給料を貰っているんだから、仕事はちゃんと真面目に取り組んできたが、これがやりたいことかと言われれば疑問符が湧く。このまま5年、10年経過したら、私はここで何を新たに吸収できるんだろう? と、考えてしまったわけ。しかも律子さんは、『いつまでここにいる気なの? 勿体ないよ』なんて遠慮なく言ってくるし!
だからあえて、怠け者でめんどくさがりな私が挑戦しない事をやってみようと思ったのだ。それが、一人旅行。
一人でふら~っとどっか行くのは好きだけど、長期間家を空けた事はない。旅の期間を1ヶ月~3ヶ月と予め決めて、予算のやりくりをしながら各国を巡る……そんな想像が脳内で駆け巡った瞬間、「あ、旅人になろう」と思ったんだよね。律子さんに相談したら、大受けして、「行ってこい!」とのエールを貰った。
「――つまり、このまま居心地のいいぬるま湯生活をしていたら、人間的に成長できないかもしれない、と思ったんです。今いろいろと吸収できる若いうちに、自分の目で見て、聞いて、感じて、新たな発見と出会う事も人生には必要かと思いまして。でも会社を長期休む事は出来ませんから、その場合は辞める事になるのかな、と」
でももし辞めるとしても、それは後任の人が決まって、一通り仕事の引継ぎが終わったらって考えてますけど。
微妙な顔をした副社長が、嘆息した。
「僕は二人共寿退社で会社を辞めるんだと思ってたんだけどなあ……」
独身貴族を謳歌中の薫さんが、視線を逸らした。彼女は美人なのに結婚願望がまるでない。が、私は結婚したから辞めるという考え、持っていないんだけど……
「私は専業主婦になるつもりありませんよ? たとえ結婚しても、子供が生まれるまで仕事は続けていたいです」
「そうなのかい?」
こくりと頷いた。
そんな会話をしていたら、今まで黙っていた隣の無愛想な男がようやく口を開いた。いつもより数段低い声で告げる。
「で、どこに行くつもりだ。場所は決まってるんだろうな?」
何だか答えにくい空気作るな、こいつ。
そんな空気を壊すように、あえて明るい声で答えた。
「実は先日コルクボードと世界地図を買ってきまして。それでヨーロッパあたりに狙いを決めて、ダーツで行き先を決めたいと思います!」
確かそんな番組が昔あったよね?
「いやいや、ももちゃん! 行き先が自分の希望通りじゃなかったらどうするの?」
「えーと、一応回数を決めて、投げるのは3回までとかどうでしょう? 治安や宗教観、経済状況に物価、その他もろもろな懸念事項を鑑みて、3回の中から一番安全で興味がもてる場所に行ってみようかな~っと」
「それは、ご両親心配するんじゃ……」と、薫さんがぼそりと呟いた。その声を拾った副社長も同意する。心配はかなりするだろうね……母は超がつくほどの心配性だから。
「もものご両親は今ドイツだっけ? 心配すると思うよ。娘がいきなり旅に出るなんて知ったら」
「あ、その場合両親には”旅行に行く”と言うだけですから、大丈夫です」
そう答えたら、二人に微妙な顔をされてしまった。
「旅行に行く、旅に行く、旅に出る。同じ漢字を使っても意味合いが変わってきちゃう微妙なニュアンスの違い。日本語って難しいですよねー。家を出る、家出する、出家する。これだって全部同じ漢字なのに、捉え方が変わって来ますし」
その違いを逆に利用させてもらおう。そう目論んでいたら――隣から容赦のない手刀が頭に下った。
「ア ホ か!」
「痛い痛いー!?」
副社長&薫さんを前にしても不機嫌さを丸出しにした瑠偉は、普段からぼさぼさにしている髪をぐしゃぐしゃとかき混ぜて、メガネを取った。目頭を揉んでから、鋭い瞳でぎろりと睨んでくる。うう、猛禽類みたいで怖っ……じゃなかった、何で睨まれきゃいけないのよ!?
