第一話 感謝の強要と秘密のノート
キーボードを叩く指先が、ふと止まる。リビングの方向から、耳障りな電子音とともに玄関のチャイムが鳴り響いたからだ。
パソコンの画面右下に表示された時刻は、午後四時半。私の仕事である在宅での経理入力業務が、ようやく佳境に入ろうとしていた矢先のことだった。
「里美さーん! いないのー?」
廊下から響く、遠慮のない甲高い声。義姉の真由美だ。
私は深いため息を一つだけ吐き出し、仕事モードだった頭のスイッチを強制的に切り替える。納期が迫っている案件があったけれど、この家において私の仕事など「暇つぶしの内職」程度にしか認識されていない。ここで無視を決め込めば、後で義母から何を言われるか分かったものではないからだ。
椅子から立ち上がり、重い足取りでドアを開ける。廊下に出ると、すでに勝手知ったる様子で上がり込んできた真由美と、その足元で騒ぎ回る二人の子供たちの姿があった。
「あ、いたいた。ちょっと、出るの遅くない? 呼び鈴二回も鳴らしちゃったよ」
「すみません、少し仕事に集中していて気が付かなくて」
「ふーん。まあいいけど。今日さ、夕飯一緒に食べようと思って来ちゃった。子供たちがどうしてもばあばん家に行きたいってきかなくて」
悪びれる様子もなく、真由美は脱ぎ捨てたパンプスをそのままにしてリビングへと入っていく。子供たちがドタドタと走り回る振動が、床を通して足裏に伝わってくる。
その後ろ姿を見送りながら、私は散乱した靴を揃えるためにしゃがみ込んだ。
「一緒に食べよう」という言葉は、「夕飯を用意しろ」と同義だ。しかも、大人四人と子供二人分。冷蔵庫の中身を瞬時に思い出し、足りない食材を計算する。
リビングに入ると、ソファの特等席には義母の悦子が陣取り、真由美と並んでワイドショーを眺めていた。義父の耕造は自室にいるのだろう。
「あら、里美さん。真由美たちが来るなら来るって、もっと早く言ってくれればいいのにねえ。急にお客さんが来て、お茶の一つも出さないなんて気が利かないわよ」
義母は私の顔を見るなり、開口一番そう言った。アポなしで突撃してきたのは真由美の方だという事実は、この家では都合よく書き換えられる。
「申し訳ありません。すぐにお茶を入れますね」
「ああ、それとね。今日の夕飯だけど、真由美が久しぶりにすき焼きを食べたいって言うのよ。悪いんだけど、今からお肉買ってきてくれない? 駅前のデパートに入ってるお肉屋さん、あそこの特上ロースでいいわよね、真由美?」
「うん、あそこのお肉美味しいもんね。あ、ついでに子供たちのデザートにケーキもよろしく。駅前のパティスリーのやつね」
当然のように降ってくる命令。私は表情筋を動かさないよう意識しながら、静かに問い返す。
「わかりました。……あの、お義母さん。今月の食費の袋、もう残りが少なくて。お肉代、別でいただけますか?」
義母の眉間にはっきりとシワが寄った。テレビから視線を外し、信じられないものを見るような目で私を見上げる。
「はあ? あんたねえ、孫が可愛い顔を見せに来てくれたのよ? そのくらいの出費、どうして気持ちよく出せないのかしら。だいたい、普段家賃も払わずにここに住まわせてもらってるんでしょう? 光熱費だってタダ、屋根のある家で雨風しのげて、その上でお金まで無心するの?」
出た。この家の常套句だ。
「住まわせてやっている」。この言葉が出れば、私は黙るしかないと彼らは学習している。
「……いえ、無心だなんて。わかりました。私の財布から出しておきます」
「そう、最初からそう言えばいいのよ。可愛くない嫁だこと。あ、お肉は一キロね。亮介も食べるでしょうし」
私は小さく頭を下げ、逃げるようにリビングを出た。背後から「本当にケチくさいわねえ」「昔から貧乏性なのよ、あのこ」という笑い声が聞こえてくる。
自室に戻り、財布とエコバッグを掴む。
家賃も払わず、光熱費もタダ?
