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とある副官の葛藤

俺には敬愛する上官がいる。


闇森に住まう銀灰狼獣人ハックフォルスト一族の出身である俺は、人間ではない。

稀少種である獣人が極秘裏に国家の保護対象となり、その存在を民間に伏せられて幾久しい。

しかし、縁あってこの国の文官補佐として出仕することになった。

俺の直属の上司は、書類仕事の得意な、ごく普通の人間の女性だ。勤続十年目にして初めて出来た副官を、随分と可愛がってくれている。


彼女の名は、ミルカ・エルネスティ。


あと二年で三十路という年齢にはとても見えないのは、やや幼い印象の顔立ちに加えて小柄な体つきのせいだろうか。

並んで立つとつむじが見下ろせる体格差だが、少女のような外見のわりに、纏う雰囲気は少女とは程遠い。

知性をたたえた紫水晶の如き大きな瞳。それを縁取る睫と同じ色の黒い巻き毛は、朝はきっちりと後頭部に纏められているのに、午後になるとほつれた毛束が首筋にこぼれ落ちている。奔放な髪質と仕事熱心な気質という相反する性質が絶妙に混在する彼女は、どうやら書類仕事をはじめとする事務処理は得意だが、手先はあまり器用ではないらしい。

昼下がりになると必ず纏め直す長髪は、鏡なしで纏めるせいか、朝よりも緩やかに、手抜きに近い適当さで後頭部に引っかかっていた。

教えてくだされば俺がやった方が上手く出来そうな気がするが、それは副官補佐の立場で許される行為なのかわからない。

艶やかなその黒髪にいつか触れてみたいと思う気持ちすらも許されざるものなのではないかと、分を越えた望みは抱かぬように毎日自分を戒めなければならなかった。


十八歳で王立の文官養成学校なるものを卒業したミルカ様は、高い事務処理能力と将来性を買われて総務省総務部特別管理監査課に配属されたそうだ。

ミルカ様自身は、「使い捨て要員だったのにうっかり雑草根性見せたせいで転属願いが受理されないままなし崩し的に十年経っただけ」と謙遜していらしただが、その実力は事務処理にとどまらない。

課長の出張査察時に発生した使途不明金を公費にねじこむべく財務課とやり合う姿は実に生き生きと輝いていて、つい目を奪われてしまう。

この課は、少数精鋭のみが所属し、極秘任務を主に取り扱う課だと聞いていた。

武術以外に取り柄も無い俺が、獣人であることを可能な限り秘匿するという条件ではあったが主席書記官補佐という立場に据えられたのは、ひとえにミルカ様という存在があってのことだ。

軍部を動かすことの出来ない極秘査察に伴う護衛役として、顔見知りであった課長の推薦で俺は雇われた。壊滅的な身体能力と方向音痴に体力不足という三重苦を抱えながらも、それを補って余りある有能さを備えた人材であるミルカ様を、確実に護衛する為に。

俺だけでなく彼女にとっても初の外勤任務となった査察で俺が獣人であるという正体が露見した時は焦ったが、彼女は嫌悪感を見せるどころか好意的に肯定してくださった。

王都に戻ってからは内勤ばかりなので、体がなまってはいけないでしょう、と、勤務時間の一部を軍部の訓練場での自主鍛錬にあてがってくださっている。なんと大らかな心配りをしてくださる上司に恵まれたのだろう。

勤務時間外に鍛えることは可能だし、ミルカ様にもそう申し上げたのだが、首を振って、勤務時間外はきちんと休息をとっておきなさい、と助言してくださった。

そういうわけで、俺はミルカ様のお言葉に甘えて、訓練場に日参している。



今日もそうだった。午前中はミルカ様が懇切丁寧に書類作成の指導をしてくださり、昼食後は訓練場で腹ごなしの運動をしてから執務室へと戻った。春先の陽気ですぐに乾くだろうと、水を浴びた後おざなりに拭っただけの髪の毛からは雫が垂れていたらしい。

ミルカ様が手ずから梳いてくださると主張されたので申し訳ないと遠慮したのだが、押し切られてしまった為、お願いすることにした。


ミルカ様は、時折そのような強引ともとれる言動をされる。なんというか、お顔は笑っているのに目が笑っていない。

信念に基づいた行動を実践されているゆえなのだろう、と拝察する。

部下がだらしない格好をしていては示しがつかないということを言外に含んでいるのかもしれない。婉曲表現というものに縁遠い環境で過ごしてきた不肖の身としては、はっきり言い渡されるよりも胸に刺さる。



執務机の引き出しには、ミルカ様によって毛繕い用ブラシが常備されていた。

なるべくならそれをご使用いただく機会を減らしたいのだが、なかなか難しい。

今日でついに三回目だ。女神の笑顔も三度まで、と俗に言うらしいではないか。まずい、もう後がない。


日当たりのいい場所にある窓際のソファーに腰を下ろして待つミルカ様をお待たせしてはいけないとわかっているのに、ぎこちない動きになってしまう。

紫水晶の瞳の真っ直ぐ射抜くような視線にさらされ、つい目をそらしてしまった。

上半身の衣服を脱ぎ、下衣のベルトを緩める。

この時点でもし誰かが入室したら、言い逃れが出来ないまずい状況になる気がする。

俺が獣人であることを伏せればミルカ様に不名誉な噂が立つだろうし、かといってバレれば文官補佐という立場を失ってしまうかもしれない。せっかく敬愛する上官に出会えたというのに、それは本意で無い。