「お前みたいな怠け者でめんどくさがりで厄介な体質を持った人間が、旅に出るなんて自殺行為だと思わないのか。食べ物の制限だけで一体いくつあるんだ? 刺身なら新鮮な生魚じゃないと蕁麻疹が出る、少し冷凍庫で眠っていたアイスクリームを食べただけで一人だけ腹を壊す、生野菜やフルーツなどの酵素を常に取り入れていないと消化不良を起こす。ちょっと調子に乗って好き放題食べた後、バランス崩して皮膚科通いと、食事制限を再開。基本は粗食で日本食しか食えない奴が、他国の、しかもヨーロッパにそう何ヶ月もいられるか」
「う”っ……! 痛い所を……!」
そう、うちの家系はアレルギー体質なのだ。
そこまで重くはないんだけどね、体調が悪い時に乳製品はダメ。すぐにお腹を壊すから。それに油っぽい物も食べられない。今は肌に何も湿疹の類は出来ていないけど、質の悪い油を取ると、瞼が腫れたりもする。って、確かに私、食べ物の制限が多すぎる……! 今更ながら、奴に気付かされるとは。むむ、何か悔しいっ。
「別に、今の旅に出る云々は、全部可能性の一つであって! 必ずしもそうするとは限りませんし、すべては私の気持ち次第……」
「お前は、少しでも行ける可能性に天秤が傾いたら、即決して行くだろう。信用できねえ」
ちょ、仮にも仕事のパートナーを組んでてそれ!?
あんたが担当している書類、私が全部こなしていたっていうのに! 信用できないとは、失敬な!
「まあまあ、落ち着いて。とりあえず、ももちゃんの気持ちはよーくわかったわ。正直言うと、辞められちゃうのは非常に痛いし、困るけど。あなたの人生だから、会社としても「辞めるな」とは言えないしねえ。可能性の一つとして、私達も心にとめておくわ」
そう言って、副社長と薫さんは会議室を後にした。
残ったこの男、瑠偉は、部屋を出る前に私に振り返る。
「今夜飲みに行くからな。逃げるなよ」
バタン、と閉められた扉を、私は頬が引きつったまま見つめていた。
◇ ◇ ◇
「――だからあ、彼氏もいない、両親も海外。双子も好きかってしている今だからこそ、私も自由に生きるべきだと思って!」
ぐびぐびとビールジョッキを煽った。室内は適度に温かいから、真冬の12月でもビールがおいしい。もう何杯飲み干しているのかわからないジョッキをテーブルにドンと置く。
何だかもう、3杯目を数えたあたりから、どっちでもよくなってきた。だって今日は金曜日だもん。明日から週末じゃない。今夜こそ飲むのに最適な日はないでしょう! まあ、相手がこの強引男なわけですけども。
瑠偉はオンとオフが激しい。取引先や客を対応する時は、髪をきちんとセットして、眼鏡も取っている。そうするとかなり整った容姿をしていると気づくのだ。ぼさぼさな髪でもちゃんと清潔感はあるけれど。それにどうやらメガネは伊達らしい。「変装グッズか!」と律子さんは爆笑していたっけ。
どこにいても人目を惹く容姿をしているこの男の普段は、あえて地味にしているのだ。じゃないと、注目されて鬱陶しいから。美形と呼ばれる類に入るんだろうけど、残念。私は俺様系でついでに眼鏡を外すと目つきが鋭い男は苦手。同じ美形でも、爽やかな笑みが可愛い年下の青年と飲みたい。まあ、そんな癒し系男子はうちの社にはいないが。
「おい、何か失礼な事を考えているだろう」
「べっつにー? そんな事を疑う方が失礼ってもんでしょ」
社内では敬語を使うけど、外では遠慮なくタメ語を使わせてもらっている。実際瑠偉は私の4歳上で、28歳。去年日本の本社から駐在で来た、所謂エリートらしい。ここでは私の方がちょっとだけ先輩。まあ、先輩風を吹かせる暇も、隙もないほど、こいつは仕事の鬼でよくできた奴だった。
「ねえ、瑠偉さんはさ、今のままでいいの? 寅さんに憧れたりしない?」
枝豆をつまみながら、焼き鳥の串を外す。ここは会社からそう遠くない日本の焼き鳥屋さんなのだ。揚げ物は苦手でも、グリル系はOKですよ、私!
「俺はまだ修行中だからな。寅さんに憧れは抱いていない」
「ふーん、そっか」
って事は、いつかは日本に帰るのか。まあ、当然だよね。日本に帰ればそれなりのポジションに就くんだろう。帰ったら課長に昇進してもおかしくない。それ位の結果を、この男は出しているんだし。
「お前は何で急に会社を辞めたいだなんて思ったんだ」
眼鏡の奥からまっすぐに瑠偉が視線を投げた。ぼんやりと見つめながら、首をひねり、自分の掌を確認する。手相というか、私の結婚線を。
「私さ、二番目の人と結婚したいんだよねー」
「……は? 二番目?」
コクリと頷きながら、手の横を見せた。くっきりと引かれている結婚線が3本。その真ん中の一本は、濃くてまっすぐで、長い。きっとこの人が良縁なのだろう。
「真綾ちゃん……姉がね、私の結婚年齢は、25歳だろうって言ったんだー。それってあと1年って事でしょう? 今の生活を続けてたら、ぶっちゃけ新しい出会いなんてないに等しいし、私あんま外出るの好きじゃないし。いい人とのご縁もあるのかないのか、わからないけど。でも、旅に行けばさ、その分いろんな人と交流ができるわけじゃない?」
「外出るの、面倒だって言ったばかりだろう。矛盾している」
「あはは、確かに。本音はめんどくさい。でも、人の出会いは一期一会。それを大切にしたいのも本音。素敵なお婿さん候補ができなくても、世界中に友達が出来たら、それはそれで楽しいかなーって。北欧とかも素敵だよね!」
フィンランドとかもいいなあ。
でも、あれ? 北欧って英語通じるっけ?