とんでもない。
この家の光熱費も、水道代も、ネット回線費用も、すべて私の口座から引き落とされている。義父の定年後、家計が苦しいと泣きつかれ、「同居させてもらうなら」と私が負担することになったのだ。食費だって、義母から渡される金額は雀の涙ほどで、実際には月の半分以上を私が補填している。
けれど、彼らの脳内では、その事実はなかったことになっているらしい。「家という箱を提供している」という一点のみで、彼らは神にでもなったつもりでいる。
夕暮れの商店街は、買い物客で賑わっていた。
精肉店のショーケースに並ぶ、霜降りの牛肉。百グラム二千円。これを一キロ。
私の数日分の稼ぎが、一瞬で彼らの胃袋に消える計算になる。
店員に注文を告げながら、私は奥歯を噛み締めた。怒りで震えそうになる指先を隠すように、財布から一万円札を数枚取り出す。
(美味しいお肉ですね、楽しみです)
心にもない言葉を飲み込み、重くなったエコバッグを肩に食い込ませて歩き出す。
途中、指定されたパティスリーでケーキを買い、スーパーで野菜や豆腐、しらたきをカゴに入れる。自分のための安い特売の卵も忘れずに。
帰り道、西日が長く伸びた自分の影を照らし出していた。
重い。荷物が重いのではない。この家に絡みついている、見えない鎖が重いのだ。
それでも私は、この家に帰らなければならない。愛する夫、亮介がいる場所だから。そう自分に言い聞かせ、私は再びあの「牢獄」への道を急いだ。
帰宅すると、家の中はさらにカオオスと化していた。
子供たちが持ち出したおもちゃが廊下に散乱し、義父の耕造も起きてきて、リビングでビールを開けている。
「おい、遅いぞ。何時だと思ってるんだ。腹が減って目が回る」
「すみません、お肉屋さんが混んでいて」
「言い訳はいいから、早く支度しろ。真由美たちを待たせるな」
私は息をつく暇もなくキッチンに立ち、野菜を切り始める。
背後では、楽しそうな家族団らんの声。
「じいじ、これ買ってー」「おお、よしよし、今度買ってやるからな」「お父さん、甘すぎよー」
そこに私の居場所はない。私はただの、便利な機能がついた家政婦でしかないのだ。
割り下を作る甘辛い匂いがキッチンに充満し始めた頃、夫の亮介が帰宅した。
「ただいまー。うわ、いい匂い。今日すき焼き?」
「あ、亮介おかえり。真由美たちが来てるのよ」
義母の声が弾む。
キッチンに入ってきた亮介は、私の背中に向かって小声で「ごめん、姉ちゃん来てたんだ」と呟いた。
「うん……お帰りなさい。着替えてきて。すぐできるから」
「手伝おうか?」
「いいよ、もう終わるから。それより、お義父さんたちの相手してあげて」
亮介はほっとしたような、それでいて少し申し訳なさそうな顔をして、リビングの方へ行ってしまった。彼は優しい。けれど、その優しさは争いを避けるための事なかれ主義と表裏一体だ。両親と姉の横暴を分かっているはずなのに、彼は決して強くは言わない。「母さんたちも悪気はないんだ」と、私に我慢を強いることで家庭の平和を保とうとする。
夕食の席は、地獄のようだった。
卓上コンロの鍋の中、ぐつぐつと煮える高級肉。
私は給仕に徹し、皆の取り皿に肉や野菜をよそっていく。
「やっぱり高い肉は違うなあ! うまい!」
「本当ねえ。里美さんの安月給じゃ、普段こんなの食べられないでしょ? 今日はご馳走にありつけてよかったわね」
義姉が肉を頬張りながら、意地悪く笑う。
私が稼いだお金で買った肉だ。それを「ご馳走にありつけて」とは、どの口が言うのだろう。
「いただきます」
私がようやく自分の皿に箸を伸ばそうとした時、鍋の中にはもう肉はほとんど残っていなかった。残っているのは、煮詰まった春菊と豆腐だけ。
それでも文句を言わず、私は豆腐を口に運ぶ。
「そういえば、里美さん」
ビールで顔を赤くした義父が、説教モードに入った声を出した。嫌な予感がする。
「はい、何でしょう」
「お前、最近ちょっと顔つきがきついんじゃないか? 女は愛嬌だぞ。せっかくこうして家族が集まってるのに、一人だけ仏頂面して」
「そんなつもりはありませんが……」
「口答えするな。だいたいな、お前は感謝の心が足りんのだ。亮介と結婚できたのも、こうして立派な家に住めるのも、誰のおかげだと思ってる」
義父の言葉に、義母が我が意を得たりとばかりに頷く。
「そうよ。今の若い人は権利ばかり主張して、義務を果たさないんだから。家賃もかからない、同居で寂しくない、こんな恵まれた環境ないのよ? 世間の嫁は、住宅ローンに追われて共働きで必死なんだから。お前は楽させてもらって、本当に幸せ者だわ」
楽?
