とある上官の野望
ざっくり世界観のなんちゃって異世界が舞台です。
わたしには部下がいる。
勤続十年目にして初めて出来た、唯一にして、ちょっと変わった部下だ。
彼の名は、ディノ・トロワイエ・ハックフォルスト。
文官補佐でありながら筋骨隆々とした彼は、年齢不詳の顔立ちをしている。二十代から三十代までどの年齢を言われても納得できるが、実際は弱冠二十歳の老け顔青年だった。
若白髪かと疑っていた銀灰色の髪は生来のもので、それも年齢不詳な印象を彼にもたらす一因なのだが、張りのある肌は若さゆえに潤い、お肌の曲がり角を泣く泣く曲がって数年たったわたしは羨望の眼差しを向けるしかない。
年齢に不相応なのは外見ばかりでなく、冷静な判断力と落ち着いた雰囲気は、文官補佐に相応しい。
そんなれっきとした文官補佐でありながら、いかつい外見どおりの武術の腕前で、文官補佐にしておくには惜しい、譲ってくれ、と軍務省の顔見知りから幾度となく揶揄めいた懇願を受けるほどだった。
わたしが勤務する総務省総務部特別管理監査課、略して特管課は、出張査察が多い。しかも最上層部から通達される極秘任務が主であるため軍を動かすわけにいかぬ場合が多く、その為彼は文官補佐という立場でありながら、実際は出張査察の際のわたしの護衛が主要任務となる。
しかし、任務にかこつけて不在がちの出張大好き上司達のおかげで、わたしには殆ど外勤は回ってこない。
書類整理ばかりでせっかくの腕がなまってはいけないと、毎日彼を訓練場に送り込んでいるのだが、それが余計に軍人達と彼との交流を生み出し、ディノは文官補佐でありながら軍事関係者の知り合いの方が多いかもしれない。
いずれわたしの補佐の立場から異動して軍属に栄転するんだろうなあ、などと考えながらぼんやりと窓の外を眺めていたら、執務室の扉が開いてディノが戻って来た。
「今日の訓練は終わり?」
「はい」
水を浴びて汗を流してきたらしい彼の髪の毛が、まだ湿っている。
チャンスだ!
「ディノ、毛をとかしてあげる」
「いや、しかし……」
「前も言ったけど、遠慮はいらないから」
執務机の引き出しを開け、大事に仕舞ってあるブラシを取り出し立ち上がった。
せっかく用意をしてあるのに、使用する機会はまだ二回しか訪れていない。
これでようやく三回目だ。
書類はさっさと放り投げ、日当たりのいい場所にある窓際のソファーに腰を下ろして彼を待つ。
ついつい頬がゆるむのを自覚しつつディノを見つめると、承知いたしました、と目をそらしながら頷いた。
副官という立場のせいか押しに弱いらしい、と気が付いたのは、彼が配属されてかなり早い段階だった。
興味津々のわたしの視線から逃れるようにディノは背を向け、文官補佐用の上着を肩から滑らせる。わたしの向かい側に置かれたソファーの背に無造作にかけられたそれの上にシャツが重なり、ディノは上半身裸となる。見事に割れた腹筋は背を向けられているから確認出来ないが、鍛え上げられた背筋と上腕筋が逞しいシルエットを描き出す。
下衣のベルトを緩めた彼は諦めたような溜め息を深々と吐き出した後、おもむろに視界から消えた。
やがて、ソファーの陰から現れたのは、抜け殻と化した衣服を口にくわえた、銀灰色の狼が一頭。
「いい子だね、おいで」
器用に衣服をまとめた彼は、言いつけに従って小走りにわたしの足下に駆け寄ってくる。
大型犬よりもひと回り大きい彼はあらかじめ小卓を寄せて作ってあった空間に収まると、広くて大きな背を向けて行儀良く座った。
緊張しているのかピンと立った三角形の耳が可愛すぎる。
これが、勤続十年目にしてようやく出来た、わたしの部下。
口下手だけど気配り上手、書類整理よりも武術が得意で、押しに弱くて上官に従順な、ちょっと変わったディノ・トロワイエ・ハックフォルスト。
闇森に住まう狼獣人ハックフォルスト一族の出身である、ディノ副官。
「うふふ、暖かいからすぐに乾くわね」
少し湿った銀灰色の毛並みは、ブラッシングしているうちにふっくらとしてきた。
ソファーに座ったままじゃ届かない場所に手を伸ばすために立ち上がると、不安を浮かべた濃紺の瞳がこちらを見上げる。
「大丈夫よ、痛いことはしてないでしょ?」
困ったように鼻を鳴らしたディノの全身をくまなくブラッシングし、乾き具合を確かめるという名目で、剛毛だけど艶やかな手触りを楽しんだ。
最初の緊張が嘘のように気持ちよさそうに目を閉じている。
動物を飼いたいという幼い頃の夢は、食べ物を扱う生家ゆえ長らく叶わず、二十ウン年越しに職場で実現してしまった。
神に感謝をささげると同時に、軍属になる前にこの幸福を堪能し尽くしておかなければ、とも決意する。
犬を飼えたらやってみたいことは山ほどあった。
子犬時代の世話はもう無理だから諦めるとして、広い野原で取ってこい、肉球スタンプ、寒い夜に湯たんぽ代わり、背中に乗って散歩……は、比較的小柄だとはいえもう少女と言い難いわたしの体格じゃ実現不可能だろうか。
獣化したディノは大型犬よりかなり大きいし、人型の時に鍛えているから、もしかしたらもしかしないかな?
試しに背中からのしかかってみると、少し体重をかけたくらいではびくともしなかった。
うん、もう少し信頼関係を築いた後なら、押しに負けてお願いを聞いてくれるかも。
よろしくね、の意味を込めて抱きしめた銀灰狼の体は、がっしりと硬くてもふもふの毛からはお日様の匂いがした。
ああ、銀灰狼の毛並み最高。
他の狼や犬の毛並みを詳しく知らないから比較対象がないけれど、飼い犬の毛を心行くまでブラッシングしたいという長年の夢のひとつは確実に実現できた。
正確には飼い犬じゃないんだけど、この際細かいことには目を瞑ろう。
さしあたって、月に一度しか巡ってこないブラッシングの機会を週一回にする術はないものかと考えていたら徐々に全体重をかけていたらしいわたしの下で、ディノが弱々しいながらも抗議の唸り声をあげた。
「あ、ごめん、重かった?」
焦って身を起こすと、ブルルと身震いをしたディノが、わたしから少し体を離した。
……わたしの体重が負担だったという無言のアピールとしか思えない。
信頼関係を築き上げると同時にやっておくべき準備は……減量かもしれない。
ブラッシングを再開しながら考えるわたしから不穏な気配を察知したらしいディノが、微妙な表情を瞳に乗せて振り向いた。
「ディノが副官で良かった」
安心させるように満面の笑みで応えたというのに、ディノは目をそらして正面を向いてしまった。
野生の勘っていうのは侮れない。
でも近いうち、その鍛え上げた背中に乗せてよね。その為にも、書類整理はわたしがこなして、毎日訓練場に送り出してるんだから。
激しく公私混同しているという事実は見て見ぬふりをして、わたしは日が傾くまで副官の毛並みを堪能し続けた。