バイリンガルではあるけど、この男みたいに4ヶ国語も操れない。昔はドイツ語も喋れていたのに。脳の衰えが憎い。
「お前は婿探しの為に、旅に出るのか」
低く、どこか不機嫌めいた声が耳に届いた。まっすぐに向けられる力強い視線に、射抜かれる。嘘を言っても見破るぞ、という脅迫に似た声が届いた気がした。
頭のどこかに警報が鳴っているのに、どうやら酔ってて危機管理能力が衰えている今、私は愚かにもそれに気づかない。迂闊にぽろりと、笑って告げた。
「あはは、それもいいかもしれない! ヨーロッパ旅行に行った友達が、イケメンばっかりで目の保養って言ってたし。物好きな男性が一人や二人位いて、私と一緒にいたいって言ってくれる人が現れたら、それはそれで……」
言葉が途切れた。
瑠偉が私の手首を握りしめたからだ。細い私の手首を、余裕で掴んで目をすがめる。まるで蛇に睨まれた蛙のように、私は瞬時に硬直した。
「それはそれで――の続きは、何だ」
「えっ……っと~」
なんて言おうとしたのか、忘れてしまった。というか、何だか超絶に機嫌が悪そうなんですけど!?
酔いが少しさめたような気がして、時計を確認する。そろそろ10時を回ろうとしていた。
「もも」
催促するように、私の社内でのあだ名で名前を呼んだ。掠れた低い声にどこか色気が混じっているようで、ようやく動き始めた脳が危険を察知する。
ダメだ、ここにこれ以上こいつといては! 何か、後戻りできない沼にはまりそうな気配がする!!
「えっと、そろそろ帰ろっか」と焦り気味に告げたと同時に席を立たせられて、いつの間にか支払いが終わっていた事に気づいた。全く気付かなかったんだけど!
手首を握られたまま、瑠偉が車に歩いて行く。いつもはここまで飲まないけど、今日はしっかり飲んでしまった。「送る」と言われて、私は自分の車を会社に置いたまま、瑠偉の車に乗せられた。彼はそういえば、一滴もアルコールを飲んでいなかった。
「る、瑠偉さん? あの、私の家はそっちじゃないとおも……」
暗いフリーウェイを見ながら、思考はフル回転。さっきから一言も喋らないんですけど、この人!
何か地雷を踏んだか? 何で怒らせたんだろう、私。っていうか、どこに行くんだろう!?
一度は覚めたと思っていた酔いが、車の振動の所為か再びまわってくる。車内に流れるジャズを聴いていたら、心地よい酩酊感に襲われた。私は危機回避能力をどこかに置き忘れてしまったらしい。そして束の間、意識を失った。
無防備にも同僚に寝顔を晒して、気づいたらここは、ドコデショウ。
ホテル並みに広いこの部屋は……マジで、ホテルでした。って、笑えないよ!?
コートを脱いでくつろぎスタイルになった瑠偉は、千鳥足の私を手早く部屋に連れ込んだ。そしてソファに押し倒して、何故か手首を縫い留めている。って、待った、待った! この状況は一体何だ!?
「るるる、瑠偉さまー!? あの、酔ってるんですか!!」
「酔ってるのはお前だろ。俺は飲んでいない」
ああ、確かに。飲んでいたら飲酒運転……それはダメ、絶対。
じゃなくて!
伊達メガネをはずした瑠偉の顔がドアップで映って、顔が火照る。いくらタイプじゃなくても、美形は美形。髪を後ろに撫でた瑠偉の顔に、はらりと毛が落ちてきて、それが何とも言えない色気を醸し出していた。何故だか鼓動が早くなる。
って、待って、冗談抜きで待った!
顔がどんどん近づいてくるんですがーー!?
なんて焦った直後。私の悲鳴は飲み込まれてしまった。瑠偉の口内に。
「ん、んむー!?」
いきなりのディープキスに頭がついていかない。久しぶりに味わうキスにパニックだ。
舌を絡められて吸われて、どちらともわからない唾液を飲み込んで。高まる熱に思考がぼやける。
私、何でこいつにキスされているの!? しかも、頬を撫でられているのが妙に心地いいなんて、どこかで感じてしまっていて。って、うわ、うわー! 今の、なし!!