朝五時に起きてお弁当を作り、洗濯と掃除を済ませてから在宅の仕事をし、義父母の昼食を作り、また仕事をして、夕方には買い物と夕食の支度。夜は後片付けとお風呂掃除。
休日など一日もない。その上、生活費の大半を負担している。
これが「楽」なら、世の中の苦労とは何なのだろう。
私はちらりと夫を見た。亮介は気まずそうに視線を逸らし、黙々と白菜を食べている。
ああ、期待するだけ無駄か。
「……おっしゃる通りですね。いつもありがとうございます」
私は口角を無理やり持ち上げ、笑顔を作った。
ここで反論しても、倍になって返ってくるだけだ。それに、今の私には反論よりも優先すべきことがある。
「分かればいいんだ、分かれば。ほら、肉もうないぞ。追加はないのか」
「すみません、一キロ全部食べ切ってしまって」
「なんだ、気が利かんなあ」
舌打ちをする義父。
その後も、延々と続く「住まわせてやっている」という説教と、真由美の子供自慢、そして私への当てこすりを聞き流しながら、私はただ機械的に箸を動かした。味などしなかった。
食事が終わり、真由美たちが嵐のように去っていったのは夜の九時過ぎだった。
散らかり放題のリビング。テーブルに放置された汚れた皿。
義父母は「あー疲れた」と言って、さっさと風呂に入ってしまった。
亮介は「俺、皿洗うよ」と言ってくれたが、彼の手つきは危なっかしく、結局私がやった方が早い。
「いいよ、座ってて。明日も仕事早いんでしょう?」
「ごめんな……母さんたち、ちょっと言い過ぎだよな」
「……いいの。慣れてるから」
慣れてなどいない。慣れてはいけないのだ、こんな理不尽に。
けれど、今の私は以前のようにメソメソと泣いたりしない。
冷たい水で皿を洗いながら、私の頭の中はクリアに研ぎ澄まされていた。今日の出費。労働時間。言われた言葉。すべてがデータとして脳裏に刻まれていく。
深夜一時。
家中の明かりが消え、寝室からは亮介の寝息が聞こえてくる。
私はそっとベッドを抜け出し、音を立てないようにデスクの前に座った。
薄暗い部屋の中で、ノートパソコンの画面だけが青白く光る。
デスクトップの深い階層に隠されたフォルダ。その中にある、『生活台帳』というタイトルの表計算ソフトを開く。
そこには、結婚して同居を始めてからの二年間の記録が、びっしりと埋め尽くされていた。
日付、項目、金額。
そして、家事労働を時給換算した「未払い労働賃金」の試算。
私は慣れた手つきで、今日のデータを入力していく。
『202X年5月12日』
『食費(夕食・義姉家族分含む):14,800円(立替分回収不能)』
『家事労働(買出・調理・配膳・片付):3.5時間 × 1,500円 = 5,250円』
『精神的苦痛(暴言「住まわせてやっている」「穀潰し」等):プライスレス(要記録)』
エンターキーを押す音が、静寂な部屋にカチリと響く。
画面上の「貸方」の合計金額が、また跳ね上がった。
これは単なる家計簿ではない。
彼らが私に負っている「債務」の記録であり、いつか突きつけるための「請求書」の原案だ。
「住まわせてやっている」という言葉が、どれほどの欺瞞の上に成り立っているか。
彼らは気づいていない。自分たちの足元が、私という柱によって支えられていることを。そしてその柱が、今にも抜けようとしていることを。
画面を見つめる私の口元に、自然と冷たい笑みが浮かぶ。
怒りではない。悲しみでもない。
あるのは、確実に証拠を積み上げているという、冷徹な達成感だけだった。
「……あと少し」
来週には、義祖父の法事がある。親戚一同が集まる、義実家にとって最も重要なイベント。
そこで何かが起きる予感がしていた。
義母はきっと、その準備のすべてを私に押し付け、また金銭を要求してくるだろう。
それが、終わりの始まりになるかもしれない。
私はファイルを保存し、パソコンを閉じた。
暗闇に戻った部屋の中で、私は大きく息を吸い込む。
さあ、明日もまた「良き嫁」を演じましょう。
その日が来るまでは。
私は音もなくベッドに戻り、何も知らずに眠る夫の背中に背を向けて目を閉じた。
瞼の裏には、積み上がっていく数字の羅列が、鮮明に焼き付いていた。