己の至らなさゆえに生み出されてしまった状況が不甲斐なく、つい溜め息が漏れる。

無駄な時間を省こうと、素早く銀灰狼へ変化した。


「いい子だね、おいで」


満足げに促され、ミルカ様の足下に駆け寄る。

緊張しながら背を向けて座った。


「うふふ、暖かいからすぐに乾くわね」


柔らかな声が耳元をくすぐり、日差しの下でミルカ様の手が感触を確かめるように俺の背中を滑る。

毛並みをとかす手つきは優しく、鷹揚ながらも細やかな櫛運びが心地良い。

ブラッシングだけでも心地良さに屈伏してしまいそうなのに、時折乾き具合を確かめる手がもたらす感覚は、背筋がむずがゆくなるような落ち着かない気分にさせられてしまう。

このままでは、座っているどころか、自ら腹を見せ寝転がって降参状態でのブラッシングを懇願してしまいそうだ。

しかしそれは、立場上も性別上も許されざる行為だ。

おそらく、濡れた髪を放置というだらしない格好をしていた俺への罰なのだろう。獣人にとって毛繕いは、上位の者が下位の者に優位性を示す為の行為と、家族などの身近な相手にのみ許す信頼関係を築く為の行為とあるのだが、この場合は前者なのだと速やかに理解できた。

ミルカ様に声を荒げて叱責されたことは今のところない。大きなヘマをやらかしていないから当然なのかもしれないが、これが彼女なりの部下教育なのだと納得した。


ならば、己の本能に打ち勝ち、耐えてみせます!


そう決意した俺は、全身をくまなくブラッシングされて心地よさのあまり恍惚としようとも、ビシリと座った体勢をくずさぬよう、最後の気力を振り絞って頑張った。


ミルカ様の手が止まったので、気持ちよすぎる拷問もようやく終了かと安堵したのだが、おもむろに背中から重みが加わった。

ほんの少しの力が加わっただけだというのに、それはとどめの一撃だった。

気を緩めて敏感になった地肌に柔らかな温もりと重みが伝わったことで、俺の腰は完全に砕けた。

硬直してしまった体はぴくりとも動かすことが出来ず、己の意志とは裏腹に固まったままだ。


訓練場で負荷をかけるトレーニングをしたことはあるが、あくまでも人型においてだ。

筋肉が悲鳴を上げそうだというのに、ミルカ様は更なる負荷をかけて俺を戒める。

通常の状態ならば、獣型であっても、いかようにも受け止めるなり受け流すなり出来る。

しかし、硬直状態での抑圧は……想像以上に耐え難い苦しみだった。


なんとか弛緩させようと呼吸法を試しているところに背中の毛を逆立てるようになで上げられ、ゾワリ、と背筋が粟立つのを感じ唸り声を漏らしてしまった。

硬直状態を弛緩させたのは、えも言われぬ心地悪さと筆舌しがたい快感とが混ざり合った、初めての戦慄だった。


今のはなんだろうかといぶかりつつも、本能が命じるままに身を震わせてその感覚を逃す。

不可思議な感覚に翻弄されぬよう、それをもたらした手から距離をとった。

ミルカ様すみません、完敗です。

これが罰なら効果は覿面です。

もうだらしない格好で敷地内をうろついたりしません、だからもうお許しください。


言葉にならない懇願は伝わるはずもなく、ミルカ様の優しげな手はブラッシングを再開してしまわれた。

このままではまた腰砕けになってしまう。

獣人としても男としても、それは避けたい。

猛省していることをアピールして解放していただくべくミルカ様を振り仰いでみる。

が、満面の笑みで応えたミルカ様は、夕刻になるまでブラッシングを続行なさった。


なんと容赦のない、卓越した指導なのだろう。

叱責や罵倒、暴行による指導であれば、反骨精神だけでなく、反発心をも培われただろう。

ミルカ様の指導は、いかにして心地良さを辛抱して、尻尾を降らずにいられるかの精神修養となった。



結果としては心地良さのあまり執務室内の窓際でだらしなくも微睡んでしまい、地の果てまで落ち込むこととなったのだが、修行の足らぬ若輩者としては仕方のない結果だと自分に弁解するしかない。

打ち沈む俺の雰囲気の暗さを見かねたのか、ミルカ様は夕食を共に、と誘ってくださった。


彼女のご実家である民間の食堂で、たらふくご馳走になる。

別れ際、明日からもよろしくね、と、にこやかにフォローしてくださるミルカ様は、やはり尊敬に価する上官だと改めて確信した。


ミルカ様の、ひいては総務省総務部特別管理監査課の、更にはこの国のお役に立ちたい。

その為にはまず一日も早く一人前の主席書記官補佐となれるよう、全力を尽くすことを、自分に誓ったのだった。




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