酸欠になりそうなキスが終わり、肩で息をする。涙目で睨み上げれば、奴は呼吸一つ乱していない。ムカつく……。そしてキスだけで酸欠気味に陥る己の運動不足を呪いたい……
でもようやく解放されたと思ったら、大間違いだった。
珍しく今日は膝丈スカートにタイツ、上はセーターを着ている。そして気づいたら、スカートのホックは外されて、セーターとタイツ姿の格好に……って、それはないよね!?
「ちょ、ちょっとー! 何でぬがせて……!?」
「この後何が待ってるかわからないほど、お前もガキじゃないだろ」
いやいや、ちょっと待て。
私達そもそも付き合ってないよね!? 職場のパートナーでこういった関係はいかがなものでしょう!!
「待った! こんな色気もへったくれもないような女に手を出すほど、あんたは不自由していないはずでしょ! 今なら間に合う、考え直せ!」
ふっと不敵な笑みを浮かべた瑠偉は一言、「諦めるのはお前だ」と言った。
いつの間にか両手を頭上で一つにまとめられていて、奴の片手で縫い留められている。顔にも首筋にもキスをされて、私はまともな思考能力を失いつつあった。まずい、非常にまずくないかこれ。
人の焦りを物ともせず、色気を振りまきながら「若気の至りってやつも、若いうちにしかできない事だぞ」なんて耳元で囁いた。
それってちょっとちがくね!?
私は一夜の過ちなんてするつもりは――!!
「ふひゃ!?」
あいている片手でセーターをまさぐっていた瑠偉が、ふいに私の腹肉をつまんだ。レディの腹肉を……ぷにっと。許せん……!!
「ふっ、柔らかいな」
耳朶に吐息を吹きかけられて、大きな手で素肌を撫でられて。体中が熱に侵されていく感覚に陥りそうなギリギリのラインで、私は瑠偉を睨み上げた。
蕩けそうなほど柔らかい笑みを浮かべた俺様男は、私のこめかみに口づける。羞恥に悶える中、奴の瞳の奥に情欲の炎がちらついているのが見えた。そこでようやく私は捕食者に狙われていた事に気付いた。
ヤバい、食われるかも……
あっという間に下着姿にされ至る所に所有の証を刻まれて。抗いきれなくなってきた私に、瑠偉は告げた。「酒の所為にすればいい」、と。
でも本気で嫌なら俺が嫌いだと言え。
そんな脅し文句を言われても、既にまともに考えられない私はもう何が何だかわからない状態で、ただ一言「嫌いじゃない」としか言うことができなかった。
小さく微笑んだ瑠偉が荒々しく私の唇を奪う。
睦言のように、「咲綾」なんて私の本名を艶めいた美声で囁くものだから、何故だか心臓が高鳴ってしまった。そんな風に名前を呼ぶなんて、反則だよ!
ほんと、お酒の勢いとは恐ろしいもので。
抵抗を諦めた私は、一夜の過ちを経験するのもアリか、なんて頭の片隅でぼんやりと思い始めてしまったのだ。だってキスをされても嫌悪感はまるでない。むしろ、触れられるのが心地いいとまで感じるなんて、どうかしている。
高まる熱に翻弄され、何度も波に飲み込まれて。私を愛おしげに見つめてくる瑠偉の顔を最後に、意識を失ったのだった。
◇ ◇ ◇
社会人4年目を迎える今日。私は3年勤め上げたこの会社を辞める羽目になった。
理由は至極簡単――妊娠が発覚したのだ。
既成事実を作り私を傍にとどめておく事に成功した俺様強引男は、とんでもない過保護な男に変貌した。旅に出る計画がとん挫してやさぐれる私に、瑠偉は蕩けそうな笑みを浮かべて見つめてくる。ちょっと、あんたはいつの間に属性を増やしたんだ。
「新婚旅行はお前の好きな所に連れて行ってやる。退屈する暇もないほど、刺激的な毎日を送らせてやるから覚悟しておけ」
色気ダダ漏れの美声でそう告げた瑠偉は、私の薬指に指輪をはめて、額にキスを落とした。羞恥で真っ赤になる私を見て、目を細めて笑う奴が憎らしい。
旅に出るには――。
身近にいる厄介な人物に知られるな。
どうやら私の旅人計画は、当分延期されてしまったのだった。
(補足:ももは二十歳で大学を卒業。24歳の現在は社会人3年目です。)
今更ながら、ムーン様で掲載するべきだったか?と思い始めています・・・
後日、瑠偉視点の短編を投稿するかもしれません。
お読みいただきまして、ありがとうございました!
月城うさぎ