第11話 氷解
多摩川沿いの約二十五万世帯、五十六万人以上に避難指示が出された、台風二十一号の猛威。台風のピークから二日経っても、その爪跡を街に残していた。
ようやく晴れ間がのぞいたのは三日後のことだが、低地では多くの家が浸水したままであった。ようやく水が引いても、汚泥の除去や濡れた家具の廃棄などに忙殺され、復旧までには遠くしばらく避難所生活が続く住民も多い。
等々力のエルフィは台風の通常営業を再開していたが、避難所へのシュネーバルの差し入れは続いていた。店頭販売のものとは別に揚げていき、各避難所へ無料で届ける。他にも食料の支援物資はあったが、避難者たちにとってシュネーバルは暖かい笑顔になれるありがたい菓子であった。
そんな折、エルフィの扉が開き、思わぬ来客が現れた。
「松風くん……!」
淡雪の声が、思わず高くなる。
キャリーケースを引きやって来たのは、長崎にいるはずの赤瀬松風であった。
調理場にいた氷見子も粉を振るう手を止め、顔を出す。
「松風じゃねえか。どうしたんだよ」
氷見子が興味津々に聞いた。松風は照れたように笑う。
「大将……淡雪ちゃんのお父さんが、しばらく手伝って行けって」
「へー、淡雪の親父さん、ついに淡雪を許したんだな」
「いや、まだ相変わらず、二度と敷居は跨がせないって言ってるけどね……」
松風の報告に、父らしさを感じた淡雪は苦笑する。
松風は師匠の白瀬餡次の指示で、三日間ほどエルフィを手伝うことになった。東急大井町線で二つ隣の駅の二子玉川のホテルに宿泊の手配をしているという。
正直、まだ何ヶ所もの避難所への支援が続いている今、男手があるのはありがたい。
松風はさすが大手飲料メーカーでルート営業をしていただけあって、外回りが非常に巧みであった。効率良く避難所を周り、現地の要望を拾い上げてきて、分かりやすくまとめて報告する。
調理場に入っても、菓子職人の道を歩んでいる松風は手際が良かった。氷見子の指示に応えて、無駄のない動きで生地を仕上げていく。
その日、学校を終えて店に来た霜山六花も、松風の姿を見て驚き、口に手を当てて喜ぶ。六花はすでに、淡雪と松風をモデルにしたロマンス作品を小説投稿サイトで勝手に書き始めており、よからぬ妄想で頭が沸騰している。
閉店後に六花は帰宅し受験勉強。淡雪と氷見子は近くにある行きつけのイタリアンレストランに松風を誘った。
松風は、白瀬餡次の病室での様子を淡雪に伝えた。
関東に台風が上陸した翌日のこと。
長崎市内の病院に入院していた白瀬餡次は、ベッドに背を預け、テレビ番組をじっと見つめていた。
全国ネットの情報番組で、避難所の支援物資の混乱や規則の問題をコメンテーターたちが討論している。そしてVTRでは、淡雪が避難所へと駆け回っている様子が映っていた。
「大将……。淡雪さん、立派じゃないですか」
松風と一緒に餡次の様子を見に来ていた古参の職人の阿比留寿蔵が、淡雪の奮闘を追う映像を見ながら、優しく餡次に言った。
餡次は「ふん」と鼻を鳴らし、険しい表情のままテレビを凝視する。
温和な寿蔵は、さらに柔らかで優しい笑顔になる。
「淡雪さん、本当にしっかり者になって……。あの日のことを思い出しませんか、大将」
「あの日のこと、って……?」
持ち帰る服やタオルを整えていた松風が、つい訊いた。
寿蔵は優しい笑みを見せながら答える。
「大水害のことさ。わしや大将が店に入ったばかりの頃で、今から四十年以上前のことになるが……」
「寿さん……。いいよ、その話は」
餡次は照れるように眉をひそめる。だが阿比留寿蔵は話を続けた。
今から四十年以上前の昭和五十七年、長崎は未曾有の大水害に見舞われた。
平地が少なく坂の多い街。各地で土砂災害が起こる。自衛隊の災害派遣も遅れていた。
入社したばかりであった若き日の阿比留寿蔵の実家も土砂崩れで倒壊してしまい、老齢の祖父母が下敷きになった。
この時、店から寿蔵と共に阿比留家の実家に駆けつけたのが、餡次の七歳上の兄・白瀬糖太である。しらせ堂本舗の十三代店主の息子。十四代を継ぐために修行中であり、天性の舌と技術を持る逸材。阿比留寿蔵にとって頼れる兄弟子であった。
二人は力を尽くして、寿蔵の祖父母を瓦礫の下から救い出したが、白瀬糖太は崩れた材木の下に押しつぶされて死亡してしまった。
優秀な後継者を失った十三代店主は大いに嘆いた。だが店の歴史を途絶えさせるわけにはいかない。
建築士を夢見て福岡の大学に通っていた次男の餡次を呼び戻す。そして兄の糖太に変わって十四代を継ぐように切望した。
後継ぎには餡次しか残されていない。餡次は建築士の夢を泣きながら諦め、やむなく和菓子の道に入り、後に十四代店主となったのである。
阿比留寿蔵は自分の家族の救助のために命を失った白瀬糖太、そしてそのために夢を諦め大将となった白瀬餡次の献身に涙し、生涯この店を支えていくことを誓った。そして今では最古参の職人となっている。
寿蔵が涙ながらに過去を語る姿に、病床の白瀬餡次はゆっくりとため息をついた。
そして、画面に映る関東の水害の様子を見ながら、松風に告げる。
「松風……」
「はい」
「おまえ、しばらく、ここと店のことはいい」
「えっ」
「東京に行って、三日ほど手伝ってこい」
それは冷たくもあり、温かくもある声であった。その顔は無表情でもあり、愛に溢れた表情にも見えた。そして何より、その心を分厚く覆っていた氷が次第に溶解していっていることが、松風の目には見えた。
「はい。すぐに!」
松風は後の世話を寿蔵に任せ、病室から飛び出していった。こうして、松風は三日間の手伝いを命じられて上京したのである。
松風から父の様子を聞かされて、淡雪は苦笑する。病床での父の表情が、鮮明に想像できた。
(お父さんらしいな……)
父はきっとまだ、淡雪のことを認めてはいない。許してもいない。
だが、水害に大きな思い入れのある父だけに、水害の被害に遭った人々に真摯に向き合ったことだけは感心してくれたのだろう、と淡雪は感じた。
父もまた、店の人たち、地域の人たちのために、夢を捨ててまで菓子職人の道を選んだ陰徳の人。
その血を、自分は受け継いでいる。
いつか必ず父にも……。
淡雪の瞳は涙に潤む。
氷見子は何も言わず、グラスを淡雪の前にそっと置いた。松風もまた、静かにうなずく。
言葉は要らなかった。
淡雪の心の氷が少しずつ融け出しているのが、二人の目には見えているから。
(第五部へつづく)




